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義経時代の奥州藤原氏・北海道進出拠点

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いろいろな事柄が同時進行していて
こころ的には多忙な毎日なのですが、不思議と落ち着きはある。
睡眠はたっぷりと取れているし、寝付きも良い。
きのうも、休日の1日、気になっていたひとを訪ねて
その様子を確認して、安心したりしていました。
なんですが、そんな時間を縫って、
歴史好きらしく、タイトルのような場所を探索して参りました。
上の写真は道央圏地域地図の現在と、「海進」状況であった1100年代頃を
想定しての比較であります。
その下に、比定地であるポイント図示を試みてみた次第。
現代の海岸線からは10km程度は奥まった内陸地点に存在していますが、
こういった「海進」状況を勘案してみると、
より実態状況の把握がしやすくなるのではないかと思います。
このように見る必要があるでしょうね。
下の写真は、比定地であるポイントの現在の外観図。
現在の地名で言うと、北海道厚真町宇隆という地域であります。

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縄文以来、日本の地域特性として、
海岸線での漁撈と後背地のブナの森が定住をもたらしたことを考え合わせると
たぶん、現在小高い山のようになっている場所は
平坦地になっている当時の海面からやや浮き上がった
陸地と海との境界になっていたことが想像できます。
たぶん、そうした地形は「ミサキ」という古語の実感に近く、
神が宿るに違いない地形と認識されていたと思われます。
そういった場所に、ひとびとの参集する拠点などは設定されたに違いない。
このポイントにも、現在でも神社が置かれており、
ひとびとの口コミ伝承的な知識としても、
ある霊性、あるいは由緒因縁のエリア認識があったのではと思います。
当然、1100年代のころの人々も、そのような認識を共有し、
この場所に、特別な意味合いを見出していたのではないか。
平泉に独立政権を樹立していた、北方出自と自己認識していた
「奥州藤原氏権力」が、北海道の檫文時代のひとびとと、
自らは鉄製品・自在鉤に下げる鉄鍋を主な交易品として提供して、
檫文からアイヌ文化への生活文化革命を促進させていた。
この鉄製品は、津軽地方で一時期盛んに生産されていた記録が残っている。
一方で北方からは、藤原氏側に、タカの羽根やアザラシの皮革などが
ヤマトの都びとたちの「高級需要」を満たす交易産品として提供されていた。
同時に、藤原氏は仏教王国という建国理念から、この地に
「経塚」を納めた。高級陶磁器である常滑焼容器に、末法思想から
救済される仏教の教えを記した経文を
数十億年後のひとびとをも救済する手段として地中に埋蔵した。
そのタイムカプセルが「不時に」50年前に発掘され、
つい最近、その出自と背景が解明されつつある、ということなのです。

まだ、学会の定説として確定するかどうか
わたしにはわからないのですが、最近読んでいる弘前大学・斉藤利男先生の
最新著作で、日本史の画期的発見として紹介されています。
そこから、上記のような想像力を膨らませて、
ワクワクするような妄想世界に耽溺させられている次第なのであります。
さて、どのような人々がこの地で、どんな交流を果たしていたのか、
そして、頼朝による藤原氏殲滅戦争の余波は、
この地にどのように影響を与えたのか、
藤原氏が保護していた「義経」は、このような北方交易ルートと
まったく無縁であったのか、
妄想はどんどんと湧き出てきて、止めがたいのです(笑)。・・・

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