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【2020年度インフルエンザワクチン接種】

例年、かかりつけのお医者さんでシーズン前にはインフルワクチンを接種。
昨年まではとくになんの感慨もなく淡々と受けていた。
お医者さんが言うことには基本的に従順な平均的日本人。
なんですが、ことしは「おお」という感じでありました・・・。
おかげさまで今のところ、健康状態は維持し続けているので、
新型コロナ禍もあって、う〜む、といった心境になった次第。
ま、そうはいっても接種しない選択肢もありえないので、謹んで受けました。
接種は月曜日2日でしたのできょうで丸3日目というところで、
特段健康状態は変わりなく推移しているので無事通過儀礼は終えられたかと。

昨日は早朝散歩でことしの「初雪」を体感。
北海道人には初雪というのは、ある種の感慨があるもので、
はじめには、すべての終了を深く思い知らされるものであり、
その気分、まことにメランコリックな諦念をもたらせるのですが、
しかし一方で「浄化」というような気分も底深くジワジワと広がってきて
やがて、あの静謐な日常がふたたびやってくるワクワク感にもつながる。
その両方の感覚が相前後して心理に訪れてくる回生感。
例年であれば、そこまでの「活動期」の一服感が支配的なのですが、
その部分でことしはかなり違いがあるように思われます。
というのは、新型コロナ禍で自分で予定していた行動目標が
ほぼ9割方フリーズされてしまいその未達感が自分で受け入れられないまま、
この年の「活動期」が終わってしまうという感覚。
この「大きな未達感」が、消化不良のままに残置された。
しかし、その喪失感ばかりかと言えばそうでもなくて、
これまで気付かなかったいろいろな「新しいこと」も生起している。
やがて人類は新型コロナ禍を克服していくでしょうし、
多くの日常を取り戻していくでしょうが、
奥深いところでチェンジしたものもあるのだろうと思うのです。
そんな心理状態の中でインフルワクチンを接種して、季節の節目も迎えた。
前に向かって開けている感覚はあるけれど、まだ慣れていない、
そんな気分でことしの初雪が巡ってきたと思えるのであります。

なんとか基本的な健康は維持されているようで
体調には変化もなく、ことしのインフルにも対処用意はできた。
さらに新型コロナへの警戒は維持しつつ、この一変した社会環境に柔軟に対応し
ジワジワとやってくる白い季節にもしなやかに臨んでいきたいと思います。
あ、医者からは同時に要ダイエット警告もあった・・・、う〜む、ジワジワ頑張ろう。

【縄文の団欒6000年前 in北陸富山/日本人のいい家⑧】




縄文期の生活痕跡は全国で多数見られるけれど、
新幹線土木工事が行われた北陸地方では、近年大規模に発掘されている。
いまは日本海海岸線から4km内陸にある「小竹貝塚」の探訪記録。
以下、富山県埋蔵文化センターHPの紹介記事要旨抜粋。
〜小竹貝塚は、富山県のほぼ中央に位置する呉羽(くれは)丘陵と、
その北に広がる射水(いみず)平野との接点に位置しています。
貝塚は縄文時代前期後葉(約6,000年前)を中心とする500年間営まれました。
現在、貝塚は海岸線から約4㎞離れた、標高約3mの内陸部に位置しています。
しかし、貝塚の時期は縄文海進の影響で貝塚のすぐそばまで
海水と淡水が入り混じった汽水域の潟湖が広がっていました。
平成21・22年度の北陸新幹線建設工事に先立つ発掘調査で、貝塚は
現地表下約2mに広がり貝殻の廃棄域以外にも墓・住居・生産加工域などをもつ
通年定住型の集落であることが分かりました。大半を汽水産のヤマトシジミで
占められた貝層の厚さは2mを超え、日本海側最大級といわれます。〜以上。


