本文へジャンプ

【2020夏・コロナ禍での息苦しい人間関係】

お盆休暇もきょうまで。みなさんいかがお過ごしでしょうか?
写真は先日報道された、東京から「帰省」者に対する青森市内の
近隣住民からと思われる「投げ込み」の殴り書きメッセージ。
2020年夏の息苦しさを端的に表すものとして、こころに焼き付いた。
このような心ないコトバを投げつけられたことに深く同情すると同時に
しかしこういうことに配慮もせねばならない息苦しい現実も感じる。
逆に匿名とは言えここまで他人に、その心理を想像せずに投げることにも驚く。
いまわたしたちすべては、こういう心理環境に「追い詰められている」。
この両方の気分が重なって、気分が重く沈殿してしまう。

昨日もある温泉施設で入浴中、浴槽のなかでわたしを挟んだおふたりが
わたしの方向に向かって大声で喚き合うように話し込まれていた。
ツバキが飛んでくるような笑い声を交わし合って、間のわたしはいごこちが悪い。
その位置にはわたしが先にいて、おふたりは後で位置を占められた。
その後で、お互いに顔見知りと気付いての話し込み。
普段であれば気さくな会話として、他者であるわたしは聞き流しているシーン。
しかしやはり、3密というコロナ対策マナーからは困った事態。
やむなくこちら側で、場所を移動せざるを得なかった。
ただ、まるで非難と受け取られないよう「さりげなさ」も装うように気も遣う。
なんとも言えない、誰も悪くないこういう気まずさが本当にイヤだ。
お互い他者に無用の迷惑を掛けないよう、いまは気をつけるべきではある。
しかし一方こうした普通のコミュニケーションが失われることにも残念感は募る。
ごく普通の自然な人間会話に罪などあろうハズがない。

こういった「関係性」が永続する可能性もありえる。・・・
というような絶望感もだんだん現実的になって来たと言えるのだろうか?
しかしいま毎日のように「感染者数」が発表されている割には
「重症患者数」は伸びていないともされている。
公知にもとづいた「常識」的行為規範がまだ形成されていない段階では
まるでオオカミ少年のように不安だけを社会にまき散らすことを
だれにも制止させることはできない。
写真の他者への非難のコトバの書き手も、こういった感情にかられての行為でしょう。
心配なのは、こういう行為が常態化すること。
このような人間不信連鎖からは、社会に悪影響が出るのではないか。
2020年夏の息苦しさを忘れられるときが来ることを強く祈念したい。

【中共党海軍連携の民兵「漁船団」尖閣へ?】

イラストは古日本列島居住の化石人骨から推定される「生態」。
生業としての潜水漁法の結果、耳骨が発達して環境適合していたという。
本日はトピずれですが終戦記念日関連の時事テーマです、あしからず。

日本はお盆最中ですが、日本の南西端・尖閣では緊張が高まっている。
中国が勝手に決めている「禁漁期間」が16日に開けるということで、
漁船団が大挙して尖閣海域に「入漁」してくるのではと危惧されている。
その漁船団とは、事実上「民兵組織」であり、
それを「保護」する名目で「海警」船団も尖閣海域に入域する可能性が高い。
さらには、中国共産党の私兵・中国海軍艇も遠巻きに進出してくる可能性。
そもそも海警も中国共産党海軍の指揮下の組織なのだという。

中国軍とは天安門で自国民を戦車でひき殺した中国共産党私兵軍が本質。
露骨な「侵略」行為を世界の耳目が集中する中で強行する可能性がある。
昔人は環境適合の結果での耳骨発達だったけれど、現代の中共は
世界にまったく「耳を貸さず」侵略・現状変更に邁進してきている。

このあからさまな蛮行に対して、日米共同対応の可能性も報道されている。
結果として新型コロナウィルスを世界に広め、その混乱を利用しての傍若無人。
一方で、ミサイル防衛についての発表での河野防衛相へのマスコミの質問。
「周辺国・中韓の理解が得られていない」発言。東京新聞記者だという。
それへ防衛相「(対日ミサイル増強の国に)なぜ理解を得る必要があるのか」発言。
日本の防衛に対してこれら日本メディアは端的に阻害になっているのではないか?
世界できわめて特異な「自虐憲法」を金科玉条として、その無防備ぶりを
礼賛している。危機はむしろそれを好き放題に利用する「周辺諸国」の動き。
絶対に攻撃されない「憲法」保証に基づいて無謀のふるまいを続ける中国などに
「理解を求める」姿勢をこれらメディアは自国政府に高声で強要している。
すでに沖縄県の漁船に対して執拗な攻撃的追尾を繰り返され
危険にさらされる現実が進行しているのに。「進歩派」という自己陶酔の病。
そうした現状体制の根拠である「敗戦」から75年目の記念日。

