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【140年前、縁側は北海道で「窓・開口部」に変容】



きのうの「旧・永山武四郎邸」の探訪シリーズその2。
明治10年代初めということでおおむね140年前という住宅建築であり、
当時盛んに作られた「洋造」を基本としている。
しかし生活スタイルとしては武家出身者でもあり伝統的な貴賓空間、
床の間付きの「座敷」が最優先された「格式」的建築スタイルを踏襲している。
その前室として洋室の「応接室」がある「和洋混淆」スタイル。
床の間や書院といった格式重視の空間がしつらえられて、
壁にはきちんとした土壁も塗り上げられて、天井高も高い。
そして当然のように、南面する庭の眺望を楽しむ「縁側」が造作されている。
しかし写真でわかるように、本州以南地域のように板戸の雨戸で
夜間や雨天時だけ遮蔽して通常的には開放されている「縁側」ではない。
庭との境界部分にガラス建具が2重に装置された特異な「縁側空間」。
日本建築のこういう空間では、縁側をガラスで閉じるという発想はあり得ない。
しかし日本から開拓のためにこの北海道に移住してきた人間にとって
その寒冷気候は想像を絶したものであったことは言うまでもない。
縁側で、陽だまりに佇んでそのぬくもりを愛でられる季節時間は
北海道では夏場の数カ月間に過ぎず冬の吹雪の室内浸入の怖れもある。
温熱的な「陽だまり」をそこに期待することは諦めざるを得なかった。
そうすると住宅建築としてはどう対応すべきか、いろいろな可能性がある。
そのなかで明治の文明開化とともに欧米から住宅用の「ガラス」が輸入され
開拓使のごく初期のモデル的な建築「ガラス邸」で新規建材として推奨された。
輸入建材で高価であるにもかかわらず、北海道ではガラスが積極的に使われた。
内陸部の開拓民ですら、こぞってガラスを購入して建材利用した。
規格寸法で作られたガラス単体が大量消費されたという。
むしろその規格寸法に合わせ「建具」造作された。日本初の「寸法規格化」でもある。
そこまで北海道の人々がガラスを受容したのは、その気密性要素から。
この当時どんな他の建材よりも、ガラスは密閉性が優れていた。
輸入ガラスの市場占有率で北海道はダントツだったのだと言われる。

そのガラス建具が、この縁側空間を2重に覆った。
ガラス建具で縁側の1要素である庭の視界確保だけがなされ2重化が進んだ。
本州地区でつい最近まで、いや今でもガラスは単板が優勢と考えると、
まるで奇跡のように「開口部ガラス」の2重化が140年前から実現していた。
いま、この2重のガラス建具空間をチェックすると、
室内側は引き違いで半分開放仕様であり、屋外側はいわばガラス建具「雨戸」。
雨戸の収納・戸袋は数枚分しかなくて、たぶん1枚だけを「寄せて」
そのほかのガラス建具戸は、外部側から外すことを意図したと想像される。
(永山邸説明員の方からも取り外し方法は未解明の様子)
たぶん、使い続けるウチに季節に応じての「取り外し」は面倒になって、
ほぼ常時2重ガラス建具で閉じられた空間になっていたのではないか。
6月になっても朝晩の冷気はきつく、9月にもなれば肌寒くなる気候条件では
本来的な「縁側」として楽しみ、機能できる期間はごく限られ、
やがて常時閉鎖する2重ガラス建具空間に変容したことが容易に想像される。
縁側という「中間領域」空間ではなく、2重ガラス建具の「窓・開口部」と呼ぶ方が
この空間の機能性をより明確に表現しているのではないか。
そうした日本住文化からの離脱が、明瞭に表現されていると思える。

こんな経緯が北海道住宅の「流れ」だったことが伝わってくる。
しかし、北海道では現代にいたってウッドデッキ文化が盛んになっている。
寒冷地住宅建築本体としてはこうして「閉じ」ざるを得なかったけれど、
そこに暮らしてきた北海道民は、気質としてはきわめて「開放的」。
隣居からの目線を気にするよりも、短い開放的な季節を思い切り楽しむのに、
ウッドデッキなどの生活文化もまた盛んになったと想像される。
日本的な縁側空間は、まったくカタチを変えて受け継がれているのだと思う。

