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経済活動の進化と交易

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店舗って、そのエントランスのたたずまいで
一瞬のうちに「すべてをメッセージ」する必要がある。
建築のなかでも、とくにそういった面が必要とされるものですね。
わたしたちは日本人なので、日本的な訴求ということには
オーナーと建築人対ユーザーという長い対峙関係の経験値をひとりひとりが持っている。

いま、網野善彦さんの「日本の歴史を読み直す」を読みつづけています。
そのなかで、「交易」と「市場」という経験の積み重なりについて
いろいろな研究を読み進めています。
このテーマ、本当に奥行きが深く広くて、ドツボっぽいのですが(笑)
しかし、死ぬまで楽しんで思索し続けて行くには格好。
たぶん、というか、当たり前ですが、
結論なんて出るわけもないし、移ろいゆくものでしょう。
とくに貨幣というものが、わたしたちのこの列島社会に根付いたのは
ようやく14-15世紀と言われています。
しかし、それより前から「交易」ということは行われてきたわけで、
その交易のなにかの発展が、貨幣の必要性を生み出したのだと言えるのでしょう。
日本社会は、米作を社会単位として請け負う
「ムラ」が基本だということは間違いがない。
そのムラは、庄屋などの支配的管理者が存在し、かれらが
支配階級への「租税収入」を現地で請け負って納税してきた。
かれら階層は識字率も高く、非常に「自治能力」もきわめて高かった。
そして経済活動がどんどん活発になってくると、
自分たちの生産物の「交易」による収益の高度化を図りたくなってくる。
ただ単に、基本生産物であるコメの納品だけでは、もったいないとなっていく。
そのコメなりを「交易」を通してより付加価値を高めて貨幣価値に換算して、
少しでも自分たちに有利なようにしたい、という欲求が高まったのだろう。
だから、単純なモノとモノとの交換である「交易」ではなく、
ビジネス的に頭を使って、貨幣での「納税」をした方がはるかに有利だったのだろう。
江戸期の、こうした庄屋階層と武士階級との関係をつぶさに見れば、
こうした社会の様相がくっきりと浮かび上がってくる。
「貨幣」をこの列島社会にきわめて目的的に導入してきたのは
平清盛を中心とした平氏政権と、その政策を基本的に支えた「金の産出」を
請け負っていた平泉独立政権だったのだと思います。
12世紀のこの変化がどんどん社会に浸透していって
爆発的に社会を転換したのが、14-15世紀だったのではないか。

交易と貨幣経済こそが、
基本的にこの列島社会の進化の基本因子を構成してきたのではないか。
そんな思いが、こうした店舗デザインを見ていて、
強く感じさせてくれるのです。
きのうから、取材で本州中部地区・飛騨高山などを巡っていますが、
そのいっとき、ふと足が止まってしまった店舗のたたずまいに
そんな妄想を抱かせられていた次第であります。

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