自衛隊の「防衛」出動は現状では難しい中で、
むしろ米国側から「共同作戦」的な提案がなされていると聞く。
そのこと自体が「抑止力」として働いて、中国の無軌道な行動が抑制されることを
期待したいけれど、予断は決して許されない。
16日を翌日に控え、水面下で熾烈な情報戦が行われていることは間違いない。
日本の平和状況に、底流で危機が迫っているのではないか。

【稲荷社「連続鳥居」 ジャパンカラー・デザイン感覚】


写真は昨日記載の「中富良野神社」境内に併存している「稲荷社」の様子。

神社とは、日本固有の宗教である神道の信仰に基づく祭祀施設。
その性格は産土神、天神地祇、皇室や氏族の祖神、偉人や義士などの霊などが
神として祀られる。 文部科学省の資料では日本全国に約8万5千の神社がある。
そのうち、稲荷社の本宮とされる伏見稲荷大社のHPでは全国に約3万社の
「稲荷社」があるとされています。
ただし、一般的には神さまはひとつの神社に複数が併存しているのが実態。
なので、主祭神神社で稲荷神社は2970社で、
32000社が境内社・合祀など全ての分祀社とされます。
いかにも「八百万の神々」への分け隔てのない精神性は日本人的。
わたしがごく身近に接している神社、播州英賀神社、相模原鹿島神社でも
本来の産土神、鹿島さんと併存して稲荷社があります。
そのそれぞれの神さまの得意分野を「勧請」するのが地域信仰のありよう。
五穀豊穣・商売繁盛というのが稲荷社の本旨で御利益期待ということでしょう。
そういう意味では境内社として勧請されているのが32,000社という数は
稲荷社の人気の高さを表している。4割近くに勧請されている計算になる。

さらに伏見稲荷大社のHPには
「なぜ「お稲荷さん」には鳥居がいっぱいあるの?」
という素朴な疑問に対してQ&Aで以下のような答えの記載。
A:願い事が「通る」或いは「通った」御礼の意味から、鳥居を感謝のしるしとして
奉納することが江戸時代以降に広がった結果です。現在は約1万基の鳥居が
(伏見稲荷大社の)お山の参道全体に並んで立っています。〜ということ。
現世利益の結果として、どんどんと「増えていった」ということなのでしょう。
まことに「欲望自然主義」を感じさせてくれる(笑)。
しかし建築デザインとしてこの丹塗りの鳥居の連続感は特徴的。
水銀である丹は木材の防腐剤としてジャパンカラーの中核を形成してきた。
そういえば日の丸も、この丹色が真ん中に鎮座している。
同様の利用途が出自とされる北欧スウェーデンの住宅外壁塗料の色合いとは、
その明度において、あきらかに日本の丹色の方が鮮やか。
なので住宅にはそう使われず、宗教的建築に限定利用されてきたのでしょう。
江戸期自然発生ということなので、日本人の心性を深く捉えている証明。
先日「厳島」の丹の基調色が特徴的な社殿写真を掲載しましたが、かなり好評。
こういうカラフルさに日本人は深く癒されるのか、興奮するのか、
とにかく、大好きであるから長く続いてきているのでしょう。
そのカラーが鳥居という形態で屹立し、それがハーモニーとして連続する。
こういった風景が日本の四季感覚に深く融合していっているのでしょうね。

【北海道神宮奉納フラヌイ注連縄:中富良野取材】



開拓初期には北海道では米作は不可能と思われていた。・・・
注連縄という宗教文化には、その素材として稲ワラが不可欠なので、
開拓三神を祀った北海道神宮では最初、この注連縄はどうしていたか?
もちろん伊勢神宮など注連縄のない神社もあるけれど・・・。
麻縄という選択肢もあるけれど、やはり米作と日本社会は底深く根がらみ。
残念ながら、最初期の様子を伝える鳥居や社殿の写真でも
注連縄の様子をうかがえる写真は見当たらない。
それどころか開拓初期には北海道では「縄」が主要な販売品とされていた。
本州以南社会では、縄というのは水田耕作の必然で発生するありふれたもの。
昔のテレビ番組などでよく見かける米作農家「夜なべ仕事」現金収入の定番。
北海道ではそれを高価な輸送費をかけてわざわざ本州から移入していた。
そういう北海道で開拓三神は首を長くして、注連縄を待っていたかも知れない。
北海道の神社建築と注連縄歴史についての研究はあまり聞かないので、
当面は想像を巡らすしかないでしょうね。