【明治10年代永山武四郎邸・和室の出窓】



灯台もと暗しというコトバがありますが、
札幌にいてしかも建築と歴史にけっこう興味がある人間なのに、
ふしぎと足を運ばなかった建物があります。
旧永山武四郎邸。新型コロナ禍出来以来、明治初期北海道の建築探訪、
「高断熱高気密事始め」みたいな北海道住宅の歴史掘り起こしは休止状態。
ときどき復活させて記事紹介していますが、また時事の話題に振れる、
そういう繰り返しで、札幌市内中心部に残るこの建物は放置してきていた。
昨日、ようやく宿題のようになっていた探訪を果たせた次第。
・・・なんですが、周辺駐車場の値段の高さには呆れた(笑)。
1時間900円って、ここは東京都心か?であります。料金事前明示がなく、
まったく空いていたのでつい入庫しましたが、あれでは確かに誰も利用しない。
お隣の商業施設駐車場がはるかにコスパがいいのでみんなそっち利用で行列。
全国企業の駐車場大手の管理でしたが、ああいうのは独占企業の
弊害がモロに出ちゃっていると思われます。きっと単価は上げても
利用率は激減し、オーナー側は大きく不利益だろうと推測。
おっと、大きく横道ズレまくり(笑)。

永山武四郎というのは、明治開拓期の北海道史で名高い軍人・政治家で
黒田清隆と同郷・薩摩出身の軍閥で西南戦争に「屯田兵」を率いて南下した。
出陣したが、戦地に赴く前に東京で西郷軍の敗北を知って
実際の戦闘は交えなかった。軍司令部内部で同郷軍との戦い最前線配備に
ややためらいと配慮があったものかも知れない。
軍人事跡はこうしたことが知られているけれど、長く北海道庁長官受任。
この写真の「邸宅」が明治初期の開拓使時代の住宅建築の象徴的存在として
ながく札幌の地で残り続けたことで住宅史的に名高い存在。
建築当時、いまのこの地域(札幌市中心部・サッポロビール園隣接)は、
開拓使による殖産事業実験の最先端地域だったとされている。
そういう時代の雰囲気、空気感のなかで「寒冷地住宅」が試行されていた。
同好の好事家Tさんから、この和室の「出窓」について聞かされていたので、
興味深く見学させていただいた次第。
和室と出窓という組み合わせは、いかにも「和洋折衷」住宅らしいデザイン。
あした以降触れますが、隣の本格的和室では「縁側」を介して庭を見る仕様。
日本住宅建築の定型パターンで、日本住文化そのものだったと思われる。
そうした主室に対して、こちらは東側に面して庭景観も考えられる配置ながら、
写真のような「出窓」が開口されている。
和室なのにやや腰高程度の高さがあって、しかも上部にはカーテンボックス。
そして出窓は左右押し出し型で全面ガラス建具となっている。
中央部もたぶん左右に観音開きのようで内側には網戸も仕込まれていたけれど、
こちらは建築当時の仕様かどうかはやや疑問。
建具の造作金物を見るといかにも「洋式開口部材」が使われている。
洋式の開口部仕様が和室に導入されている。明治初期と考えるといかにも実験的。
しかし一方では出窓の下には刀を隠しておく収納とのこと。う〜む。
設計者の詳細な記録は存在しないようですが、当時の状況を考えれば、
開拓使の建築部局が関わっていたことは明らかで技術者・安達喜幸が想像される。
「和室だけど、南面もしていないし防寒優先で出窓にしますか!」
といったノリで建て主・設計者が意気投合しこの仕様が採用されたものか?
夜に防寒のためもあってカーテンを閉めると、和の空間が洋で閉ざされた。
で、布団で寝て、朝カーテンを開放して出窓越しの朝日を見る暮らし。・・・
寒冷地での日本人の「新常識」ライフスタイルを探った明治の革新。
一種独特な「寒冷地住宅」ライフスタイル事始めを実感したかも知れない。

この時代の「日々革新」といった開拓初期の空気感が
かなりの迫真性で感じられた次第であります。
作り手と建て主の日本建築「常識からの離陸ぶり」に共感を持つ。

【モダンアート 美的価値と社会性】


わたしはどっちかというと伝統的な美感・感受性の方が好きではある。
そういうことなので、毎朝の散歩も北海道神宮とかの
長い時間、民族的感受性が込められた「集合芸術的空間」ともいえる
神社空間などの方に魅せられる方だと思っております。
散歩道途中神宮のごく近くに毎朝、意識せず鑑賞せざるをえないモダンアート。
ま、キライではないけれどすごく共感するタイプでもない作品。
で、この建物。写真は横長すぎるのでちょっと加工して
上下で2枚の写真を重ね合わせています。
別に上下写真での「間違い探し」ではありません、悪しからず(笑)。

