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【新型コロナ VS 106年前の「結核予防善悪鑑」】


きのうご紹介した「結核予防善悪鑑」続篇であります。
106年前には結核菌が発見されて、結核が感染症であることが究明され、
それとは日常生活の「予防」的な対応で蔓延を防ぐことが呼びかけられていたのです。
この「結核予防善悪鑑」はそれを一般にわかりやすく情報伝達する手段として
相撲の番付に見立てたポスターを作成して公衆宣伝を図った。
この広報作戦は1914年のことですが、
結核のワクチンであるBCGはフランスのパスツール研究所で開発されて
1921年に初めて新生児に投与され、以後、1924年には日本にも菌がもたらされた。
逆に言うと、結核菌の発見・感染症認定から相当の期間かかっている。
それまでの間、ひたすら人々の「行動変容」で人類は戦い続けていた、といえる。
その当時から100年以上の時間が経過しているけれど、
またふたたび人類はあらたな感染症と向き合わされている。
治療薬やワクチン開発はそのスピードアップが求められるけれど、
しかし疫学的な「安定性・科学的妥当性」が担保されるまでには、
忍耐して、感染症ウィルスと共存して行く覚悟を継続していく必要がある。
アナロジーとしては、この1914年には第1次世界大戦が勃発もしている。
時間経過からは、ワクチン開発は戦争を挟んで戦争終結後に世界にもたらされた。
このような世界史の推移が再現されないように理性的な対応を期待したいけれど、
中国共産党という非理性的、不合理的な存在が強権をふるっているなかでは、
現代人類の運命はあやういというようにも思われる。・・・

で、本日はこの106年前の先人たちからの「警告」を詳報したい。
きのうは横綱大関クラスの「目玉項目」を紹介したけれど、
それから以下の項目にも、先人の大きな「知恵」と人間への愛が感じられる。
●まずは「悪しき方」のほうですが、
「蒲団(團)没頭」というのは、どうも朝寝坊の生活の自堕落さ表現のようです。
「日光の来ない家には医者が来る」というのは住環境のありようへの警告。
「肺病の痰は火照る爆裂弾」というのはまさにウィルスへの注意報。
「倹約すぎる食い物」とは栄養補給による免疫力向上。
「旧式な酒盃の交換」というのは飲酒習慣での接触感染への警告。
「虫歯持ち」は衛生観念への気付き。
「手放しに○○する野蛮人」というのは旧字で不分明もイマドキの行動変容規範から
類推すると、飛沫感染への警告とおぼしい。
で、最後の「差し向かい三尺以内の談話」は、まさにソーシャルディスタンス。

●つづいて「善き方」は以下の通り。
「深呼吸」とは肺の機能向上を促す狙いなのでしょう。まさに生活行動変容。
「風の入る家に福の神がはいる」とは、まさに「換気の重要性」。
同時に「新鮮な空気は値なき黄金」とまで讃えている。
「菜肉豊富な食膳」とは、バランスのいい免疫力向上の食事習慣。
「文明的な乾盃」とは、悪しき方の乾盃方法とは換えて
それぞれの盃で「接触感染」を避けるべきだと言うことでしょう。
「完全な咀嚼」、よく噛んで食べなさいというのはまことに慈愛そのもの。
「飲食を強いない良き妻君」とは、あまり深酒させるな、という警句か。
旧字でわかりにくいけれど「食後にはうがいを」という注意喚起。

まことに今日の「行動変容」とも似通った内容が多いことに
あらためて驚かされるとともに、このようなわかりやすい「衛生思想」教育が
大正初年にも日本では推奨されていたことに、先人のみなさんの
ありがたさがしみじみと伝わって参ります。深く、感謝の念であります。

【感染症と住環境 106年前の「結核予防心得番付」】


全国的には新型コロナ禍、やや減少傾向が見られてきている。
本日、面積的には日本の大部分を占める県域で非常事態宣言が解除される方向。
しかし全国有数の突出地域である札幌を抱える北海道は、道遠しといったところ。
地域として「共存共苦」を受忍し、なんとか乗り越えていきたいと念願します。