で、北海道神宮にフラヌイ注連縄を奉納している地元の中富良野神社に取材。
情報をいただいた好事家のTさんは「氏子でもないので・・・」と内気に
神社の神主さんにこの注連縄について尋ねられなかったそうですが、
わたしは、年来の「神札収集」趣味を活かして1,000円なりを出資するカタチで
お礼もお支払いし、根掘り葉掘り質問攻めにしておりました。
最初は境内周辺で子犬を散歩に連れていた女性に問いかけたのですが、
どうも話が通じやすく弾んでいたら、社務所に案内された。
どうやら、神主さんご一家の方だったようで、神主さんに質問バトンタッチ。
「あの、失礼ですが鳥居には注連縄ないですね」
「そうなんです、あれは野外に掛けるので1年持たず、降ろすんです。
ことしは、9月4日に注連縄が新規に奉納される予定」ということ。
氏子の「俵御輿同志会」が毎年制作して、奉納されるのだそうです。
北海道神宮への奉納の契機は、昭和28年7月に旭川の「上川神社」に奉納し、
昭和34年北海道神宮の前身、札幌神社に同じデザインの注連縄が奉納された。
この奉納がテレビなどで放映されることで話題が集中したとされます。
「で、この注連縄デザインは岩木山神社と瓜二つなんですが?・・・」
「それは、この中富良野には津軽からの農民集団移住があって・・・」
という想像通りの由縁だそうであります。
津軽農民としてやはり米作への思いが強く、入植以来コメ生産に勤しんできた。
「注連縄400kgの材料の稲ワラはその倍くらい必要なんですね。
コメは品種改良が進んでイマドキは背丈が短くなっている。材料確保がたいへん」
というような制作状況のようですし、さらに俵御輿同志会の高齢化も進んでいる。
中富良野神社では第1鳥居にフラヌイ注連縄が据えられる。
北海道神宮は本殿前の屋根付き「神門」に備えられているので持ちがいいようです。
4年に一度の北海道神宮注連縄交換はつい昨年できたそうですが、
今後の「文化継承」には、やはり危機感があるようです。

ちなみにこちらの本殿は鉄筋コンクリート製で、社殿には注連縄はない。
敷地内に勧請されている稲荷社は一般的な「中太り」の注連縄でした。
津軽と北海道、氏子たちの崇神の思いが海を越えた岩木山to北海道。
稲作と注連縄in北海道。日本人の精神性の中核・民俗性も確認できた次第。

【大正末北海道住宅・洋室の「白樺格子」天井】


現代住宅ではほとんどデザイン的にはワンパターン化している天井。
「高級住宅・個性化住宅」ではごくわずかにデザイン挑戦がある、
というのがいまの状況ではないかと思います。
8日取材の「上富良野町開拓記念館」(旧吉田邸復元)では、
玄関横の「応接間」とおぼしき部屋が「洋室」になっておりました。
当時は上富良野町長だったので、来客も多かったと推測できます。
で、こちらの天井仕上げを見て、白樺の自然木が格子組みされてデザインされ、
その格子の間には、面材として木目の残る板材が使われておりました。

こういったデザイン仕上げというのは、わたしははじめて遭遇した。
大正期、いまから96年前の住宅建築ですが、
非常に革新的なこころみが、出窓や2重ガラスの開口部、
さらにガラス戸での「雨戸」造作などで行われている。
いったいどんな作り手が? という疑問に応えてくれるのが「棟札」。
<これは建築好事家・Tさん撮影の写真(幅広加工)>