で、こちらでは縄文期の竪穴住居での家族団欒・食事風景が展示されていた。
4人家族という想定で汽水域からのヤマトシジミとおぼしき鍋食。
まだ若いお母さんが立て膝で鍋を調理していて、
対面してお父さんはあぐら座りで、一心不乱に石斧づくりをしている。
囲炉裏火の回りには各種食材が容器に盛られている。
手前のお姉ちゃんはお母さんの手伝いで魚肉すり身、つみれ団子を丸めている。
そのほか、木の実類で団子をこしらえることも多いとされる。
縄文の人々は狩猟採集で動物や魚介類、木の実・根菜類を食べていた。
シカやイノシシ、ウサギを狩猟する矢の先端の石鏃が多数発見されている。
魚介類は網漁で「軽石」を浮きとして利用し錘として石や土器製品が使われた。
竪穴住居からは鯛・ニシン・アオザメなどの骨が出土確認されている。
採集としてはクルミ・クリ・トチ・ドングリなどが食用利用されていた。
調理方法としては、縄文土器は鍋として利用されていた。
<日本人の食の基本、DNAはやはり鍋食だと思う。>
石匙(さじ)は動物や魚の皮を剥ぐのに使った「ナイフ」。
石皿と磨り石は、木の実をすりつぶすのに使った。
山の幸、海の幸を縄文土器に入れて火にかけて煮込み、
魚肉をすってまるめ「つみれ」として鍋に入れてスープといっしょに食べた。
木の実などは、谷の湧水池でアクを抜いてすりつぶして粉にして
団子に丸め鍋に入れたりクッキーのように焼いていたと推定されている。
う〜む、炭水化物少なめな健康食・・・。

なんとも豊かな食生活が想像されてくる。
それと、女性の「立て膝」習慣がマネキンで復元されているが、
いまの大河ドラマ「麒麟がくる」でも、女性登場人物は多くが立て膝姿勢。
日本女性の基本的な姿勢習慣として、根強く存続していたとされる。
この縄文時代でも同様だという復元考証。これもまた興味深い。
いやむしろ、正座という中国からもたらされた宗教的な座習慣が
本家の中国では廃れ、日本で継続していることの方が面白いのかも。

【激太りノートMacバッテリー交換 ルンルン】


天高く馬肥ゆる秋・・・は、結構ですがノートPCでは絶対ダメ。
先日、ウンともスンとも言わなくなったMacbookPro2009年タイプ。
見てみると、背面側というか下側というか、が異常に激太りしている(笑)。
なんと、太りすぎて筐体からはみ出しているではありませんか。
笑い事ではない、かなり重症の激太り。さぞや体調も悪かったに違いない。
最近、お医者さんからチェック信号を送られているので同病相憐れむ(笑)・・・
いえいえ、わたしはこんなにひどくなってはいません(キッパリ)。
あきらかにバッテリーがご臨終されていることが見て取れる状況。
背面カバーを外しバッテリー取り出し後、電源起動させ本体の健在確認後、
くだんのバッテリーの交換品をWEBで探してサードパーティのヤツを購入。
届いたそれを「激太りバッテリー」と並べて写真に収めたところ。
下側には机面に置いた「横顔」を撮影しましたが、
見るも愉しい激太りぶり(笑)。机面でおなかを揺すってくれている。

会社内にはパソコンがトータルで50-60台程度はある。
その日常メンテナンスについては、各人に簡単な「教育」をして任せる主義。
しかし、どうしても動かなくなるとわたしにレスキュー依頼が来る。
ある程度経験を積めばだれでもできるけれど、わたしは経験年数長いので。
20年ほど前までは、Macといえばとにかく不安定で「システムエラー」表示の
アイコンに「爆弾マーク」を出現させていた(笑)。
いまでこそ笑い話だけれど、はじめて爆弾マークと遭遇したときは
それこそ「爆発しないように」と神経がフリーズしていた(笑)。
OSにUNIX系の安定したシステムOS-Xを採用してから俄然安定はしたけれど
そうはいっても、日頃のメンテナンスは欠かせない。
この激太りノートMacもほぼ最古参のロートル機種で、常時立ち上げておいて
いわば「仲立ち連絡役」みたいな仕事をさせていた。さすがに
常時起きているというのは、過酷だったのかも知れないなぁと、
ついやさしくなってしまいがち。わたしは太り気味の方には前記のように
親近感を持つタイプなので、あんまり冷たくできない。
なので、現役からはややリタイヤだけれど、これからもうひと仕事
活躍の場を作ってあげたいという思いがある。
コスパ最優先の小技でメンテナンスしてあげて、現役復帰させたいなぁと。