ただ、毎日見ることが重なってくるので、
それほど共感はできないまでも、一応「これどんな建物なのか」という
疑問は持ち続けておりました。
どうも「美術館」らしくて、教会も併設された庭園美術館で、
そういう結婚式もできますよ、というコンセプトのようなのです。
ということで、目に触れてから数千日経過後、ついにアートの概要書きを見た。
それが2枚目の写真であります。
どうやら高名そうな海外現代画家によるビル壁面絵画だそうであります。
説明書きでは、このアートが描かれたのは2011年なので、
「数千日」というわたしの認識はそうおかしくはなく、約9年の歳月。
しかしこの間、札幌の人々の人口に膾炙した記憶は残念ながらないと思います。
敷地はけっこうクルマ通りの多い幹線道路に面している一等地。
興味に惹かれ「一回は見学してみようか」と思っていたけれど、
いつその気になっても展示会開催などの案内は表示されない。
玄関入口に行っても、その手の開館情報はまったく明示されていない。
どうも現在は「閉館」しているそうで、今後どうしようかという段階とのこと。
先日ふと気付いたら、工事関係車両のようなものがあり、
声掛けしたら、「・・・検討中みたいですよ」とのこと。
市場原理というもので、社会評価が定まりつつあるように思われます。

現代というのは、個人という存在が非常に重んじられる社会。
なかでもアートというものは、そのことが過重なまでに尊重される。
しかし当然、社会はさまざまな個人による複眼的な価値感の世界でもある。
壁面絵画、それも長期間人目にふれる絵画というものに対しては、
「公共性」という概念も大きくならざるを得ないのではないか。
またそれ以上に「市場原理」という風圧も絶対に避けられない。
どうも芸術と社会との関係が迷路に差し掛かっている危惧を感じる。

【テレワーク体制下「社長食堂」夏バテ撃退篇】



さてきのうの札幌は2日連続でのさわやか気候。
朝の散歩時点ではなんとクルマの外気温表示では「18度」。
オドロキの涼しさで、早くも季節は秋の気配といったところ。
散歩の途中、北海道神宮境内などでも薄手のジャンパー着用の人が目に付く。
しかし、本州以南地域では軒並み35度以上の酷暑が続いている。
季節感が完全に1ヶ月くらいはニッポンと乖離しております。
でも週末から来週にかけてはまた暑さぶり返しの予想。

というところですが、散歩から帰って久しぶりに手料理を作り始めたら、
どうもスイッチが入ってしまって、その量がどんどん多めになってしまった(笑)。
最近、北海道の味・ジャガイモ料理で「シャキシャキジャガ」にハマっている。
それが思いのほか原材料のジャガイモの量が多かったので、
「えい、こうなったら」ということで、職住一体事務所キッチンワーク、
ゲリラ出撃「社長食堂」特別編に突入してしまった次第。
そうは言ってもいまはテレワーク体制なので、人数がよくわからない。
っていうか、確認していなかった。
いまのところ、おおむね50%の常時出勤率に設定しているのですが、
スタッフの仕事の進行状況で、適時勤務状況が変わるのであります。
で、朝のミーティングで「え〜っと、お昼食堂やります!」と宣言したら
「じゃぁ出社します(笑)」というスタッフも現れて、総勢十人前後。
あ、仙台のスタッフには申し訳ない、今度全社会議の時に・・・。
ということで、若干の食材を買い足しに近所のスーパーに行ったら、
「朝もぎ2Lサイズ」の北海道産トウモロコシに目がテン。
まぁ、朝もぎというのは、同じトウモロコシでもまったく違う食感なので、
即決でメニュー追加という展開に。
で、メインの「シャキシャキジャガ」が一番上の写真であります。
豚肉とかが入るので、まぁ肉野菜炒めというのが本性でありますが、
とにかくスライス棒状に主役のジャガ君をはじめ、ピーマンなど
「仲良くしようぜ」という野菜たちを渾然一体と炒めまくるのであります。
このジャガ君の食感、歯ごたえが独特の味覚訴求。
カミさんからは「◎」マークをいただいている(笑)。
しかしさすがに10人以上分量なので、朝の作り置きともう一回追加調理。
同時並行で6合の炊飯でおにぎり適当量。
そしてトウモロコシの「茹で上げ」全6本。

まぁ男の「家庭料理」なので、美味しいかどうかはわかりません(笑)。
でもまぁ、夏バテしないようにまずは体力をしっかり涵養して
新型コロナにも負けずに、元気よく仕事してもらいたい。
健康に十分気をつけて、本州以南のみなさんも暑さとコロナに負けず
せめて写真からでも食欲を盛り立てていただきたいと。美味しい北海道だぜい!

