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【歴史の中での地震とその影響】

今回の大阪北部地震では、よく行っていた箇所の映像が
繰り返し、テレビなどで報道されていました。
やはり最近「関西版」の活動が活発で、往来があるものですから
知人のみなさんの様子など、非常に身近に感じられていました。
東日本大震災でも、わたしは3.11の2日後3.13に仙台出張を控えていて
テレビの光景を見ながら、呆然としていた記憶があります。
地震大国ニッポンに住んでいる以上、これはどうしても避けられないですね。
普段からの備え、考え方をアジャストさせていくしかない。
いろいろな今回地震に関する情報が出てきています。
熊本地震との類似性を指摘する意見もあるようです。
直下型地震は、今後とも危険姓が高いとされている。

わたしは、司馬遼太郎さんの耽溺型読者ですが、
戦国期を書いた著作の中で、慶長伏見地震と秀吉政権の記述がある。
今回の地震はどうもあのような地震と似ているのではないかと感じた次第。
当時、秀吉政権の本城も大きな被害を被ったとされる地震です。
伏見城の外壁も剥落してその壁に政権批判が書かれたともされる。
1596年となっているのですが、
それに先んじる10年前、1586年にも大きな地震が連続したとされる。
上図はわたしの個人的エクセルで「三木家と日本史」みたいなデータの一部。
パソコンでのデータ管理のひとつとして、続けているのですが、
こうやって年表形式で独自に自分の家系関連の時系列をまとめています。
歴史を学ぶ楽しみがこういうデータ管理の結果、より深く楽しくなる。
で、この「天正地震」は、秀吉と家康の関係としても画期になったとされます。
NHK-BSで放送されている『英雄たちの選択』で取り上げられていました。
このふたりは歴史の主役であり、その後秀吉政権に家康が取り込まれますが、
しかし2年前の小牧長久手合戦衝突以来、
なかなか和平方向に事態が向かわず、むしろ秀吉側も家康側も
極限まで緊張が高まり、戦争準備が活発だったようなのです。
秀吉側では最前線基地に大量の武器弾薬・兵糧を準備していたようであり、
家康側も本拠地・三河は全土にわたって要塞化されていた。
そういう極限的緊張状況になっていたときに、地震がやってきた。
家康側では被害記録が必ずしも明瞭ではないようですが、
政権側、秀吉側ではこの兵糧・武器が灰燼に帰した記録がある。
こうした政治軍事的緊張を度返しにさせるほどの甚大な被害を
この「天正地震」はパワーとして持っていたのだと。
考えてみれば当たり前で、軍事は極限化された「政治プロセス」であり、
それが天変地異の影響を受けないわけがない。
まぁ現代のように税が復興に向けられるというようなことは考えにくいにしても、
さまざまな人工としての徴用動員活用に置いて、民のくらしの疲弊は
直接的な指揮命令系統に障害をもたらせたに違いない。
非常に天変地異が多発した時期に秀吉の政権はあったようです。
それなのに朝鮮に出兵したりする軍事拡張路線を取っていた。
その後の家康の国内統治が人心を得ていった背景に、
こういった地震活発化、民の厭戦気分も与っていたと推測します。

で、この歴史時期には大きな地震は重なって起こっている。
今回も活発期に入った可能性がある。安全安心の心がけが重要。
ただ、わたしどもでも「関西版」での活動が本格化するので往来は活発。
十分に気をつけながら対応していきたいと思います。

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