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縄文の高床建築

この夏に見た三内丸山遺跡の写真です。
縄文時代というと、住宅はおおむね竪穴住居という先入観念があったのですが、
最近の発掘で、こういった高床式建物もその存在が確認されてきている。
推定年代は、いまから4500年前。
屋根は切妻。材料は三内らしくクリの木。広さは8.4m×4.2m、高さは6m。
高床式建物というのは、
木と木を組み合わせる接合部の強度を確保するためには
技術的な一定のレベルが必要だと思うし、
接合部をくりぬいたり、組み合わせたりするには施工レベルも必要になってくる。
今の時代のように、「鉄器」がないだろう時代に、
鋭利な石器が想定される道具を使って、まことに見事に作り上げたものだと思う。
そうした技術の高度化は、必要性という「母」が存在して成立したものだろう。
その母性とは何か。

考えられるのは2つ。
ひとつは、食料保存のための「倉庫」が必要不可欠になったこと。
三内丸山は「縄文の都」といわれるほどの都市構造を持っていたので、
そうした社会的な要請として、食料中央保管施設が必要になったという考え方。
そしてもうひとつは、
最近、温暖地の建築研究者から聞かされたのですが、
竪穴住居は冬には、寒さから人を守ってくれるけれど、
夏になれば、湿気が多く、またそのなかで煮炊きをすると耐えられないほどに暑くなった、
というように、夏の気候にはアジャストしていなかったので、
「夏の家」という居住性を求める必要があった、という考え方。
この辺になると、どちらとも
まだ、結論が出ていないようですが、
しかし、高床式の必要性はおおむねこの2点には絞られるでしょう。
その両方の考え方だったのかも知れません。
また、この時期の青森県地域はいまよりも温暖で、
現在の関東地域くらいの気候条件であったといわれています。

しかし、それにしても、
技術的には、その後の日本の歴史に登場する
出雲大社を始祖とするような、大型木造建築のルーツが、
ここではまごうことなく存在していたといえる。
縄文という世界は、まさに豊穣な日本文化のゆりかごを形成していた
そういうように大きな母性を感じる。
これはなんだろうと考えながら、
その醸し出すおおらかな優しさ、たくましさに
深く癒されていく自分自身というものを感じ続けていました。

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