写真は知人からメールで送られてきたもの。
「東京都公文書館」のTwitterアカウントから2014年3月26日情報発信された。
1914年(大正3年)3月20日から7月31日にかけて、当時の東京府が主催し、
東京市の上野公園地をおもな会場として開催されおよそ750万人を集めた
「東京大正博覧会」での展示ポスターのようであります。
題して「結核予防(豫防)善悪鑑」。
行司として結核菌の発見者・ドイツの医学者ローベルトコッホさんの名前。
結核はいまでも日本で年間約2万人以上が発症し、
2,000人以上が亡くなる最大級の感染症。
いま話題になっている「BCG」予防接種の機縁となった感染症であり、
日本史の中でも有数の被害をもたらし続けてきた感染症。
そういった感染症に対して、社会としてそれと併存しながら折り合いをつけていく、
という目的から、広く国民に生活習慣レベルでの「注意喚起」を呼びかけていた。
このポスターは、日本人に親しまれている相撲の「番付表」表現形式を
ツールとして利用し、感染症とどう対応すべきかをアピールしている。
感染症は目に見えない敵であり、生活習慣で戦い続けるしかない。
そういった昔人の知恵がここには表現されている。
<表現上、一部を色づけしたのはわたしの操作です。よろしく。>

活字表現が一部不鮮明な部分もあり、推測しながら読解の要がある。
番付らしく「東西」に分かれて、右側が「善の方」左側が「悪しき方」。
●悪い方の横綱は「結核菌と薄弱な体質」が筆頭にあげられている。
張り出し横綱には「結核を不治の病と考えること」という意味と受け取れる記述。
大関は「煩悶幽鬱」とある。なんでも否定的な受け取り方への戒めか。
続いて関脇は「不性」。これは生活態度の乱れを戒める意味でしょう。
さらに「規律のない飲食」とあって、イマドキの夜の街クラスターとも相応するか。
以下、「汚濁・人込(混)み・街路の塵埃」という不衛生が指摘されている。
これもいまの「密を避ける」「接触機会の8割削減」とも通ずるのではないか。
そのあと「蠅多き臺所(台所)」とあるのは、当時の住宅の問題点なのでしょうか。
●一方で、善き方の横綱には「日光と空気」と大書されている。
「張り出し横綱」は読解不明なのだけれど、「結核は遺伝ではない」という考え方のよう。
大関には気の持ちようとして「楽天快活(𤄃)」が上げられている。
この先人たちの指摘は今回の新型コロナ禍では、どうも見落とされ気味のように思う。
どうしてもヒステリー的に危機あおりが横行しているのではないかと・・・。
以下、関脇:潔癖、小結:禁酒節酒、前頭:清新な林野公園の空気とあり、
やはり夜のクラスターには否定的な生活様式が推奨されている。
そういう娯楽は感染症への注意としては一時ガマンすべきなのでしょうね、やはり。
続いて横綱と関連するように「明るき居間」という住宅思想が上げられている。
住宅づくりに関連する考え方として「日射取得・採光、換気の重要性」という
基本事項がしっかりと明記されていることがわかる。
今回の新型コロナ禍でも、換気の重要性が社会的にアナウンスされてきていますが、
百年前もいまに至るも、こうした「感染症と住宅の知恵」は、変わらない基本とわかる。
太陽光取得に素直であり、暑さ寒さにはしっかり防御し、
しかも清浄な空気環境をつねに心がけるというのが先人からの「戒め」。

・・・日本の歴史と感染症、そして住環境のかかわり、
ちょっと掘り下げ、このブログ連載で思いつくまま、探究してみたいと思います。
みなさんもお気付きのことがありましたら、ぜひコメント期待。

【散歩道でチョー実用情報 イタドリはアスパラ代用食?】


みなさんの住まわれている地域では、この写真のような雑草、見かけませんか?
わたしがこれまで歩いてきた日本全国の道端では
やはり北海道でよく目にする雑草であります。名前はイタドリ。
Wikipediaを見ると東アジア原産で、明治以降ヨーロッパに「外来」して
世界中で嫌われ者の強害草として扱われているのだそうです。
散歩道でよくみかけるので、わたしのブログでは何回か、取り上げてきている(笑)。

