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廃屋の美とアートの境界

先日の住宅見学の合間に
ふと見かけた廃屋であります。
どうも、弱いのです(笑)。
やや不謹慎かとも思ったのですが、
ついうずいてしまうのは、生来の何かのせいなのではないか。
もちろん、このあと、一般の住宅もきちんと見学させていただきました。
<やや、言い訳>

で、廃屋であります。
わたしがどうして廃屋が好きなのか、
いろいろ考えてみて、やはりそれを「人間の手業の痕跡」と
強く認識に刷り込まれているからなのだと思うのです。
芸術であろうとなかろうと、
人間が、「やむにやまれず」という思いで造形したものには
痛切に伝わってくる部分があって、
そういった部分を、「観賞」的に見ているのだと思うのです。
そういったものが、時間の経過、
その地域での気候風土の「研磨」が掛けられていって、
結果として、なにもかも正直に、素裸に露出している。
まぁ、そういう意味では一種の環境芸術的なものとして見ているのかも知れません。
それに対して、カメラを向けて構図などを考えながら
シャッターを切っている行為は、
こちらも一種の表現衝動にかられているとも言えますね。

ここに写っているのは、
小さな居住用スペース、たぶん、6坪程度の寝起きスペースの外側に、
主屋の切妻に下屋として小屋がけした部分です。
たぶん物置なのか、作業場だったのか、
なぜか、ヘルメットが1コ置き捨てられてあって
想像を巡らせていくきっかけを与えてくれています。
こういった、見るものにとっての想像力の仕掛けをさりげなく置いてあるのも
なかなかにアーティスティックであります(笑)。
テレビとか見ているよりも、はるかに刺激される部分が大きい。
そして現実に生起した事実の痕跡を伝えているので
リアリティは圧倒的に迫ってくるものがある。
書かれたものを読んでいたら、倉本聰さんも似たような「趣味」を
持っているそうなので、よかった、
変わっているのは自分だけじゃないんだと、少し安心する部分もあります(笑)。
みなさん、いかが感じられますか?

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