【暑さ一服 最高気温24度 in 札幌】

北海道から全国のみなさんへ、残暑お見舞い申し上げます。
全国で水害被害が出たり東北では梅雨が長かったことしの夏ですが、
梅雨が明けてからは猛暑が続いていますね。
札幌もけっして例外ではなく、一昨日は外気温35度という表示もクルマで確認。
ただし、おかげさまで夜から朝方に掛けては気温が下がるので、
いわゆる「ナイトパージ」が有効です。
夜間の低温外気で、どうしても日中浸入する暑さをクールダウンさせる。
空気流動動線を考えた窓の換気開放でその恩恵を受けられる。
最高気温は本州にも負けないくらい上がるけれど、
この外気のクールダウンがあるので、それを上手に利用できる。
この天然の時間差温度差を暮らしに活かせるのですね。
北海道も確実に夏の気温上昇は襲ってきていると思いますが、
しかしこの「外気クールダウン」はいまのところ、真夏でも十分機能している。
まぁちょっと大袈裟に「暑い暑い」と声を上げたい心理もホントはある(笑)。
これは日本人である連帯感を求める北国人独特の心理でもありますが。

本州以南地域では梅雨明けの遅れた東北も含めて
たいへんキビシイ暑さが襲っている様子が連日報道されていますね。
なにやら申し訳ないほどであります。
当社でも仙台のスタッフから悲鳴も上がっている。

写真はコンクリートブロック造のわが家1階部分の20日午後5時の気温と湿度。
コンクリートブロック外断熱の住まいは年中おおむね一定の室内気候。
とくに夏場はほんの1カ月半程度の短期間でも、そのありがたさが「身に染みる」。
熱容量の大きい素材なので、適切な「断熱」がなされていれば、
外気温上下動とかなりタイムラグがあって、それも数ヶ月スパンで体感する。
夏の暑い期間、5−6月頃の外気温環境が維持されている実感がある。
あとは季節変化を把握して対応すれば、年中安定した温熱環境が得られる。
先日のブログで触れた「室内の温度制御された大空間」志向が
北海道住宅が全体として追究してきた「住環境」だと日々実感。

本州以南地域では「ナイトパージ」機能も期待できないし、
断熱していてもやはり高湿度もあって、エアコンの有効利用が欠かせない。
夏場の「快適」というテーマでこの猛暑気候と戦っている
高性能住宅づくりを探究し続ける各地の工務店さんに深くリスペクトであります。

<写真は朝22度気温の散歩自然道・結実のオオウバユリ。>

【明治30年まで日本人口は国土均衡型】


先日、明治以来の北海道人口を調べる機会があって、
関連して、図表のような面白いデータをWEBで発見させられた。
現代になって人口の首都集中は至極当然のことと受け止めてきたけれど、
明治4年以降のここ147年間での「人口日本一になったことのある都道府県」。
それ以前の江戸期では西洋近代的な「人口調査」は行われていなかった。
こういう統計記録をさかのぼって調査すると現代常識とは違う実相も浮かんでくる。
で、なんと、わが北海道が人口日本一になったことがある? 
ちょっと現代の岩盤化した常識を破砕するデータであります。