時間を見つけては、筐体を開けてあれこれと手術の予定を立てる。
これはこれで、パソコンというわたしの仕事人生での大きな存在との
年を経てきた「愉しみ」でもあるように思います。
そのうち人類には、パソコン供養みたいな文化が起こるような気もする・・・。

【ブレグジット以来の報道と民意の乖離 米大統領選】


レッド・ミラージュというコトバがアメリカで語られているとのこと。
米大統領選での結果についてで、投開票日段階では
全米地図が赤(共和党)に染まるが、やがて蜃気楼(ミラージュ)のように消えて
青色(民主党)にクッキリと色づいていく、という寓意。
上の写真はそんな寓意を札幌のいまの風景写真に重ねてみた(笑)。
ことしの大統領選挙は新型コロナ禍の最中であり密集による感染リスクを避けて
「郵便投票」が広範に奨められ事実として進んでいる。
その結果、不正投票リスクを避けるため本人確認作業が膨大になり、
しかも郵便制度事情が、管理の行き届いた日本の常識とは隔絶した
アメリカの社会事情の中では、不正行為、操作が可能とされている。
そして全米の州ごとの「選挙人」を選ぶという建て付けの選挙ということで、
たとえ1人の投票差でもその州の全数を1人の候補が総取りすると言う制度。
前回大統領選でも、投票総数はヒラリー・クリントンが上回ったけれど、
投票人の多数をトランプが獲得して当選した。
前回は事前の「世論調査」ではヒラリー優勢と伝えられていたけれど、
それら世論調査はまったくの「完敗」を喫したと言える。
言うまでもなくそれらの主体はアメリカの「報道の主流派勢力」に当たる。
あの当時、直前にイギリスでの「ブレグジット」EUからの離脱国民投票で
事前には「残留派」が圧倒的多数と報じられていたのに、蓋を開けたら
離脱派が多数を占めていた、というよく似た事象が発生していた。
トランプの勝利はこの脈絡でよく論評されていた。
いわくエスタブリッシュ、インテリの米英「指導的報道権力」への大衆民意の反乱。
米英の社会は同質性が高く、民意の底流の世界的同質性が議された。
このような「報道と民意の乖離・相反」は日本でも同様にある傾向。
国政選挙で6回も圧倒的票差で信任され続けた政権への執拗な報道機関の
怨嗟にも似た攻撃姿勢は、サイレントマジョリティから選挙で反証され続けた。
既成報道権力から比較的に自由なWEB、SNSの発達が構造変化を促した。

さて今回、相変わらずトランプという人物性への批判があり、
とくにアメリカ社会のエスタブリッシュたちには反トランプ「感情」が強い。
インテリや情報権力を掌握している層、主流メディアには顕著だといえる。
いまやアンティファやBLMなど「暴力勢力」までその流れで黙認されつつある。
今回NYのタブロイド紙が民主党のバイデン側のスキャンダルを報道したが、
それにTwitterやFacebookが拡散に検閲規制をかける事態が発覚したことで、
逆に大きな批判のうねりが生じているとされている。
バイデン陣営からはこの疑惑に対し、正面から証拠を示しての
あるべき反論、反証がなく「ロシアが関与している」などと
根拠の薄い論点ずらしに終始している。先の最後の候補者同士の討論会でも
トランプの指摘に対してバイデンはそういう対応を取っていた。
アメリカでも主流メディアは総じて心情的にエスタブリッシュ側に立っていて
バイデン支持というよりも「反トランプ」という旗幟を鮮明にしている。
これでもかとバイデン優勢と世論調査結果を声高にアナウンスしてきた。
しかし投開票日直前で、トランプ巻き返しという調査結果もいよいよ出てきた。
民意の帰趨は、かれらにしてもまったく予断は許されないのだろう。
そしてこのブログを下書きした後、今朝早く反トランプメディアの急先鋒・CNNが
「ドナルド・トランプ大統領は2期目を迎えるに値する」という
思わず目を疑うような、これまでの報道姿勢を180度変えた記事を発表した。
全国大手メディアとしてはじめて本格的にバイデンのスキャンダルを報じた
FOXの番組視聴率が通常の倍近い視聴率で国民に見られたという報道も出た。
「世論調査」で誘導的なCNNにし、真実の民意の底流変化を認めたものか、
あるいは、どっちに転んでもいいよう選挙後のメディアとしての安全を担保か。
「ミラージュ」はレッドではなく、ブルーだったのかも知れない。
あまりの報道姿勢急変・急ハンドルに、大きな疑問が湧いてくる。