なんですが、先日散歩中、ある老齢ご夫婦を見かけたところ、
奥さまがこのイタドリの茎の部分の先端部を採取されているではありませんか。
「???」と気になって、「それはひょっとして、食べられるんですか?」と質問。
そうしたらご親切にお答えいただいた。
「それですよ、これを水でよく洗って、斜めにそぎ切りにして
油で炒めて食べられるんですよ(笑)」という説明を受けた。
そういわれてみれば、たしかに先端部は一見してアスパラに似た感じはするので、
自然のモノでもあり、食べて毒のあるものではなさそうと思える。
このイタドリの繁殖力、拡散力はまことに驚異的であっという間に他の植物を駆逐する。
イギリスでは前の女性首相が政敵世論から攻撃されるときに
「イタドリ」とまで蔑称されていたというほどの「嫌われ」ぶり。
まぁあのときは、支持率が下がっているのにしぶとく居座っている、
その様子に対して、嫌われ者のイタドリがアナロジーされていたようなのですが、
もし食べられるという情報がもっと拡散すれば、
人類の食欲はまことに強力なので、たとえイタドリでもあっという間に
殲滅させることは可能なのではないかと妄想が広がった。
ただ、わたしもこの女性から聞いただけの情報なので、実際に自分で食べたわけではない。
「天ぷら」の素材などではクックパッドなどにもあるので、
結構食べられているようですが、まずは一回、人身御供で料理に取り組んでみたい。

ただ、イタドリの繁殖力はまことにハンパないので
わたしとカミさん夫婦、さらにお見かけしたご夫婦だけではとても
殲滅駆除までには至らないだろうと思われます。
また、今時期の若芽はやわらかいけれど、これから夏にかけて大きくなったヤツは
まるで樹木のようになるので、食して駆除は不可能なのかも。
まるで新型コロナのようなしぶとさが想像できるけれど、
とりあえず、戦いを開始してみようかと闘志を高めている次第。
ドンキホーテになるのか(笑)、それとも害草との戦いの先覚者(?)になれるのか、
はたまた食べ過ぎで食あたりして、病に倒れるのか・・・。
ムダな抵抗とは思いますが、せめて賛同者を募ってみたいので書きました。
まるでムダだよなど、ご忠告をお待ちしております。
っていうか、どうも鈍い決意ぶりかなぁ・・・。

【Hokkaidoが世界に教訓 報道グローバル化】


ちょっと前に既報したのですが、アメリカのNY州知事クオモさんが
トランプ政権が前向きになっているとされる経済再開について
性急な制限解除は感染の再爆発加速に繋がる危惧を表明したとされた。
その文脈の中で唐突に「Hokkaidoのようになる」と言ったと。
北海道人としてはまさに「おお」でありました。
日頃、日本のなかですら気候的にもやや差異のある一地方と自己認識していたので
突然、世界の耳目が注目する局面で名前を出されたことに驚いた。
いわば「第2波」の恐怖についての文脈であり、悪い例として出されたのだけれど、
そこまでワールドワイドに扱われたことに驚愕した。
本当はもっと明るい話題でHokkaidoが語られたらウレシイのだけれど、
まぁそれはそれで受け入れるしかない。ただニッポンの一地方であるのに、
世界の苦難の一体感の中で、共感力の及ぶ共有文化範囲として語られたことに
極東の一小島の住民として、ちょっと驚かされたという次第。

で、その情報の出所についてはどうやら、スクリーンショットのように
英国BBCの日本支局(?)の、BBCジャパンというHPでの記事なのだという。
スクリーンショットは日本語表記されているけれど、
クオモさんは当然、英語版を読んで北海道の新型コロナ禍の第2波の恐ろしさを
重要な警告として、例示されたようなのであります。
このこと自体は淡々と受け止めるべき事実なのですが、
わたし的には「報道のグローバル化」の進展ぶりという点に再度気付かされた。
日本人はいまでも「欧米では」という枕詞があるように
つねに欧米に対してキャッチアップ的なスタンスを持つことが常識的だったけれど、
世界の側では日本社会はまったく世界標準そのものと受け止め
多くの海外メディアも日本支局を開設し、そこから情報も発信されている、
考えてみればごく当たり前のことが、今回の新型コロナの状況の中で
加速度的に進展していることが実感されたのです。
WEBからの情報収集が当たり前になり、いわば世界標準の「報道」にカンタンに
万人がアクセス出来る時代になっていることが表現されている。
わたし自身も日本の新聞報道とかテレビ報道はほとんど見ずに、AFPとか、BBCとか、
WallStreetジャーナルなど、いわば「世界の常識」のほうに耳目が向かっている。
まぁ間違っても中国のメディアは参照することはないけれど・・・。