147年間で、通算では東京が延べ120回トップだったので、81%以上の占拠率。
以下、2位は15回トップだった新潟県。
明治20年代にはほぼ一貫して日本最大の人口集積県だったのには、
やはり米作が経済の基本だったこともあり、大国・新潟の面目躍如。
続いて3位は合計4回トップだった石川県が続いている。
新潟もそうだけれど、江戸期から明治に掛け日本海海運は最重要幹線ルート。
石川県は京大阪への玄関口、近江商人の交易拠点として繁栄していた。
北海道の「めずらしき」産品が、高田屋嘉兵衛、北前船交易の活躍などで
日本各地の相互流通も活性化させ、日本経済の最大物流ルートになっていた。
蝦夷地を巻き込む北前船交易でサケとか昆布の主要産品に加え
ニシン魚肥による繊維産業の活性化などあらゆる産業を活性化・刺激して
日本経済のまさに大動脈だった実相を、この統計は浮かび上がらせる。
江戸期の各藩はこの物流ルートに「地場産品」を全国流通させた。
必死の「地域生き残り」の先人の努力・知恵がいまも各地に根付いている。
まさに「国土総活躍」として地方・地域がまことに活性化している。
ある時期から「裏日本」という言い方がされたけれど、
この時代の「表日本」はまさにこちらの環日本海地域だったことがわかる。
江戸期にもっとも都市化が進んでいた大阪も合計3回首位で第4位。
あとは、明治初年段階で各1回ずつ広島県、愛知県がトップを占めている。
江戸期からの社会が人口集中型ではなく適度に分散型だったことがみえる。
その後、ようやく明治30・1897年に至って、東京がトップで定着する。
日清戦争の勝利によって近代化への歩みが加速していった時代。
さらに日露戦争へと向かっていく時代、東京一極集中が図られていった。

そしてもっとも直近の東京以外のトップに戦争直後の北海道が栄誉を担っている。
戦争での疎開、そして戦争からの引き揚げ者の「土地を持ちたい」意欲、
とりあえず食料を栽培できるという農地獲得意欲が、
まだまだ人口収容力が高いと目された北海道に注目が集まったのでしょう。
しかしそれは1年だけの「緊急避難」的な事態で、その後の戦後74年間、
一貫して東京への一極集中が極まってきている。
さて、新型コロナで「家の価値」への関心拡大が言われてきている。
これまでの人口集中型、都心密集でのビジネス「効率化」の趨勢が
テレワークの拡大などでより「分散型」への移行を促すことになるのか、
住宅ビジネスの今後の趨勢ともからんで、興味深い転換局面。
この図表を見ると、江戸期までは各藩の自治的な経済努力が垣間見える。
封建領主たちの経済は火の車であったとも言われるけれど、
地域の経済主体はそれぞれで必死に努力もしていた様子がわかる。
新型コロナ禍はあっても社会構造自体の岩盤は容易には動かないでしょうが
しかし変化も十分に起こりうると思えますね、さて明日はどっちだ?

【「死ぬまで好きなこと続ける」人生価値感】

現代世界では人間はふつう、企業人として生きている。
資本主義という人類的な叡智が結集した社会であり、
民主主義という基本的な価値感で運営統御されている。
そのことは、人類生存のための自然な社会進化の結果だと思います。
人間が生きていくためには経済活動は欠かせない。
食べていかなければ生きていけない。
その基本を構成しているのが、資本主義であり、経済活動。
多くの人が人生の大部分で経済活動は「企業」を基盤にして生きていく。

しかし、人生というのは1回きりしか許されていない。
であれば、人間は本来いろいろな「生き方選択」があってもいい。
現代人は就職という段階で、学歴とか技能・希望その他の条件で
いわばお仕着せのようなカタチで職業も選択することが優勢。
しかし自分が本来なにをしたいのか、やがて時間とともに見出すことが多い。
そういう「ずっとこのことを続けていきたい」と思えることがらは大切。
そういう風に見出したことは、たぶん淡々と続けられるものでしょう。
日本は世界でも未曾有の「高齢化社会」が実現している。
いわば「セカンドライフ」が、現実になってきてもいると思う。
わたしの場合、きのうのブログでも書いたが歴史とか民俗とかの探究が
どんなことよりも楽しいと思える。いつも新鮮な発見感を得られる。
歴史・民俗探究は別に専門的学究にしか本質を見出せないものではない。
たとえば現代という時代を今われわれは生きているけれど、
この時代の受け止め方には、それこそ人の数だけの理解があり得る。
過去においても、間違いなくそうであった。
だから歴史探究とは多様な生きざま、価値感を「掘り起こす」ことだと思う。

たまたま住宅という領域で生きてきたことで、
歴史を見る視点にも、住宅というモノサシで見ることが近しい。
そういうモノサシはたぶん人それぞれで違いがあると思う。
こういうフィールドで、過去の人々とも「対話」を仕掛け、
確からしいなにごとかを確認できたときは、やはり非常にうれしい。
住関連空間探訪から先人の生きざまが「伝わってくる」瞬間がある。
習い性となったのかどうか、今となってはよくわからないけれど、
探究する心はずっと長く持ち続け、きっと死ぬまで続けられると思っている。
高齢化社会の実現は、人生の価値感も多様化させていると思う。