アメリカの帰趨は世界情勢に非常に大きな要素。
とくに米中冷戦の真ん中に位置する日本の地政学的位置から考えると決定的。
米英「ファイブアイズ」日本参加が展望される国際環境構造変化プロセスでもある。
他国民としてだけれど固唾を飲んで注目せざるを得ない。

【戦国期城下町「一乗谷」の都市計画】


2日間にわたって「史跡・一乗谷」を取材構成してみました。
中世戦国期には実質的地域支配争奪が活発に繰り広げられた。
復元武家屋敷の「考証」には興味を持たされるのですが、
現物として再生された住宅は、実用的なシンプルさの建物。
戦乱の時代でもあり、朝倉氏の居館などの政治目的をもった施設以外は
仮設的な意匠性で、権威とか階級誇示のような側面は少なかった可能性は高い。

で、上の「街割り図」は、戦国期の地域支配権力の「小都市」として
建築的に興味深い史跡発掘結果だと思います。
最盛時の人口は10,000人と言われている。
比較としては、1550年頃の全国都市の推計人口がある。
ターシャス・チャンドラーによる16世紀までの主要都市の推定人口
そこでは京都 10万 博多 1,7万 山口 6万 堺 6万 大阪本願寺 3万~6万
というような都市人口の状況が推定されている。
上智大学経済学部教授・鬼頭宏さん資料1600年の全国人口推定は
1389万人とされ、北陸地域全体で86万人、畿内周辺で140万人。
北陸とは、越前・越中・能登・越後など琵琶湖以北日本海側全域。
そう考えると、後背経済圏越前だけで1万人規模はかなりの「都市」。
戦国期を通じて、京都で戦乱が起こると権力周辺層は
中国地域の覇者・大内氏支配地域・山口などに逃れたとされるけれど、
いちばん京都に近い比較的「秩序安定地域」として一乗谷は認識されていた。
都市というのは、この時代博多や堺などの商業都市以外では
地域の安定権力・戦国大名「城下町」が相当していたと考えられる。
まぁイマドキで言えば、企業城下町という概念に近いかも知れない。
地域の戦国大名はその地域の経済を掌握し、軍事統帥権も掌握していた。
都市としての性格としては「城下町」ということになるのだろう。
一乗谷の性格についてWikipediaでは以下の記述(要旨)。
〜現在の福井市街の東南方向約10キロメートル離れた九頭竜川支流
足羽川のさらに支流・一乗谷川沿いの谷あい。東西約500メートル、
南北約3キロと狭小だが、福井平野の端から山地に入ってすぐの場所に位置し、
数キロ先の目前に北陸道や美濃街道、鹿俣峠を抜け越前府中へ続く街道、
北陸道と連絡した朝倉街道などが通る、交通の要衝をすぐ押さえられる位置。
東、西、南を山に囲まれた要害で、南北に城戸を設け、その間の長さ約1.7キロの
「城戸ノ内」に、朝倉館(武家屋敷)をはじめ、侍屋敷、寺院、職人や商人の町屋が
計画的に整備された道路の両面に立ち並び、日本有数の城下町を形成していた。
周辺の山峰には城砦や見張台が築かれ、地域全体が広大な要塞群。 〜

ちょうど細長い街区の出入り口を関所で閉じてしまえば、
防衛的都市封鎖がカンタンに可能になるし、城砦も山地に築かれている。
布袋を上下で紐で閉じるような面白い都市構造。よく考えた(笑)。
基本的な中枢施設は「朝倉氏居館」で、政庁機能を保っていただろう。
その「家臣団」居住地域としての「武家屋敷群」があり、
そこから生み出される各種需要に対応した「寺院と町家群」地域に分かれる。
河川流通も利用可能で、平時の物流集散機能を考え合わせると
この時代の人口集積条件的にはかなりの好条件を持っていたと考えられる。
もうちょっと時代が経つと信長秀吉的な商業都市機能中心に移行して、
大阪大都市建築がはじまる。その直前期の都市計画の典型か。
中心施設とその需要に対応する都市の原型を、しげしげ見入っています。

