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米作りと日本〜吉野ヶ里で感じたこと

愛知からまた飛んで、九州・吉野ヶ里の写真です。
って、これは5年ほど前に旅行したときのもの。吉野ヶ里周辺は公園に整備される計画とそのときにも聞きましたから、いまとは印象が違うでしょう。
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吉野ヶ里はこの国に米作が根付き、定住する文化がもたらされたころの「クニ」のありようを伝えてくれているとされています。歴史大好きな私としては、家族旅行の合間、子どもたちをだましてなんとか付き合ってもらったところです。
建物などは、当時の様子を考証し想像して復元したものですから、あまり現実感は持ちにくいのですが、大きな印象として、米という作物がわたしたちの歴史にとって、いかに決定的なものだったのか、ということを感じました。
高床式の倉庫は堀の周囲にたくさん建てられていたようで、それは「保存可能で、しかも略奪可能な基本食料・米」を蓄えておくものだったのでしょう。米の生産と寄り添うように、社会の仕組みというものもきっと形作られてきたのでしょうね。多くの労働力を集中的に動員し、米生産の基本になる水利を確保する必要性から「強制力・権力」が生み出されていったのだと思います。生産性の向上のための青銅器や鉄器の生産手段もこうした「強制力・権力」が管理していたといわれます。
はるかな後世、ほんの百数十年前、わたしがいま暮らしている北海道でも、アメリカの農務長官・ケプロンさんの開拓のグランドデザイン「畑作中心の寒冷地型農業立国」という基本方針にたいして、北海道に入植した開拓農家は、いわば草の根的に反抗して米作りに挑戦していったのだそうです。寝ずに五右衛門風呂で湯を沸かして、早朝の寒気から稲を守るという筆舌に尽くせない労苦を重ねながらの苦闘だったということ。
生産と直結した暮らしの歴史伝統の基本に、いやむしろDNAに刷り込まれたような日本人の米作への民族的な執念を感じます。
そしてこうしたものが、住宅のつくられようや素材、デザインの要素でも、基本的な部分で大きく規定されているといえるのでしょう。
しかし北海道は、そこでの住宅建築は、ご承知の通り結局、積雪寒冷の条件に立ち向かうなかで、そうした伝統的な「まゆ」のような日本にくるまっているだけでは生き延びてこられなかったのも厳然たる事実のようです。
と、なんかとりとめのない連想に入り込んでしまいました。
プロフィールにも書きましたが、歴史が大好きですので、こんなテーマ、雑感も書くことになると思います。 箸置きの話題とおゆるしください。

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