現代世界での「常識」というものはどうもこういった情報基盤になるのではないか。
すくなくとも自由世界での情報メディアを複数参照して、
事実を把握して、常識を磨いていく必要性が高いのではないか。
日本のメディア報道・テレビの状況を見ていると、
世界常識とはかなりズレすぎた報道ぶりだと思わざるを得ない。
たぶん一時期言われていた「ガラパゴス化」が極限的にメディアに表れている。
だいたい、いまだに「宅配」という顧客囲い込みが新聞の主要販売ルートという
存立基盤自体も、かなり世界的に「奇異」な形態。
そのように見ていると、いま現在進行形で中国による情報戦争の仕掛けが
現にいま、行われてきている様子が明瞭にわかると思う。
かれらにとって、日本が最大の「戦場」であることは国際的に見てあきらか。
残念ながら、日本のメディア「報道」状況には深い危惧の念を持って見ざるを得ない。

【平常はどう再獲得できるのか?】


世界全体では感染拡大がまだまだ収まらない新型コロナですが、
5月になって日本の状況はかなり収まってきた感じがみえる。
<下の図は5/11AM5:00確認のYahoo「新規感染者」データ>
これがなにを表現しているか正確にはまだわからないけれど、
緊急事態宣言などで社会収縮が急速に進み、
それが効果を発揮し始めているというように受け止められる。
しかし、そうであればあるほど平常復帰のやり方の難しさも出てくる。
経済活動をどのように「再起動」させたらいいのか、
一度縮小させた活動を再開することは単純ではない。
ひとびとの「行動抑制」でウィルスを抑え込んだ後、
行動抑制を解除するには、ある「指標」が必要になるだろうと思います。
たぶん行動と移動の自由を徐々に解除する以上、
ある程度の「感染漸増」はやむを得ないこととあらかじめ折り込んで、
その数量的な許容範囲を定めておく必要があることになる。けれど、
このウィルスの場合、表面化してくるには最低2週間程度の
「タイムラグ」があるというのが非常に困難。・・・

経済活動は、さまざまな社会制度を前提として行われるものなので
社会制度の側がどのような「指標」を定めるかで、
その選択肢範囲が決まって、正常な「競争」がスタートするのだと思います。
いわば基盤になる常識の範囲が決まってこないと動きようがない。
当面は「気をつけながら、徐々に・・・」みたいな
どうとでもとらえられるあいまいな基準が設定されるように危惧する。
・・・まぁ、未知のウィルスとの「共存」という困難なので
だれにも正解は導き出せないのだとは思う。
自然界では、弱肉強食、自然の摂理のまま自然適合力だけが
優勝劣敗を決めていくファクター。
さて人間界「新常識」基準は、どういうプロセスで広がっていくか、
企業人としては社会の状況をしっかり見ながらという局面ですね。

【コロナ危機有効利用でDTP・PC「機器管理」】



今回の新型コロナ危機から対外的な活動には大きく制約が掛かっています。
継続的ビジネスについては、顧客先もテレワーク環境でむしろ中身の濃い
打合せが出来てきたりもして、今後の環境の広がりが実感できる。
あらたなビジネスチャンスも展望できてきていると思います。
しかし開拓的な業務分野では、難しさもある。
いずれにせよ、各企業ともスタッフの「在宅勤務・テレワーク」体制が作られて
「あらたな日常」が否応なく始まってきていると思います。
で、これまで気付かなかったことが大きなテーマで浮かび上がってもくる。
仕事環境での「過密を避ける」というテーマ。
先日スタッフ相互距離を確保すべく、透明間仕切り壁DIYに取り組みましたが、
もっと能動的に、デスク配置管理も「あらたな環境対応」が求められる。