【朝倉家家臣の武家屋敷/日本人のいい家⑦-2】



昨日の続篇です。一乗谷朝倉家本拠・中世城下町の家臣の武家屋敷。
きのうは300坪弱の敷地内での機能配置について触れました。
本日は建物としてのメイン、屋敷の主人の復元住宅・平屋24坪について。
図面では右上に「離れ座敷」の記載がありますが、写真不明。

上の写真は土間入口側からの室内全景。
あくまでも「復元」なので歴史考証がどこまで追究されたかは不明ですが、
礎石や土木痕跡などからの考証でしょうから復元建築に準拠取材。
後の世の武家屋敷のように意匠を凝らした「玄関・式台」は見られなかった。
またいわゆる床の間や神聖空間的な座敷も見られない。
間取りも6間×4間という長方形間取りであり、建築合理性、実利優先的作り。
玄関などは「張り出し」とか、基礎形状に変形が見られるのが普通なので、
正長方形の基礎土木からシンプルな建築が想定されたのでしょう。
農家住宅とも似通った実用的な作られようだと思います。
土間側と畳敷き側とで各2間スパンで正確に分割されている。
このあたりの「間取り」については前述のような判断に基づいているのでしょう。
全体として左右均等になって、ハレとケという暮らしの2分法が
建築として明確で、現代住宅と似通った作られよう。
写真右側のケの空間には台所・土間、さらに奥には「納戸」が配置されてる。
この納戸は台所の奥に出入り口も見えることから、食器などの収納をはじめ、
寝具などあらゆる生活用具が集中収納されている。
納戸は木製引き戸での出入りなので、室内各室へのアクセスはかなり便利そう。
分散収納よりも集中収納がこの時代では志向されていたという考証ぶり。
左側のハレの空間は座敷が3間取られている。
現代の合理性とも通用する間取り・木材利用のムダのない様式。
なぜかまな板の上に載せて調理人が魚を捌こうとしているマネキンと
女性が配膳に立ち働いている様も演出されていた(笑)。
土間と連続する囲炉裏配置であり、いかにも暮らしの実用が伝わってくる。
台所の開口部が上下2箇所あって、換気に配慮の様子が見える。
復元ながら建築史的にこのような事例が一般的だったのか、要研究。
台所周辺では煙り出しなどの建築的工夫は古民家でも普遍的。
煙り出しと壁面上下2箇所換気窓、機能性建築装置として面白い。
一乗谷地域に復元された町家との違いは敷地面積の300坪という自立循環性。
広い敷地で自家消費の野菜類を確保できた。
町家は敷地も狭いので、この時代の格差とはそういう機能性だったのか?


しかし総じて非常に実用的で「階級意識」的な部分は感じられない。
戦国期には武家という存在は確立した「身分制」的存在ではないように思える。
このような印象を復元建築からは受けたけれど、考証プロセスも知りたくなった。
そういうなかで唯一の空間的「ゆとり」は南面する縁側。
写真では太陽光反射がキツいけれど、四季を通じての太陽光&熱感受装置。
庶民的・民族的な日光温浴習慣の普遍性を感じます。

【460年前頃・越前一乗谷武家屋敷/日本人のいい家⑦】




さて久しぶりに「日本人のいい家」シリーズに復帰です。
このシリーズは、歴史的な過去建築・遺跡から日本人の住空間を考えるもの。
自分自身、こういう探索がいちばん本然ではないかと思っています。
もうこの世にはいないけれど、同じ日本人としてDNA的な取材対話が成立する。
・・・と思える瞬間を経験できると無上の歓びが湧いてくる(笑)。

