本文へジャンプ

胆沢城跡

7290.jpg
最近になってようやく、高橋克彦さんの歴史小説「炎立つ」を読むことができまして、
なんだ、もっと早くに読めば良かった、と思っています。
っていっても、まだ半分くらいしか読むことができません。
盛岡在住らしく、東北地域のことが克明な描写で書かれていて、
わかりやすくて、とてもいいと思いますね。
写真は先日足を伸ばして見てきた「胆沢城」発掘センターで見た配置図。
東北地方に奈良から平安の時期に建てられた「城」って、
戦国期の城とは、概念も違うようなものですね。
多賀城が典型的なのですが、
基本的には「政庁」としての建築であり、
武によって制圧する、という概念よりも、
抜けがたく、文化性とか、律令的国家体制の尊厳性を訴求する、
まつろわぬ民人に、ありがたき「政〜まつりごと」を施す、というイメージに近い。
従って、きれいな方形に敷地を区切って、
侵しがたい神聖性や、権力の透明性などを理解させる様式を取っている。
ただし、位置は北上川と支流・胆沢川の合流点という
当時の戦略的要衝点を押さえてはいる。
きれいに四角く区切られた築地塀は、幅が2mで、高さが4mほどで
延長距離はここでも2km以上にはなっていたようなので、
古代世界で考えたら、たいへんな土木工事。
周辺住民の税金的労働提供・搾取によって実現させたものですね。
建前としては、新開拓地として住民を移住させ、
それらに農地を貸与しているわけですから、
税金徴収として、それなりには合理性があったのでしょう。
最近は、地図の下の方にマーキングされている
「伯済寺遺跡」の調査が進んでいるそうです。
この地域は、胆沢城に勤務していた「官人」たちが住居した地域なのだそうです。
そう考えると、この北上川のまわりに古代的・中世的な
「都市」が形成されていたと考えられますね。
当然、「政庁」ですから、税金としての農業生産物の収受が基本機能。
そうしたものを運送する必要もあっただろうし、
そうした関係から、多くの人たちがここを訪れただろうから、
ひととものの集散があるわけで、都市的なものだったでしょう。
どんな様子だったのか、興味が湧いてきますね(笑)。

コメントを投稿

「※誹謗中傷や、悪意のある書き込み、営利目的などのコメントを防ぐために、投稿された全てのコメントは一時的に保留されますのでご了承ください。」

You must be logged in to post a comment.