ということで、業務仕分けでの管理を考えております。
わが社には、スペース利用でまだそれほど利用できていない空間があるので
そちらに社内ネットワーク担当者のデスクを移転させることに。
雑誌・情報制作編集という仕事は、どっちかというと「文系」ワーク。
しかしこの30年という仕事時間は、同時にDTPという「環境転換」があった。
非常に変化の激しいベース領域だったわけですが、
なんとか「理系対応」して現代の情報産業の基盤は継続させてきたわけです。
ちょうど社内情報系の基盤についても再度進化変容させる計画進行中。
・・・っていうように仕事を継続してくると、大量の「残滓」も生産される(泣)。
そうなんです、一時期は必要があって経過的に使い、
またデータバックアップのために別途「保存」させる、という必要性もあって
外付けHDDの類や周辺機器、それらの接続コード類その他、
実に大量の残存物が残され続けてきている・・・。
もちろん何度も見直しながら必要な廃棄・交換などはしてきているけれど、
スタッフ20名程度ということでハンパなく残り続ける。
昨日、それらを整理すべく取りかかったら、重量だけでも100kg以上の
多様な「Mac/PC/周辺機器類」が「掘り出された」。
それらを取捨選択する作業に取りかかり、おおむね整理整頓の道筋をつけた。
写真はおおまかに外付けHDD類の整理ボックスと、
各種ケーブルコード類のボックスの様子。
とにかく一覧表示させておかないとこういう類はやっかい。
重層させておくとどこになにがあるのかすら、すぐにわからなくなる。
そのためには目的別に「集約」して一覧表示させて常時整理整頓が不可欠。
ラックに集約させてごらんのようにして見た次第。「管理作業」も大変と再認識。
これらも全部の機器類を初期化とか、作動チェックした上で収納した。
上の写真で右側のヤツは、なんとSCSI対応のHD類だった(泣)。
当然担当スタッフに月曜日以降確認の上で廃棄処分予定。

このほかにMac・PCの未利用品などが多数あって、
それらの動作確認、取捨選択も10台程度あった。
でもうれしいことに、まだまだやることは山積しております(泣)。
ほぼ1日、これらの作業で追われたのですが、中小零細情報産業企業、
環境整理整頓の大切さにふたたび三度、絶望的に気付かされます(笑)。

【動物界は通常営業中 カモさん「婦唱夫随」@札幌】


人間界は新型コロナ禍で世界中で非常事態が継続中。
そういうなかでは日本は「自粛」程度でゆるい社会閉鎖ですね。
一例ではイタリアなどでは自宅から半径200m以内でしか散歩も許されず
違反すると罰則があるとされていますが、
それに比べたら日本はかなりゆるくわたしも自宅から往復6km以上の散歩を継続中。
日本は死者数も世界とは隔絶しているけれど、
社会の緊張感はかなり高く、ストレスはどうしても高まる。
そういった情報の大洪水とヒステリーっぽい反応も見聞きすると「疲れる」。
心頭滅却にはやはり自然の変わらない様子が「癒やされる」。
昨日は自宅から1kmほどの琴似発寒川にかかる橋の上を歩いていたら
カモさんとおぼしき「つがい」の鳥さんと出会った。
こちらが、その動画撮影Youtube。こちらが、その動画撮影Youtube。
<リンクをクリックしていただくと動画画面に>

カモさんはいま「繁殖期」なのではないかと推察しております。
近縁種の「オシドリ」はあちこちで雌雄のランデブーが目撃され、
ときどき人間たちに直撃撮影されたり(笑)していますが、
カモもまた繁殖期のようで「雌雄のつがい」が目撃されます。
カモもオシドリ同様この時期メスは目立たない色彩の毛色でオスの方が派手。
この動画でも最初画面左側のやや色合いの強い方がオスであります。
様子を観察していると、メスの方が非常に活動的で好奇心も強そう。
夫唱婦随というコトバがありますが、
やはり様子からはむしろ「婦唱夫随」という印象を強く受ける。
このあたり、オスの様子を見ていてどうも身につまされる(笑)。
「おい、もっとオスの威厳を見せたらどうなんだ」とツッコみたくなる。
しかし現実はきびしく、メスが「わたし飛ぶからね」と先に行くと
「おい、オレも連れてってくれよ」みたいに追随している。
オレについてこい的な雄の威厳期待はあわく、もろくも潰えさる。
しかし、平和の時代というのはだいたいこういう婦唱夫随だそうなので、
このあたりは動物の世界に学んでいる人間界なのかも知れませんね。
きのう書いた「春雪融け時期の水音」も全編にこだましている。

1日も早い人間界の平常回復を期待して
それまでは、みごとに通常営業中の自然界の様子に学ばせていただきたい。

【自然の移ろいと同期する平常心】

昨日から仕事再開ですが、諸案件が一気進行であります・・・。
こういった状況の中でも多くのみなさんが知恵と工夫で経済活動している。
もちろんいまは出来ないことも多いけれど、
逆に言うとこういう時間を最大限有意義に使っている事例もきわめて多い。
本当に素晴らしい活動ぶりだと深く教えられる気が致します。
自分自身でも、そうありたいと願いながら身近なことに取り組んでいます。