で、ことしのNHK大河ドラマ「麒麟がくる」。新型コロナで放送予定の
大幅中断があって、オモシロいと同時に同じ苦難を共有するドラマとして
まことに国民的な感情移入が深いように思えております。
で、物語はまだ中盤程度ですが、ドラマで越前朝倉家の「一乗谷」都市が
明智光秀家族が一時期身を寄せていた場所としてクローズアップ。
重要な背景風景になっている。今週以降、信長の越前攻めなども予測される。
わたしは2014年にこの一乗谷都市遺跡を訪問していた。
その一部を写真にも収めていたので感情移入がハンパない(笑)。
一乗谷は戦国大名の中世都市として奇跡的に遺跡保全されている。
まぁもちろん建築などは消失しているけれど、建築土木痕跡などは残存し、
また、後世の土木的改変が少ない「都市痕跡」だということ。
その写真類から「復元武家屋敷」を紹介。本日は敷地内での「配置」から。
朝倉氏家臣団の上級武家のための住宅地割り土木痕跡に基づく復元。
屋敷の敷地は約30m四方というもので、約273坪ほどの広さ。
おおむね300坪という敷地で、150年前の原札幌の街割りも住宅地は同様規格。
友人の札幌市中央区内の原札幌の地割りのままの敷地も同じ広さ。
これくらいの敷地であれば、野菜などの菜園を敷地内で確保できるので、
人間居住のための土地割としては人類普遍合理的だと聞いた記憶がある。
その敷地内に主のための「主殿」6間×4間・24坪の広さの平屋建物がある。
上の写真は主殿を門の方向から右方向に見た外観写真。
主殿は敷地の南西側端に配置。隠居老人用と思われる「離れ」も隣接。
門を入って右側には仕切土壁があって、その内側には庭空間がある。
写真右手の土壁の中が庭。で、画面左手には便所が建てられている。
敷地のほぼ中心に厠が建てられているのはどういった理由か?
通常は使用人が敷地内で作業していて、かれらの利用が考えられていたか。
あるいは肥をそのまま敷地内の「菜園」に施肥しやすいと考えたものか。
敷地の北半分には井戸、使用人の居住する「納屋」や「蔵」が配置されている。

主殿入口は東入りで北側に台所土間が配置され、南側が畳敷きの座敷。
座敷は南側に開いていて、広い「縁側」が南面している。
家具などはすべて納戸収納として室内設計仕様で復元されている。
このあたり中世的な暮らしようが推定されて興味深い。
入口の表門は西に向いており四周を囲む土壁の塀に開口している。
武家として防御性の高い土塀が必需的建築装置。社会ニーズが高かった。
入口に対して主殿の配置は奥に位置することになるのは、
やはり武家として、万が一外敵が門を破って襲ってきたとしても
一定の防御態勢が可能なように工夫されたものかと想像できる。
敷地のサイズが現代まで連綿と続く300坪程度で、中世都市と現代都市の
共通建築言語が確認できて、武家屋敷とはいえ人間同質性を感じさせられる。
「麒麟がくる」を見る楽しみの補助線情報としてお役に立てれば幸い(笑)。
あ、光秀はこういう「武家屋敷」には住んでいなかったハズ。かれは
朝倉家では「仕官」が叶わなかったとされているので、あす以降で
紹介の一乗谷「町家」区画で生活していたのではと思われます。
あしたはこの主殿の内部空間と間取りほかを紹介します。

【新型コロナ禍からの復元:情報・経済「地域格差」】


ことしの2月末くらいから、新型コロナという「社会不安」が世を覆い、
世界の中でそれほど重篤事態ではなかった日本でも、危機を煽るメディアなどの
情報扇動に押されるように、万が一に備えての政権の法整備・非常事態宣言が
思わぬほど早めに発動され、いわば自粛型社会封鎖が機能してきた。
情報弱者向けとしか思えないテレビのワイドショー番組など
ひたすら危機を喚き散らしたメディアに引きずられた側面は強いと思う。
どうも賢明な民主主義に衆愚ヒステリーが勝っていたとも思える。
江戸期に根付いた「五人組」的な相互監視的社会システムがフル稼働した。
公園で遊んでいることを批判するなど行きすぎも目立ったのではないか。
ちょっとでも活動的な動きをすれば、監視社会的な圧力が掛かる息苦しさ。
そのような事態から数えても、8ヶ月が経過してきている。
まさかここまでの萎縮・社会収縮が継続するとは、というのが実感。
当初は、まぁ2−3ヶ月程度で少なくとも秋口には本格的な経済再開と
予測していたけれど、いまは完全にその不明を噛みしめるのみですね。
そういうなかでようやくいろいろなビジネス活動が波及してきている。
東京の情報企業から新規案件が働きかけられてきた。
新規案件・営業訪問代わりのZoomでの情報交換機会が提案されてきた。
逆にこちらからの「業界」的な情報収集も兼ねて、打合せ時間を持った。