【柳田國男・司馬遼太郎さんとのはるかな所縁】


写真上は兵庫県姫路市英賀にある英賀神社境内の司馬遼太郎文学碑。
「播磨灘物語」題字とサイン、どちらも自筆と思われる石碑。
一方、下の写真は日本民俗学の祖といわれる柳田國男さんの「生家」。
こちらは兵庫県福崎町に遺されていて、お隣には「記念館」も建っている。
どちらの場所にも、わたしの家系の痕跡が残されている。
なにか遠い所縁をいつも感じ続けています。

柳田國男さんは日本民俗学という独自の領域を掘り起こされた学究ですが、
その若いときの読書生活は、近隣であった「三木家住宅」の蔵書を
耽読していたことが「揺りかご」のようだったと記述されている。
こちらの三木家は歴代当主が大阪に遊学して多くの蔵書を持っていたそうで、
その「読書傾向」が柳田さんに原風景としての素養を提供した。
こういうことを知ったのは、15年前くらいのことでした。
一方で、司馬遼太郎さんは、秀吉に滅ぼされた播州・英賀城で
先祖がご縁があったとされ、氏の「播磨灘物語」はその経緯がモチーフを
形成していると「あとがき」に書かれている。
しかし、あまりにも落城経緯は生々しくその攻防戦の記述は書かれていない。
たぶん400年以上経っても人間関係的にまだ冷却期間が足りないのか、
と想像できる記述が垣間見られたりもしている。
そういう悩ましい経緯のようだけれど、ゆかりのある「英賀神社」境内に
この写真の「文学碑」はさりげなく端座している。
もうすでに鬼籍に入られたので、確認の術は閉ざされているのですが、
司馬さんの文章は大学生の頃からずっと読み続けているので
後になって知ったこの「つながり」には、まことに驚かされています。
この繋がりを知ったのは「播磨灘物語」あとがきでであり、
またわが家の家系が英賀に縁があると知ったのは、さらに時間が経ってから。
家系に縁があることを知ってから、播磨灘物語あとがきを再度読んだ次第。
時間にして、たぶん30年くらいのタイムラグがある。不思議な縁。

で、なんとなくこのふたりの先人に共通する空気が伝わってくる。
歴史、人間、いわば「日本人的」なるもののような
そういった空気感・強いマユのようなものに包まれていると感じる。
わたしが惹かれるのには、どうも由縁があるように思えるのです。
はるかな巨人の先人ですが、その導きに手を引かれ
自分自身の興味分野もすこしづつ楽しみながら掘り起こしていきたい。
そういうことに日々目覚めさせてもらえることに深く感謝しております。

【2重ガラスで閉じた縁側⇒「室内大空間」志向へ】


写真は大正15年建築の北海道上富良野に遺る「高級住宅」の縁と座敷。
日本住宅では室内の座敷に「格差」が存在し、そのもっとも「いい部屋」には
床の間や、書院などが備えられていた。
そこから庭を望み風雅を愛でるのが高級「住文化」の基本価値感。
床柱にはなになにを使ったというのが家自慢という格式文化。
北海道開拓初期には大自然の肥沃な土壌から物成りがよく、
農家では農業収入がかなり大きく周辺の天然木をふんだんに利用した
「豪農型」の住宅も比較的多かったと道央三笠が根拠地の武部建設さん談。
しかしこの上富良野の「吉田邸」は出自が武家ということなので、
広大な土間が特徴的な豪農型ではなく、いわゆる日本的な空間美が志向された。

