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【明治13年北海道鉄道敷設での米国技術支援】

しばらく「北海道住宅始原の旅」を書き込んでおりませんが、
けっして終わりたいわけではありません。
資料収集は順調に進んでいて、とくに北大図書館の写真データベースは
たいへんありがたく参照させていただいております。
しかしそこは研究者ではない身の上ですので、
時間的にどうしても「割ける時間」に限りがあるというところ。

明治の開拓にとって明治14年の天皇行幸というのは、
多くの意味でまさにエポックだったように思われます。
時限的に設置された「開拓使」という中央政府官庁にとって、
ひとつの盛大な区切りでもあったようです。
有望な石炭資源の発見と産業化構想が立案されて、国家プロジェクトとして
札幌本府の「外港」機能を担っていた小樽から札幌を通って
いまの三笠にあった「幌内炭鉱」までの鉄路の開削事業が推進された。
人口密集地である東海道線もまだ全線開通していないのに
開拓間もない北海道に鉄道が敷設されることになったのです。
上の写真は北大データベースに保存されていた小樽港周辺での
明治13年段階の鉄道敷設の記録写真。
この当時は、写真撮影というのは「格別」のことだったようで、
敷設工事に関係した多くの人たちが総出で写っている。
機関車は右側が画面から切れていますが、
当時アメリカから輸入された7100形蒸気機関車であることはあきらか。
その本体の送達と同時に鉄道技術者たちが招聘されていた。
クロフォード一行という人名が写真説明に付されています。

当時の(いまも)世界の位置関係から考えて
海運、海上交通が基本である時代、日本はアメリカと近づくのが
もっとも合理的だったのでしょう。
アメリカ自身もまだ独立後100年ほどの段階ではあったけれど、
ペリーを派遣するほどには対外通商への興味は強く持っていた。
太平洋は大きく遠隔だけれど、途中遮るものがないという意味では
「隣国」関係といえるのだろうか。
幕末明治以降、日本の地政学的位置関係でアメリカは決定的因子。
日本がアジアの中で基本的な独立を守り得たのには
欧米列強とのバランスがうまくとれていたことも大きかった。
とくに欧州列強やロシアなどに対してまだ若いアメリカとの善隣的関係は
良好な「バランサー」の役割も果たしていたのだと思う。
今日日米同盟は世界の中でも強固な同盟関係だけれど、
140年前のこの写真を見ても、それが自然な成り行きだと思える。
今後も好むと好まざるとに関わらず、この関係は永続するのでしょう。
北海道の開拓にも色濃くこの国際関係が表れている。
日本でもっともアメリカナイズされた地域が北海道。住宅も同様。
アメリカ「合理主義」が基本から導入されているのが北海道住宅だと。

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