大工棟梁として「高原権平」と読み下しうる名前が確認できる。
大正14年8月25日に起工して、9月18日に「建前」
しかし「竣工」年月日の記載がない。
噴火泥流は大正15年5月なので、それまでには出来上がっていたハズだけれど、
その前、2月くらいから噴火の前兆は気象庁の記録にあるので、
十勝岳噴火の影響で工事自体も「竣工」に至らなかった可能性がある。
この時代の建築確認などがどのようであったか、調べていないけれど、
棟札を遺す気風の大工棟梁にしてきちんと記載しなかったのには
なにか、理由があるように思われる。ましてや「村長邸」でもある。
しかしいま、WEBで検索してもこの名前では他の記録に尋ね当たらない。
まぁ大工という職業の社会的地位はこの時代、必ずしも高いとは言えない。
職業としてはあまり人気はなかったのだと言われる。
しかし、棟梁としては遺っていく建築として気合いは入っていたと推測できる。
そういう気合いと、この建物での「革新的こころみ」にはある符号を感じる。
木の素材として白樺は、どういう樹種ランク位置にあるかは知らないけれど
それを製材せずに自然木として使って、その曲がり具合に合わせて
板材を仕上げていったに相違なく、手業は十分に丹精されていると思う。
たぶん板材は1枚1枚微妙に寸法が違っているかも知れない。
こういう仕上げについて、棟梁の技量発揮の檜舞台と考えて作ったのか、
あるいは、施主・吉田氏の強い思い入れや希望があったのか。
いわゆる伝統的な和の大工技量で白樺自然木を使う流儀はあまり見ない。
和洋混淆の住宅の「洋間」の内部仕上げで「いっちょ、やってみるか」と
実験的に採用してみたのだろうか。
天井を見上げつつ、さまざまな想像力が膨らんで止まなかった。

【大正15年十勝岳噴火泥流災害を生き延びた家】




さて昨日ご紹介した現在の「上富良野開拓記念館」=吉田貞次郎邸は、
その完成後に大正15年の十勝岳大噴火・泥流被害に遭遇した。
その被害から地域が立ち上がって地域が復興し、災害に生き残った
象徴的な住宅建築としてひとびとの記憶に残ってきた建物だという。
昨日書いたように、世界的な豆需要の高まりで空前の好況を経験したけれど、
その最盛期にこの自然災害に見舞われたのです。
以下、気象庁HP 十勝岳 有史以降の火山活動より要旨抜粋
〜1926(大正15)年の記録より抜粋。
<水蒸気噴火(泥流発生)→(山体崩壊・泥流発生)→マグマ噴火、水蒸気噴火>
中央火口丘から噴火。火砕物降下・泥流→岩屑なだれ・泥流→降下火砕物。
●5月24日噴火:12:11噴火、小規模な泥流発生。14:00小規模な鳴動と噴火。
16:18噴火、中央火口丘の北西部破壊され熱い岩屑なだれが積雪を溶かし
大規模な泥流発生(平均速度約60km) 2カ村(上富良野・美瑛)埋没。
死者行方不明144名、負傷者200名。建物372棟家畜68頭山林耕地被害。
北西U字型火口形成。噴出物量1.3×104m3崩壊物量2~4×106m3。
マグマ噴出量は1×103DREm3。(VEI1)
●9月8日噴火:16:33噴煙高度4600m、行方不明2名。9日小噴火:15:40。
10日小噴火:9:37頃、15:48頃、18:50頃。〜

まことに凄まじい噴火記録に目を覆いたくなる。・・・
十勝岳は地域が開拓以降も数多くの噴火を記録している道内有数の「活火山」。
地域の東側に位置して、その裾野の広大な地域が上富良野にあたる。
噴火の時期によって被害の状況に違いがある。
この大正15年の噴火では、雪融け時期にあたっていて、
その融雪水が泥流となって地域を襲ったのですね。
自ら開拓者の息子であり、自作農であった当時の町長・吉田貞次郎は
村を放棄するか、再開拓するかの岐路に立たされたとき、
復興に向かって村をまとめ上げていったということ。
幸いにして地力は奇跡的な回復を見せてくれて、旺盛な需要にも支えられ、
ほどなく「地域再生」が計られていった。
そういった経緯が多くのひとびとの共感を呼んで、その後かれは
衆議院議員にも北海道から選出されていった。まことに有為転変そのもの。

現在わたしたちが見学できるこの建物は、
そういった地域の大変動を生き延びてきた歴史の証人でもある。
<記録写真と現在写真の相違は展示室増築による>

【縁側➡出窓・ペアガラス 大正15年北海道住宅進化】



8日に北海道中央部、上富良野開拓記念館を撮影見学してきました。
北海道の建築好事家Tさんからの情報。
タイトルのような「寒冷地住宅開口部」の歴史上、面白い位置にある建築。
なんですがまず、この建築に至る背景歴史のやや長めの「前振り」から。