で、日々の情報活動も重要ですがそれらを「判断する力」というのは、
それ以上に重要だと思います。
わたしの場合、その一番確実だと思える基礎的なものって、
やはり四季のうつろいの中で訴えかけてくる自然の声だと思っています。
「とにかく家にいる」ということで遠出はしないという中で
でも健康維持増進のためには散歩などは格好の機会になった。
年も取ってきたので1日1万歩というのは「多すぎ」とも聞くのですが、
連休中は連日1万数千歩歩き続けておりました。
日々、歩き続けていると自然のすこしづつの変化が身体化する。
人間センサーというのは多種多様な情報を感知する。
いわばこの住んでいる地域の自然に同期するような印象を持ちます。
そういう感覚から「判断」の基本というのは出来上がっていると思うのです。
自然がさまざまなシグナルを人間に送ってくれることで、
それが身体の中に「常識」のベースになるものを叩き込んでくれる。
ごく当たり前のことの正しさというようなものが伝わってくる。
永続的なことというのは、奇をてらったようなことではなくて
ごく常識的な判断力から導き出されるものだということがわかりますね。

写真はわが家近くを流れている「発寒川」河畔の様子です。
この時期北海道では、冬の間の山の雪が融けてきて、
まことに爽快感そのものの水音が響き渡っている。
そういう水音にはあらゆる情報がそこに表れているのだろうと。
歩きながらその「リズム感」に自分を同期させると、
この自然の中での人間の道筋、やるべきことの根本が伝わってくるのでしょう。
年を取れば取るほど、こういう自然の声に謙虚でありたいと
自分に言い聞かせてきております。
新型コロナウィルス禍、なんとか平常心で克服したいですね。
 

【円山自然林の古老・カツラの巨木】


明治の札幌開拓初期というのは、新型コロナ禍が始まる前、
このブログで「始原期」を発掘するシリーズを展開しておりました。
北海道は日本の本格的殖民が始まってからまだ150年前後であり、
まったくの自然と人工物とのあわい共存が各所で確認できる。
人の足跡の面でも比較的に「掘り起こしやすい」。
同時にもともとの原始札幌の様子も驚くほどに各所で見られる。
基盤になる「自然公園」思想が北米から開拓技官として来てくれた人々の献策で
色濃く残されてきている、日本ではちょっと変わった街であります。
開拓建設の司令塔であった黒田清隆自身も当時有数の国際人であり、
明治帝の信任も篤かったことから、こんな世界標準的な残滓がみられる。

いまは「札幌市中央区」という都心近接地域に「円山自然林」が
ほぼ手つかずのような開拓以前の面影を色濃く残して保存されている。
京都のような「和の情緒感」で徹底的にデザイン処理された街とは
対極的な位置にある「風と土のデザイン」そのままとでもいえる。
同じような「碁盤の目」状の街割りで似ているけど、組成はまったく違う。
この円山自然林周辺はわたしの2つの散歩道のひとつなのですが、
連休中は「とにかく家にいる」知事さんの方針に素直に従っていたので、
ふだんよりも時間をかけて散策しておりました。
おかげさまで同好のみなさんと情報交換させていただき、
目を奪われるような色合いの羽毛をまとった小型の「渡り鳥」を見たりした。
子どもさんたちといっしょにその姿カタチに目を瞠らされていた。
そんななかでふだんは気付かなかった「円山の森の主」と対面。
それがこの写真の「カツラの古木」であります。
相当の古木のようですが樹齢はよくわかりません、誰も調べていないようです。
円山のふもとの立ち上がりのような位置に自生して株分かれぶりが顕著。
自然的な力でかいくつかの幹先で、折れたりもしているけれど、
どんどんと株分かれして生命力旺盛な様子が伝わってくる古武士的な勇姿。
この古木を愛しているみなさんが、踏み固められた根周辺部の土を見て
「カツラが窒息している」と気付かれて、周辺にロープを張って
保存修復の活動を始められているということだそうです。
ふだんの散歩道からは数十メートル離れていたのですが、
この連休でどこにも行けなかったことで、新たな発見が出来た次第。
いまはまだ緑はそう多くはなく、冬枯れの中、
幹の様子が露わになっていて、これはこれで迫力がある。
根の部分の繁茂ぶりもハンパなくて、その生命力に深くうたれる。
人間には印象的な木というのがそれぞれ何本かはあると思いますが、
1kmほど離れた北海道神宮境内にはごらんのような「御神木」もある。

