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出雲と荒神谷からの古代政権交代妄想

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あけましておめでとうございます。

今回の旅では出雲と厳島の大きな神さまにめぐり会った次第。
なんですが、やはり今回はじめてその「博物館」を見学できた
出雲大社の方の創建やその当時の様子への探求を見て来て大感動。
不勉強で、「荒神谷遺跡」が、この出雲のすぐ近隣であることを
はじめて知った次第であります。
下の写真は、その荒神谷遺跡で発見された銅剣・銅矛の展示の様子。
この写真を撮影していて、以下のような着眼妄想に至った次第。

古事記などの神話で明瞭なように、
この国土では「国譲り」というかたちで、一度政権交代があったのだと思います。
弥生時代の後半、末期にかけて、
出雲を盟主とする「クニ」による連合形態があったのだと思います。
それが倭国であったかどうか、たぶんそうだったに違いない。
その連合国家では、朝鮮半島ともゆるやかな同族関係が成立していて
半島と列島社会は不可分な関係にあったのではないか。
クニとは、朝鮮半島から進出してきた部族に淵源を持つコメ共同体であり、
かれらが占拠した河川扇状地・谷周縁部などのひとつの単位を
そのように呼び習わしたものであると思う。
それらが既存縄文社会集落とも混淆して「八百万」に展開して
列島社会を形成していた。
それらの主宰者たちは、年に一度出雲に参集して、
連合体の取り決めを行ったに違いない。
注連縄という儀式形式からはそういった意識の発現が感じられる。
その共同祭器として、銅剣や銅矛、銅鐸は使われたに違いない。
各クニでの祭事のときに主宰者がその正統性を証すのに用いられたのが
これら、祭器であったと。
そのように成立していた「倭国」に対して、中央集権的な騎馬民族、
ヤマト朝廷が征服王朝として鉄器を主要な生産手段として進出してきた。
鉄器は、神聖祭器としての銅器に対してより実用的で、
さらに武器としての性能は、相当な優位性を持っていた。
こうした2重権力状況を止揚して、
列島社会が安定したのが、「国譲り」だったのだろう。
ただし、いまでも出雲大社の本殿には現朝廷は入れないとされている。
出雲の相対的独立性には、配慮されてきたのだろう。
そしてこの政権交代を機に、各クニの主宰者たちは一斉に
前政権統合の象徴としての祭器・銅剣銅矛銅鐸を埋める儀式を行った。
それらが、神話として残されてきたのではないか。
以上のような妄想に至った次第であります。
今後、この妄想・着想を手掛かりに、探求を進めたいと思います。
ふ〜〜む。

で、きのう大みそか、無事に札幌まで帰還いたしました。
昨日既報のレンタカーパンク事故の件も、
先方会社側から、事故現場近くに代車を運転して持ってきてくれたり
またパンクのタイヤ修理費用も不問としてくれたことで、
誠意ある対応と受け止めさせていただきました。
一歩間違えば大きな事故にもなりかねなかったけれど、
家族全員無事でいられたことは、まことにありがたいこと。
ハプニングではあったけれど、楽しい旅のひとつの想い出にもなった次第。

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