先日から複数回、この家をブログで取り上げていますが、
やはり焦点はこの写真の「開放せず閉じられた縁側空間」であります。
伝統を踏まえた日本建築として4間を越える長大な縁側が庭に面して
ウチと外のあいまいな「中間領域」が住宅美の典型を見せる狙い。
ところが北海道・富良野盆地の冬期は日本住文化の想像を超える寒冷。
日本人として、その「成功者」として贅を尽くした「いい家」を建てたい。
しかし、冬に寒いのは生活の場として許容できない、ムリ。
ということから「開放的」な外部との関係は「眺望」以外は諦めて、
当時の先端的建材・ガラス引き戸を内側と雨戸代わりの引き戸・外側と
2重にガラスで建具造作し「視界は外部を取り込むけれど防寒的」という
そういう「室内的縁側空間」を新規な挑戦的空間として造作した。
この空間は、このように「読み解く」ことが自然でしょう。
しかし悲しいかな、このような外部との開放を伴わない空間は
本来「縁側」と呼称するにはやはり似つかわしくはない。
ガラス製建具は基本防寒用途であり、
開放的に「自然と親しむ」環境装置としては機能しにくかったでしょう。
そもそもガラス建具の雨戸は仕舞い込む「戸袋」はあるけれど、
軽快に出し入れ出来たかどうかは、その重量もあって疑問が残るし、
そもそも半年以上は事実上出し入れは機能しなかったでしょう。
積雪凍結環境条件下で建具の円滑な出し入れは相当の困難。
・・・そのように考えてくると、この室内縁側はどのような機能空間だったか?
ハタと、考え込んでしまう次第であります。

数少ない北海道での「成功者」が自身の成功を建築として
遺したいと考えたとき、結果、新たな「建築文化」発見創造も必要だった。
2重ガラスで閉じられた縁側という自己矛盾的な空間に、
どのような意味を見出すべきなのか、深く悩ましかったのではないか。
重厚なガラスでの遮蔽で外部と気候区別する空間は出来たが、
本来の日本的な半戸外的・住文化生活様式は満足できない。
結局は「明るい室内大空間」がそこに残ったということかと。
伝統は機能せず、革新的なあらたな住価値創造の方向しかなかったのだと。
目指した空間を気候条件と相談しながら作ったら質的な変化もした。
そう考えると、伝統的日本住宅ではそのような大空間は未開拓領域。
「これって、俺ららしい住文化じゃないか・・・」
北海道で日本人は、閉じられた大空間にそういった意味合いを見出した、
この写真の空間からはそうした空間志向の「萌芽」が想起される。
そこから室内の温度環境も高度化した大空間志向が強まった。
そのように思われるのですが、みなさんこの推論はいかがでしょうか?

【2020夏・コロナ禍での息苦しい人間関係】

お盆休暇もきょうまで。みなさんいかがお過ごしでしょうか?
写真は先日報道された、東京から「帰省」者に対する青森市内の
近隣住民からと思われる「投げ込み」の殴り書きメッセージ。
2020年夏の息苦しさを端的に表すものとして、こころに焼き付いた。
このような心ないコトバを投げつけられたことに深く同情すると同時に
しかしこういうことに配慮もせねばならない息苦しい現実も感じる。
逆に匿名とは言えここまで他人に、その心理を想像せずに投げることにも驚く。
いまわたしたちすべては、こういう心理環境に「追い詰められている」。
この両方の気分が重なって、気分が重く沈殿してしまう。

昨日もある温泉施設で入浴中、浴槽のなかでわたしを挟んだおふたりが
わたしの方向に向かって大声で喚き合うように話し込まれていた。
ツバキが飛んでくるような笑い声を交わし合って、間のわたしはいごこちが悪い。
その位置にはわたしが先にいて、おふたりは後で位置を占められた。
その後で、お互いに顔見知りと気付いての話し込み。
普段であれば気さくな会話として、他者であるわたしは聞き流しているシーン。
しかしやはり、3密というコロナ対策マナーからは困った事態。
やむなくこちら側で、場所を移動せざるを得なかった。
ただ、まるで非難と受け取られないよう「さりげなさ」も装うように気も遣う。
なんとも言えない、誰も悪くないこういう気まずさが本当にイヤだ。
お互い他者に無用の迷惑を掛けないよう、いまは気をつけるべきではある。
しかし一方こうした普通のコミュニケーションが失われることにも残念感は募る。
ごく普通の自然な人間会話に罪などあろうハズがない。

こういった「関係性」が永続する可能性もありえる。・・・
というような絶望感もだんだん現実的になって来たと言えるのだろうか?
しかしいま毎日のように「感染者数」が発表されている割には
「重症患者数」は伸びていないともされている。
公知にもとづいた「常識」的行為規範がまだ形成されていない段階では
まるでオオカミ少年のように不安だけを社会にまき散らすことを
だれにも制止させることはできない。
写真の他者への非難のコトバの書き手も、こういった感情にかられての行為でしょう。
心配なのは、こういう行為が常態化すること。
このような人間不信連鎖からは、社会に悪影響が出るのではないか。
2020年夏の息苦しさを忘れられるときが来ることを強く祈念したい。