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【北海道開拓期の囚人「道路」建設労役】


北海道住宅始原の探究に避けて通れないのが「囚人労働」。
利用しやすい海岸線地域だけが開発されていた江戸期までは
内陸地域への探査はほとんどされていなかった。ほぼ漁業だけが産業だった。
江戸期松前藩の「場所」制というのは漁業資源だけに特化した収奪経済構造であって、
内陸地「農業振興」という試みは点的で面的にされてはいなかった。
農業振興、民の定住の実質確保のためには人的交通も物資の輸送も、
道路が開削されなければ北海道開拓の実質はなにひとつ行うことが出来ない。

図は「囚徒峯延道路開削之図」〜明治10年代作画〜。(北大データベース)
ゴーン被告は楽器ケースに身を隠してプライベートジェットで不法出国したとされるが
明治初年段階では全国で新政府への反抗を示す「政治犯」などが多数続出した。
以下Wikipedia「囚人道路」から状況の要旨をまとめた。
<政府が推進する改革に対する不満や意見相違から佐賀の乱(1874年)や
西南の役(1877年)などの内乱が相次ぎ、犯罪者も急増したことで
「国賊」とよばれた多くの人々が国事犯・政治犯として逮捕されていった。>
<度重なる戦乱で国民は困窮し犯罪者が後を絶たず囚人数は1885(明治18)年
過去最高の8万9千人まで膨れ上がった。>
という状況の中、北海道に「集治監(刑務所)」を集中配置してとくに苦役である
「道路開削工事」に当たらせるという策が実行された。

集治監は最初地として現・月形町に明治14年「樺戸集治監」が設置されたが、
図はその周辺から市来知(現三笠市)間の道路(峰延道路)の工事の様子。
その翌年には市来知にも集治監が置かれ旭川への道路開削もされているので、
集治監配置計画はまったくウラの目的そのままだったことが推察される。
まさに明治初期政権の武家出自の「開発独裁」政権たる側面が明瞭だと思う。
道路開削工事は雪融けを待って囚人たちを原始林に駆り出し、斧を振りかざして
大木を切り倒し、土砂や切り株をモッコに入れて担ぎ、夜にはカガリ火を焚き、
松明をかざしながらの重労働が展開された。
囚徒200人ほどを一団として4組に分け、3里から4里(約12–16km)を
1区画として受け持ち、15間幅(約30メートル)に立ち木を切り倒して、
3間幅(約6メートル)の道路を建設する工事が進められた。
図を見ると原始林で切り倒した丸太を敷き並べて
その上から土砂をかぶせて、突き固めるというような工程が想像できる。
囚人たちは2人1組で足を鎖で繋がれながらの作業だった。
「現在における滝川市〜美唄市間の国道12号は日本一長い直線道路(29.2km)
として知られるがこの区間の道路建設には樺戸集治監の囚徒たちが駆り出され、
3か月で完成させた。」とある。月に10km・1日300-400mになる計算。
「昼夜を問わずヌカカやブヨが襲い、オオカミやヒグマの恐怖と闘いながら、
充分な食料も与えられないままの劣悪な環境下作業のため病気やけが人が続出し、
正確には記録のない数の犠牲者を出し続けた。3里ごとに外役所を設けながら
200人を一団とする囚人たちによって、全てが人力による突貫工事が続けられた。」

いまの時代、人権として考えると怖ろしい「政策」だけれど、
今日の北海道の大地はこうした労役に多くを依って成立したことは紛れもない。
深くその労苦を思いながら、この事実から目を離すことはできないだろう。

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