この記念館は大正15年の建築で当時は上富良野は明治30年の
三重県伊勢地方からの集団移住全8戸の入植から、約30年ほどの経過時点。
当時は当地で産する豆類が東京大阪の「市場」で高値で取引されたとされ、
出荷産地である上富良野は、「豆景気」の好景気に沸いていたとされる。
〜大正3年にヨーロッパのバルカン半島から勃発した第一次世界大戦は、
一般には「豆景気」と呼ばれる好況を生じさせた。
3年8月の開戦当初はヨーロッパはもちろん東アジアの海上輸送も不安になり、
事態の進展にたいする見通しもたたなかったから、輸出は停滞し物価は低落し
一時は恐慌状態を呈したが、やがて戦局の推移が見通されるようになると、
4年から回復に転じ、5年にかけて好況が訪れた。
農産物を中心とする海外輸出は急激に増進し、生産物価格は高騰し、
3年以降農産物が豊作だったこともあって農村は異常な好景気につつまれた。
これは西欧諸国間の豆類の輸出入が中絶或いは激減したことが要因。
「連合国」側の一員であった日本からの輸出が激増したためである。
豆景気は上富良野の経済もうるおした。〜<上富良野百年史より要旨引用>
なにやら現代の「新型コロナ禍」の状況にも相通じるような世相。
たぶんこうした「世界規模の経済変動」は今次事態でも想定できるのでしょうし、
まったく違ったカタチで「現に」いま進行してもいるのでしょう。

で、そうした状況から地域の有力者であり三重県からの士族移住であった、
吉田氏の当主・貞次郎氏は上富良野村長でこの住宅を建築。
豆景気を受けて、予算を掛け当時の最先端の住宅を建てたものでしょう。
当時のひとびとの「建築技術の興味のありか」が偲ばれる。
わたしの最近の「住宅技術探索」で「出窓」が特徴的に寒冷地北海道で進化した
そういう痕跡に徐々に気づき始めております。
先述の好事家Tさんともこの想定の線で探索方向を共有している。
明治10年代建築の現存する「永山武四郎」邸ですでに「出窓」はあるのですが、
開拓から60年経過の、94年前の寒冷地木造住宅の先端的作りよう。
ここでは、基本は「和風」生活様式が継続しつつも、
洋室が玄関脇にしつらえられて「和洋折衷」が意図されている。

上の写真は3間続きの和室側から「開口部」を見た様子。
和風建築の基本の「縁側」に向かって障子で結界され「書院」も造作。
で、上の特徴的な外観写真と開口部仕様になっている。
外観写真では手前側南面に対して縁側的な大開口が確認できる。
左端には雨戸収納の「戸袋」がありますが、木製板戸ではなく
代わりに「ほぼガラス製」の引き戸が「縁側」全面4間半に配されている。
その右手端には洋室開口部として「出窓」が連続している。
ほぼ全部がガラスで覆われているような外見になっている。
上から2番目3番目写真が、出窓と縁側部の「2重ガラス」化状況。
和風建築in北海道の「進化」として、日本建築独特の「半外部・縁側」が
寒冷気候にはムリと悟られ、しかし「縁側造作技術」による現地対応を図った。
和室から縁側大開口を見渡す日本的生活様式を寒冷地で実現させるため
木製板戸に代わってガラス建具が導入され、さらに外部との間に
ガラス建具が内側にも造作され「2重ガラス」空間が実現している。
さらに建築技術的にはその延長線上で「出窓」も2重ガラス仕様の端緒として、
あるいは見方を変えれば「縁側」のミニチュア化として採用された。

すぐに気付くのが以下のポイント。
外部建具の「ガラス引き戸」は雨戸の代わりで「戸袋」も用意されているけれど、
積雪時期に果たして満足に機能したかどうか。
そして季節の良い時期にも、戸袋に「仕舞われる」ことはあったのかどうか?
戸袋内の確認は不可能でしたが、移動収納させる以上金属レールはないでしょう。
そして内側のガラス引き戸も全開放ということは出来なかったハズ。
そのように考えるとこの「開口部」は2重ガラスの「窓」だったと思える。
建築思想的にそれが純化しているのが隣の「出窓」、という解釈。
ガラス建具は北海道開拓期で苦闘する家屋でもいち早く導入されている。
木と紙と土の建築という日本建築古来の素材では寒冷地住宅の素材たり得ず
高価なガラスが、いわば先端的建材として北海道民に受容されたことを示している。
要するにガラス窓は「家をあたたかくする」ために、高価であっても
合理的選択として多くの北海道民に選別支持されたのだと言われる。
輸入最初期の当時のガラス建材最大出荷先が北海道だったことは事実。
北海道で住宅建築技術進化が開口部で急速に展開した、
そういう痕跡をこの建物は表現している。そう思われてならない。
みなさんのご意見をお聞かせ下さい。よろしくお願いします。

