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ふしぎな郷愁感

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表題に書いたような、縁もゆかりもない場所なのに、なぜか郷愁を感じる
っていうような感覚に捉えられる風景の場所がありまして
いろいろと想像して楽しんでいます。
この写真の場所は、青森県の黒石市の山側でして、
八甲田山系を縦断する道に面しています。
前にも一度、通りかかったことがありまして、
つい先日、1ヶ月ほど前にも通りかかりました。
まぁ、なんの変哲もないような、こんなような風景でして、
前面に川が流れていて、その先に段々状の畑地や田んぼが連なっていて
里山の背景として、低い山が連なっている。
というような、それこそどこにでもあると思える風景ですね。
SF的な想像力はあんまり興味がないし、
べつに疲れ切っていての「既視体験」というものでもないのは
2度目にも、やはり同様な印象を抱いたことから、明らかです。
というようなことで、考えてみると
どうも、3才まで過ごしていたという幼少期のわたしが
見ていたに違いなさそうな光景と似ていそうだ、ということに気づいた次第。
わたしは北海道栗沢町と岩見沢市の狭間の川縁の農家住宅で育ったのです。
3才といっても、実際には、丸2年間
こういう風景とよく似た土地に建っていた家で過ごしていたようです。
まぁ、そういう時期ですから、定かな記憶があるわけでもありません。
いまは高速で行けば、そう時間もかからないので、
折に触れて通りかかることがある生地の風景と符合する印象。
といっても、普段はそんなに気に留めているわけでもないのに、
そういう記憶を、この写真の場所は思い起こさせるわけですね。
最近よく、「住む場所」っていうことについて考えます。
現代の都市生活って、縁もゆかりもない土地に、
上下水道だとか、交通の利便性だとか、という住宅地としての機能条件で
希望したり、やむを得ずっていうようなことで
多くの人が住んでいるっていうのが一般的。
あんまり土地とのつながりや連関性というのは、希薄になっています。
まぁ、古民家とか取材していても、そういう側面はまるでないとはいえませんが、
しかし、多くの場合は、根がらみで土地と生活基盤は密接に結びついていた。
苦労や、大変さもあったけれど、土地への愛着・執着はあった。
一方、現代では、定年後の団塊世代の「移住」の話題が
政府や行政機関の主要なテーマとして浮かび上がるほどに
土地との連関性が薄い暮らし方が、一般化した。
今、住んでいるだろう場所に、愛着などあろうはずがない、
というような前提が、こうした団塊世代移住には視点として存在する。
そのようにしか考えられない地域に、
長い人生時間を関わらせるのが、現代生活なのかなぁ、と思う次第。
地縁というようなものは存在せず、
定年退職という職縁関係の消滅という時点で、居住地域などという部分は
どうとでも変えられるのだ、ということなのですね。
中国なんかでは、国家の政策変更で容赦なく庶民から
土地を奪っていくのが平気で行われているそうですが、
多少の違いはあっても、似たようなものとは言えるのでしょうか。
考えてみれば、こういうのって、すごいことですよね。
その家を巣立った子ども世代からすれば、
かけがえのない生家の記憶を消し去ることでもありますね。
確かにこれだけ、移動の手段が高速化し、
情報の重要性の方が増してきている社会では、
土地へのこだわり、とかという部分は意味がなくなっていくものなのかも知れません。
しかし、本来的な意味で言えば、
家は、住宅は、その本質的な部分で、それが建っている敷地から
無縁ではいられない、というもののような気がします。
さてこのあたり、どのようになっていくのか、思いが沸いてくる部分です。

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