このような自粛社会的環境になると、東京というビジネス中心地のメリット、
きわめて競争優位性が高いと思わざるを得ない。
ビジネスで考えると、このような事態の元で東京の政府機構との距離が
大きな「格差」を明確に生んでしまっていると思う。
とくに人の移動制限は東京と地方の「格差」を拡大するバイアス。
わたしたち地方企業にとって情報発掘のための出張すら監視告発される環境。
一方で東京都内では当然、移動が制限されることは少ない。
経済封鎖に近い環境の中では、政府支出が飛び抜けて主役になる。
経済とは「カネ」の流れに沿って展開していくのは必然。
これは新型コロナ禍対応で新規100兆円近い規模になっていると思うけれど、
当然、それらの水道の「蛇口」に近い企業が競争優位にならざるを得ない。
そうでなくとも東京の企業集中はハンパない規模であり、
それら同士でのやり取りだけでも、市場規模は絶対的優位性を持っている。
一方で地方は、各地で孤立的に中央省庁の動向に振り回されつつ、
横の情報流通もできず、東京からの一方通行の情報に従わされるしかない。
わかりにくい官僚機構言語がまんま電子化された文書への対応力だけ見ても
たぶん日常的に政府機構と情報交換できれば数秒で解決できることが
数十日、それだけで浪費されざるを得ない徒労感。
そういう地域経済人の口惜しさは毎日肌で感じられます。
わたしたちのようなビジネス領域ではきわめて縁遠かった政府支出について
否応なくそれとの対応に追われざるを得ないけれど、
その相手先自体が、政府支出窓口外部発注で東京本社大手企業だったりする。
中央省庁の財政出動による各種事業の民間への「受け皿」も東京本社大企業が
集約的に「受注」しているのが実態なのでしょう。
「そうか、こういう作戦もあるのか・・・」と地方企業としてため息も出る。

ようやくGoToキャンペーンなどの活況で、経済の動きが出てきているけれど
たぶん東京・中央が活況になるまで、地方は息を潜めざるを得ない。
まぁこういうことは自明のことであり、地方中小零細企業としては
なんとか自力更生で突破口を切り開いていかなければならないのでしょうね。
<写真は東京・明治神宮「神楽殿」>

【冷や麦から新そば経由、わが家乾麺主役交代】


ことしの夏の間、わが家ではなぜか「冷や麦」が麺類のレギュラー独占。
わたしの家系はどうやら播州の麺文化と関わりが深いようで、
のど越しの爽快感がDNAにいたく染みわたるように思っております。
縁のある地域では「もちむぎ麺」というのが名物とのことで、
たぶんそういった好みを受け継いできているのか、のど食感の嗜好性がヤバい。
で、ことしはふと購入した冷や麦乾麺がぴったりと好みにアジャストして
最初は疑心暗鬼のようだったカミさんもすっかりゾッコンに。
好みとなると、大量買い込みしてしまって、夏の間中食べまくっていた。
ホントは過ぎたるは及ばざるがごとし、とは思うのですが
好みというのには盲目性とか習慣性が関わっているのでしょうね。
また夫婦とも完全一致というのは、家庭円満の元でもあるので(笑)。

そんな先日ふと友人宅の近所で「新そば」の看板を発見。
店構えも「そば」店としての訴求力に満ちあふれていた。
日本人とそば食には長い民族・民俗史がそこにあるので、
「建築デザイン」として考えて相当の深みとバラエティがあると思っています。
そういった民俗的「好み」に敏感な店主であれば味も期待できる、
という「コミュニケーション」がそば店の外観にはあると思います(笑)。
う〜む「そば店・建築デザイン論」企画いいかも・・・。
で、夫婦でワクワクしながら食べさせていただいて、久しぶりの食味を堪能。
そばの玄妙な爽やかさにしばし、ふたりながら食感に陶然としていた。
しばらく食べていなかったことで、感覚が新鮮に「よみがえる」ものなのか、
その「蘇生」感がなんとも言えず全身を駆け巡るように感じました。
まぁ自分でそばを打つ友人たちほどにはのめり込まないようにしているので、
わたしは日常的には手軽な乾麺志向。
ということで、さっそく先週日曜日に品揃えで話題の大型スーパーで
各種そば乾麺を多種類購入。「おお、こんなにある・・・」
ここ数日、それらを食べ比べる愉しみに浸っております。
多いときには1日2食が乾麺そば食という状態(笑)。
そういえば、一時期ハマっていた新潟出身のカメラマンさん推奨の
「妻有そば」通販利用再開もあるなぁと、この楽しみに再度心躍らせております。
しかし乾麺そばは、味わいが非常にバラエティに富んでいる。
っていうか、美味:「それほど」のバラツキが大きすぎる。
価格と味にはあんまり相関性がないというのも新たな発見でした。
4種類ほど買って来たけれど、一番美味しかったのは安い方から2番目のヤツで
なんと一番高かったのがいちばん美味しくなかった(!)。
ちなみに一番安かったヤツも2番目に美味しかった(笑)。ほぼ反比例。
まぁ味のことだから好みもあるのでしょうが、この「最高級値段逸品」、
茹でると、てきめんに太くなって案の上食べたらそばの味が薄い、薄い。
これはうどんか、みたいな情けなさ(笑)。