こちらの方は、円山公園駅から神宮本殿にいたる道に面しているので
わたしのような「ファン」もたいへん多く横綱のようにロープも渡されて、
丸い土俵のような地面区画とあいまってPOPな雰囲気が楽しい。
こちらは「カシワ」の古木であります。
自然林の中の歳月を経てきた古木たちには独特の気品がある。
これからも迷える衆生を見守っていただきたいと手を合わせております。

【アフターコロナ世界へ〜とにかく家にいた@最終日】


みなさん本日で「黄金週間」終了ですね。
忍耐に次ぐ忍耐の未曾有の連休期間だったと思います。
疫病という得体の知れない魔物との戦いというのは
こういうものだと世界中がその辛さを知った。
予期せざる形で「細菌戦争」が生み出す恐怖を実体験してしまったともいえる。
経済は、これも得体の知れない敵によって動くに動けず、
まるで身もだえするように凍結させられている。
しかし世界中、このままでは経済失速からの失業、不況によって
生活困窮を大量に生み出す危険水域に差し掛かってきて、
いよいよ経済復元に向かって歩み出すのだろうと思います。
世界最悪級の被害を受けたイタリアでも400万人口が
職場に復帰するとアナウンスされている。
その結果がどのようになるのか、ふたたび最悪の疫病進行になるのか、不安。
疫病蔓延への防御の工夫をみんなが不断に心がけなければならない。
疫病を回避しながら経済を回すという困難な未知の世界に向かうことになる。

社会収縮して忍耐し続けるということは、
ストレスからの集団ヒステリーを生みだし、それが蔓延することも知った。
きのうクルマで移動中道路まで占拠して騒がしいBBQ現場に遭遇。
路上違法駐車7−8台と子どもたちの自転車の散乱。
まぁ気持ちはわからないでもないけれど、やはり迷惑至極。
でもそういう「許せない」心理もやはりストレスからだなぁ、とも気付く。
医療関係者への「差別」など論外の事例も散見されるという。
政府の「マスク配布」計画に対して公共事業として応諾した事業者に対して
その家族にまで悪罵や嫌がらせを投げつけるような事例もあったとされる。
すべては悪しき疫病が生み出した集団ヒステリーとは言え、
社会の悪い面が象徴的に表現されていると残念に思う。
マスクは世界的な「奪い合い」状態が常態化し
通常一般ルートのドラッグストアルートでの販売はほぼ途絶している。
そういうなかで通常ルートとはまったく違う販売ルートで
「中国製」マスクが流通している。
にわかの「流通業者」がこれまでの数倍の値段で売っている。
50枚入りで500円程度だった価格がいま楽天の通販で300枚入り15,000円程度。
配送料金が掛かることを考えても5倍になっている。中国からの出荷。
身近な生活防衛としてのマスクならこういうものでも仕方ない。
しかし医療用マスクなどはぜひ国産品を最優先して欲しい。
いまは背に腹は代えられないと思うけれど、今後は中国製を買いたくはない。
資本主義世界はモノの生産でコスト最優先を追究した結果、
あらゆるサプライチェーンを中国に依存する体制になってしまっている。
経済とはなんの目的なのかと、目を覚ます必要があるのではないか。
現代社会での経済の目的は、ただただ「利益を上げる」ことだけなのだろうか?
新型コロナ禍の全過程での世界への中国権力の異様な姿勢には
みな等しくはるかな「隔絶」を感じている。
マスクや医療機器を「武器」にして「感謝しろ」と強要するような姿勢。
中国国内を独裁専制支配するその手法を世界に押しつけようとまでしている。
支配者である独裁者はつねに「英雄的」であって、謝罪などは絶対しない。
いや絶対に「できない」。
もし謝罪したりすれば、即座に独裁者個人は「粛清」されるのだろう。
中国共産党自身が、自らの独裁支配の正統性をまったく信じていないから
つねに自らは「無謬」であり絶対に正しいと押しつけるしかないのだ。
正直・公正という世界の支配的基本道徳規準には絶対に準拠できない。

新型コロナのあとの世界はどんな風景になっていくのか、
やはり西欧が培ってきた近代的民主主義思想で再構築するしかないのではないか。