【注連縄番外篇:この手があったか! 狛犬・マフラー】

やられた(笑)。
注連縄というポイントに注目しての新型コロナ禍対応ブログ・過去取材探訪。
これまで気付いていなかった、ふとした発見が襲ってくる。

この写真の狛犬さんは、播州姫路市内の「英賀神社」境内写真で発見。
わたしの家系の所縁のある神社なのですが、
「え〜と、あそこの注連縄ってどうだったっけ・・・」と
写真を探していたら、狛犬らしく控えめに写真端に小さく納まっていた。
今回の「シリーズ」ではひたすら「注連縄」に注目して写真をチェックしていたので
たまたま本殿の注連縄の写っていた写真を引っ張り出したところ、
こっちの狛犬をつい発見してしまった次第(笑)。
なんとも愛らしい。この魅力にはまったく太刀打ちできない。

この狛犬さん、どっちかというと無愛想な表情をしているので、
「おい、少しは愛嬌でもふれや」という注連縄飾り担当からの強制圧力が働いた?
こういうレベルになると、これはもう圧倒的に「民のパワー」。
注連縄というのはだいたいが、その神社の「氏子」さんたちの奉仕活動だということが
段々に知れるようになって来た。
神社という地域伝統と在地性の高い民衆信仰は、民と神との対話の足跡ではないか。
「鎮守の森」は同時にムラ社会の「公共空間」であり、地域社会そのもの。
倫理観や法以前の社会道徳や慣習が表現されてきたもの。
政治変動とはまったくちがった日本的「民主主義」の揺りかごのように思える。
今日のメディア空間・WEB空間とも通ずるコミュニケーション空間。
そのような社会の持っているある側面が、たとえばこのような
狛犬の意匠に、断片的に表現されてしまうものではないだろうか。
こういった表現力を持つ「民の空間」には激しいシンパシーを感じる。
なにか、「きっと良い土地に違いないのではないか」と思わせられる。
関西漫才を支える部分とも通ずる社会的な「おおらかさ」「屈託の無さ」が伝わってくる。
結局は「民の暮らし方・文化」の力なのではないだろうか。

注連縄というツールは、案外日本人とその社会をわかりやすく解析する
そういった可能性を持っているように感じられてきた。
その作り手と媒体としての神社との関係性まで見つめ始めると、
これまでの数倍の「気付き」が得られていくように思えます。

【夏の醍醐味 メロンにアレルギー?】

最近ある仕事関係の方から、いただいたメロン。
スタッフでおいしく食べさせていただいておりました。
2個いただいたので、ちょうどテレワークでの出社組が入れ替わるのに合わせ
2日間でいただくつもりでした。で、わたしがメロンをきょうは何人に分けて切るかと
問い合わせたら、2日連続出社の「運の良い」あるスタッフから
「あの、わたしは除外してください」との申し出。
「え〜、こんなにおいしいのに、なんでさ?」
「あのう、実はアレルギーが発症しまして・・・」
おいおい、であります。
メロンにアレルギーってあるんですね。まったく知らなかった。
北海道は「夕張」にこの「富良野」とメロン王国化しているのに・・・。
喉の奥から違和感が湧いてきて、身体に異常反応が出たとのこと。
以下、検索したら花粉症との関連が言われているようです。
〜果物アレルギー・野菜アレルギー花粉症に合併する疾患としては
喘息、アトピー性皮膚炎などのアレルギー疾患が多いのですが、
近年、口腔アレルギー症候群(OAS:果実野菜過敏症)が注目されており、
食物アレルギーの特殊型に分類されています。
果物アレルギー・野菜アレルギーは果物、野菜などを摂取した時に生じる
口腔内に限局したかゆみや腫れを示す症候群であり、
花粉症のおよそ10%に合併します。今や国民病となった花粉症の患者増で、
果物アレルギーの患者さんも増えているといます。
特にシラカバ花粉症の多い北ヨーロッパで高い頻度を示します。
リンゴ、モモ、サクランボ、イチジク、キウイフルーツ、メロン、パイナップル
トマトなどが報告されています。<北海道ヤバいかも!>
果物アレルギー・野菜アレルギーの原因は花粉抗原と果実・野菜の
共通抗原性により生じています。果物や野菜を口にすると、かゆみなどの
違和感があるのですが、最初は何のアレルギーかわからない人がほとんどです。
<大阪・天神橋みやたけクリニックさんWEBページより要旨転載>
〜ということ。う〜む。

