本文へジャンプ

【環境建築論と京都山崎・聴竹居】


今週から本格的に仕事再起動であります。
で、昨年12月に東京工業大学・川島範久さんをお迎えして実現した
北と南の環境住宅論議でしたが、ことしのひとつのテーマとして
昨日、多くの参加者のみなさんにもこの論議のテキスト資料もお渡しして、
今後、よりいっそう論議を深めていきたいと考えております。

日本の住宅建築論については、やはり首都がある東京、
そして長い文化伝統の積層がある本州以南地域が中心的に存在し、
その民族的生活領域の先端的拡大地域としての開拓140年を超えた
寒冷地・北海道はそれとはまた違った「高断熱高気密」という
建築思想を体験してきている。その大きなふたつの流れの間で、
日本民族としての経験知に踏まえた論議が求められていると感じています。
この間、ちょうど一定の年末年始の休暇があったので、
わたしとしては、最近「環境住宅」という意味合いから
大きく注目されてきている京都・大山崎の地、建築家・藤井厚二自邸
「聴竹居」を訪れる機会を得ました。建築は昭和3年。ほぼ90年前。
事前に趣旨を説明し、場合によっては取材となる可能性もお話して、
今回、撮影許可もいただいて見学して参りました。
今上天皇皇后両陛下も最近、この住宅建築を訪れられたそうです。

2枚目の写真の「縁側」の位置からは、
日本有数の「要衝地」であるこの山崎・天王山から
淀川などの日本の大動脈となった地域が一望の下に見下ろせる。
いまも、名神高速が走り、新幹線の大動脈が走っている。
まさに日本という社会の成熟発展が凝縮されたような土地です。
かつて、戦国の時代には信長を討った明智光秀と、
その弔い合戦としてのちの大飛躍を勝ち取った秀吉が会戦した
日本史のなかの「るつぼ」のような立地条件だといえます。
いまはのどかな地方駅を下り、線路を山側に渡って上っていく高台に位置。
「天王山」という史跡碑も置かれていました。
そしてさらに、この建築家・藤井厚二さんは、
江戸期まで広島県福山市近郊の要衝地「鞆の浦」で商家を営まれていた
その次男坊であったという経歴も聞き及びました。
私事ですがわたしの家系伝承でもこの鞆の浦とは因縁もあり、
江戸期、国内経済の大動脈であった瀬戸内海交易のまさに中間地点として
尾道と共に、この鞆の浦は活況を呈していた事跡には知見もあります。
数年前には鞆の浦に建つ福禅寺、その主用途・朝鮮通信使迎賓施設も
体感してきております。対潮楼と名付けられた楼閣からの眺望は
かの通信使をして「日東第一」(日東とは日本)の景勝と謳われてもいます。
という事跡から、この鞆の浦がいかに交易の中心要衝地であったかが、
明瞭に見えてきます。そういった背景を持った人物として、
家系の資産を傾けても「その国を代表するものは住宅建築である」という
考え方を体現し、試行錯誤しつつなんと5軒までこの地に私邸を建て続けた。
現在残っているこの「聴竹居」は第5住宅とされています。

・・・どうも住宅自体のことに筆が至る前ですでに長文になった(笑)。
この伝統とモダニズムが調和したような温暖地域「環境住宅」なども
大きな題材にしつつ、実りある論議にしたいと考えている次第です。
また折に触れて、ご紹介したいと思います。

コメントを投稿

「※誹謗中傷や、悪意のある書き込み、営利目的などのコメントを防ぐために、投稿された全てのコメントは一時的に保留されますのでご了承ください。」

You must be logged in to post a comment.