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神社と戦争

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写真は古代律令制時代の胆沢城の北東鬼門に位置する八幡神社。
胆沢城は、鎮守府の置かれた地で、
一関から盛岡北方全域を呼ぶ「奥六郡」地域のヤマト朝廷の支配の象徴。
歴史では、そういう開設時の思惑は紆余曲折を経ていて、
開設から時間が経つと、現地豪族化した安倍氏がここをむしろ根拠地として
のし上がっていくことになります。
後に「征夷大将軍」という朝廷の一武権が頼朝によって
権威化されていくことになるので、忘れられがちですが、
この地の武権である「鎮守府将軍」というものも、
征夷大将軍と並列的な存在であったとされています。
そうした経緯があったので鎌倉幕府以降、
意識的に、東北地域の歴史を正史に登場させないような配慮が
武家政権側としては、一貫したのかも知れませんね。
まぁ、そういう経緯は別として、
こういう城郭施設では、併置的に神社のたぐいが建てられます。
ここでは「八幡神社」なので、源氏とのつながりが認められます。
安倍氏を滅ぼした源為義・義家親子の名前が「縁起」に記されていました。
そういう意味で、神社というものがなんのために建てられるのか、
という事情のひとつに戦争への準備の側面があきらかだと思われます。
きっと、安倍氏清原氏との戦争などの戦勝祈願・閲兵など、
戦士の士気高揚のために利用したものでしょうね。
命のやり取りをする前に、精神的な準備をさせる、考えればなんとも血なまぐさい。
後の世では、信長が桶狭間合戦前に神社で閲兵して
社の中から鳩が飛び立つ仕掛けをして、戦意の高揚を計ったとされています。
死にたくはない、しかし、戦争に勝つことで運を開きたい、
そういう戦争に駆り出されたひとびとにとって
こういう「宗教施設」はどのような空間であったのか、
思いはいろいろに浮かんできて、無常観を抱く次第です。
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