この「品評」は夫婦ともまったく同意見だったことで、
狭いながらもわが家の「世論」は一気に決着してしまいました。
さらなる夫婦円満も呼び込んでくれた乾麺そばに感謝であります(笑)。

【戦争と人口増はウラ表 平和な社会は人口平衡】

しばらく北総研の研究発表での地域問題、人口減少社会テーマを考えました。
2045年で北海道地域人口が25%減少する未来予測に対して
地域自治体はどう対応するか、そして社会はどうすべきかは
真剣に取り組まなければならない。人口増は非常に難しい。
そもそも現代世界で人口問題が大きく扱われるのはそれが「市場の規模」を
決定し、それによって経済が大きな影響を受けることが大きい。
とくに住宅建築にとってはこの趨勢がいちばん重要なポイントだというのは
誰が考えても当然でしょう。
ただ、住宅着工数は近年は変化が「なだらか」な推移を見せる傾向。
マクロの人口動態より、むしろ景気対策とかによって影響を受けることが多い。
また、住宅は新築需要だけが存在するものではない。
基本的に人口問題との関係は冷静な視点で見る必要があると思える。

マクロ視点では上智大学経済学部教授・鬼頭宏氏の歴史人口学の研究では
江戸時代は戦国終結での開始期1600年ころに約1,400万人から
120年後に3,100万人口に到達して、幕末まで平衡状態で推移した。
では幕府は人口政策を持っていたのかというと、
そういった自覚的な政策はなかったのだろうと思う。
安定社会存続という志向から人口増加よりも平衡型の方向性が選択されていた。
それに対して、明治期以降は国民国家としての帝国主義国際情勢に対応して
殖産興業と、相次いだ戦争から基本的に人口増加が志向された。
で、第2次世界大戦での日本の戦死者数が310万人と巨大だったことで
戦後、一気にベビーブームが社会を覆った。
そこから1億2,000万人まで人口増加が続きそしていま人口減に直面する。
人口動態の推移では上のようなグラフが常識的に参照されます。
いわゆる「合計特殊出生率」を先進国で国際比較した資料。
現代は先進国では人口は平衡的状態にある趨勢。
わたしの両親は戦争中に結婚して、合計6人のこどもを産んだ。
それに対して子ども世代であるわたしの兄弟はおおむね2〜3人だった。
合計特殊出生率は低下しているけれど、図を見れば
多くの先進国ではいずれ、このような推移をするものなのでしょう。
こういった人口平衡というのは平和時の人類傾向のように思う。
逆に言えばビッグバン的な「人口増加」の方が特異なケース。
悲しいかな、戦争という事態が人口増減の決定的な誘因なのではないか。
戦争による出生増の特殊要因と国民健康向上での高齢化の相互作用で
明治以降と戦後の特殊な「人口増」があったというのが実態に近いのではないか。
国際外交の活発化や「国際世論」による緊張緩和バイアスの向上で
先進国間での大きな戦争が今後考えにくいとすれば
人口問題というものは自然にバランスしていく可能性も高いとも思える。

平和な時代には、おおむね2人の親から2人程度の子どもが生まれるのが平常。
経済と人口問題は関係はあるけれど、相対的には独立的な事象。
現代では経済政策、その運営が一番のキモ。
そこを安定させることが、人口動態変化に対応する最良の道なのでしょう。