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神楽からテレビまで 劇的なるものの歴史

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わたしは学生時代には、ちょうど70年安保の時期でして
いや、正確にはそこからの運動退潮期にあたっていました。
高校生の頃には、政治的な運動に主体的に関わっていたのですが、
学生時代は自覚的に距離を置いていまして、主に演劇クラブに所属して
早稲田小劇場とか、唐十郎の赤テント・状況劇場などに興味を持っていました。
そこから徐々に、演劇の歴史というようなものにも興味を持つようになりました。
とはいっても、専門的な興味を持ったのではなく、
その推移とか、ドラマの内容などからの、歴史過程に興味を持ったのです。

演劇って、人間社会に普遍的に起源を持つものだと思います。
狩猟採集時代に、夜、たき火を囲んで,その日生起したことなどを
おもしろおかしくファミリーに語り伝えるものとして、
ある主体者の考え方に基づいて、整理された内容が伝えられたのでしょう。
そういった初源的な出自の人間営為が、ある部分は文学になり、
ある部分は音楽になったり、そして演劇になったりした。
人間社会の推移発展に伴って、文化総体そのものも進化してきた。
そのなかでも「劇的なるもの」は、まことにわかりやすかったのでしょう。
わたし的には、古代の白村江の戦いに出陣する軍を鼓舞するのに
その美貌を謳われた額田王が演じた、あるいは檄を飛ばしたとされる故事に
まことに「劇的なるもの」を感じておりました。
演劇の演目というのは、現実に人間社会で生起し、
その概要を多くの人が情報共有していることを選択することが多い。
日本人が好きな演目として「忠臣蔵」というものがあるし、
最近わたしが大好きな「神楽」でも、演目はおおむね政治的出来事。
時代を「生きる」という意味で、その最前線で生起する政治ニュースは
まざまざとその時代を映すことであり、多くの人の興味を掻き立てた。
全国に琵琶法師という語り部を派遣して、平家滅亡の様子を
ドラマとして拡散した故事は、日本人の感受性形成にまで与ってもいる。
演劇史は同時に「メディア」の発展史でもあり、
ムラという生産単位ごとの「鎮守の杜」での「まつり」の時に
小屋がけして劇空間が出現し、庶民に共同幻想空間を提供したころから、
出雲の阿国が京都で小屋がけして大反響を得たり、
江戸の消費社会で、歌舞伎が一世を風靡したりした。
明治以降、映画という表現が出現して人々を魅了し,
やがて戦後、現代世界のテレビメディアまで、大きく変遷してきた。
面白いのは、こうした演劇スタイルは「積層」していくということ。
テレビが出来ても、やはりムラ祭りでは神楽が奉納されたりもしている。

先日も、戦後日本ドラマの主流を担った司馬遼太郎さん原作作品の
「関ヶ原」に見入ってしまいました。
文学作品としての「関ヶ原」はそれこそ暗記するほどに読んでいるので、
まるで一場一場の歌舞伎場面のように、セリフも頭に入っている。
高度成長時代そのものの時代背景から、豪華キャストが林立し、
日本人がもっとも好きな戦国末期の動乱ドラマを描き出していた。
見終わって、こうした司馬遼太郎ドラマというものも、
すでにして歌舞伎や神楽のような、そういった歴史に入ってきている、
そういう感想を強く持った次第です。
江戸時代の歌舞伎と近松門左衛門のような極めつけとして、
高度成長期テレビとの相関関係で、司馬遼太郎さんは語り継がれるのかも。
そんな感覚を持つようになること自体、
ちょっと不思議な気分になったのですが、そうやって歴史は
進んでいくのだなとも思えた次第であります。

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