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太宰治「斜陽館」

棟方志功が靑森の生んだ天才画家であれば、
一方、太宰治も津軽が生んだ代表的な小説家。
かれの生家が「斜陽館」として保存されている。
宏壮な洋館として、まるで地域の「城館」のような雰囲気もある。
なぜこうした富貴が可能になったのか?
それは明治初年の「地租改正」によって、農民に金銭での租税負担が生じ、
同時に江戸期からの「田畑永代売買禁止令」が廃止されたことで、
寄生地主といわれる、小作人から利益を収奪する階層が生まれたことによる。
太宰の家も、そうした家だった。
そのような家系にありがちなのが、過度に自分を修飾する心理。

本来は油の行商によって稼いでいた資本を元手に、
農民から田畑を買いまくってきて、この国の制度に守られて
巨大な資産を形成したのだ。
たぶん、日本の巨大資本というのは、多かれ少なかれ、
こうした「制度的恩恵」から生まれ出てきたのに相違ない。
古くは荘園制度などにまでさかのぼるような貧富の差の拡大生成過程だと思う。
そうした階層は、不安の心理を抱えつつ、
その出自について正統性があるのだと主張することになりやすい。
この太宰の生家でも、目を剥くほどの仏壇が荘厳に鎮座していた。
太宰の作品というのは、遠くから眺めているに近いけれど(笑)
どうも拒否感を持つのは、こうした匂いを感じるからなのだ。
太宰の家は、このような経緯で富貴に成り、
「高額納税者」番付で青森県全体で12番目になって
「貴族院議員」の有資格者になっていく。
国家が、そうした階層に「貴族」のマントを提供までしていたわけだ。
しかし、日本の「文化」は常にこうした富貴を形成した階層において
華やかに展開してきたことも事実なのだ。
津島修治として生を受けた個人は、過剰な文化的環境を得て
太宰治という文化的なスターになっていったのだと思う。
残された建築は、そのような家系礼賛の残滓として
今日までその状況を伝え続けてくれている。
多くの太宰治さんのファンのみなさんとはちょっと違う印象で、
この家を、こんなふうに見続けておりました。

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