いやはやなんともかわいそうなのですが、
花粉症は増え続けているようなので、気をつけて行かなければなりませんね。
とくに多数に食事を提供する習慣「社長食堂」シェフとしては、要チェックポイント。
そうです、今度のメニューどうしようかなぁ〜。なんにしようかなぁ〜〜。

【注連縄探訪:石見国一宮「物部神社」】



石見国一宮「物部神社」という案内表示を発見し驚愕して、すぐに参拝した。
島根県大田市で中国山地内陸部。島根県では出雲大社がすぐ思い浮かぶ。
事実わたしも、広島市から出雲に抜けていく道中をクルマで走っていて
ふと、交通案内標識で知ることになった次第です。即決で途中立ち寄り。
島根県というのは古代国制では出雲国と石見国の両方が東西合わさって
島根県を構成しているということだそうです。
北海道人にとってはまことに遠隔地で一般常識レベルでは土地勘はない。
出雲はなんとなくわかるけれど、西隣の石見は銀山くらいの認識。
で、それはいいとして、名前に「物部」と名前が付いていて胸騒ぎなのです。
いかにも古代史ロマンへ胸焦がせるキーワードとして心に響き渡る(笑)。
日本史の隠された秘密が一気に素性を明かすみたいなワクワク感。
出雲への道中で「物部」と名の付く古代由来の神社に出会うとはオドロキ。
一時期、中国地方の「神楽」ブームにはるかな羨望を持ちましたが、
まことに中国地方は、歴史のタイムカプセルだと思い知らされた。

物部氏というのは古代の有力勢力で、神武天皇以来の勢力一族。
この石見国一宮をみてから初めて知ったのですが、豪族・物部氏は
古代の製鉄・武器製造に深く関わった一族であり、そこからヤマト政権での
軍事部門の最大勢力となっていた。朝鮮半島との連携を模索した磐井の乱の
鎮圧でもその中心的な役割を果たしたとされるのですね。
地理的に九州侵攻の足場・本州最西端に位置するので対磐井の戦力主力。
この石見国は銀山で有名でその鉱工業技術からヤマトの軍事物資生産拠点で、
同時にヤマト政権以前の「出雲連合政権」の主勢力に対して
それを監視する役割も、物部氏は担っていたと想定されるようです。
荒神谷の大量の銅剣銅鐸など、金属機器生産で日本史のカギを握る地域。
また日本史のメイン交通路である瀬戸内海に出雲が出て行くとすれば、
この「物部神社」地域を制圧してからでないと出て行くことが出来ない。
中国山地一帯の最重要交通路を押さえる要衝の位置にある。
ヤマト政権の対出雲最前線防衛ラインとして機能してきたことが明らか。

社殿は寄棟の長辺側が左右に全開放されたヨコ巾の長いファサード。
注連縄も、広い開口上部に横長でうねうねと渡されている。
昨日紹介した厳島神社と同様の「ゴボウ」締め。右側がやや上がっている。
社殿正面全景では、奥の本殿が直角に配置されているので、
その屋根上端部の木組みが象徴的デザインとして表情を作っている。
全体として、拝殿・本殿の組み合わせは他ではあまりみないような外観。
その由来に思いをはせつつ、ユニークな建築デザインに感銘を受けていた。
物部氏は、蘇我氏との仏教導入を巡っての争闘で敗退し、
その後一族は全国に散らばっていった様子が歴史に伝わっている。
東北の蝦夷とヤマト政権の戦いでも、寡黙な有力一族としてその陰が常にちらつく。
古代史の大きなナゾがこんなわかりやすいカタチで現存する。
まことにワンダーランド感に打たれておりました。2013年夏の探訪記憶。