本文へジャンプ

【紅花が可能にした江戸期民主化】

きのうは山形県を探訪。
前から気になっていた「紅花」についてよく知りたかったのと、
北海道探検でゆかりのある最上徳内さんの記念館探訪。

紅花というのは、北海道のニシンが江戸期の各地の綿花生産に
不可欠な「金肥」として活用されたことと並んで、
江戸期の京都・大阪を中心とした産業構造のなかでも
きわめて特異的な生産物だったように思われます。
ニシンは衣料品の基礎である綿花の不可欠な生産促進剤であり、
一方で紅花は、まさにファッションの最終デザインを決定する色彩原料になった。
どちらも江戸期の内需の最大のモノであった服飾産業の
2大エース格だったといえるのでしょう。
紅花は最高級のモノが口紅や頬紅に使われ、
その多くは京都文化を彩った紅の色彩、感受性の基盤になった。
山形県最上地方は、紅花栽培に最適な地味と気候条件とされたそうですが、
それ以上に、最上川の舟運、そこから酒田の湊への集結。
酒田からの日本海交易ルートへと、江戸期の物流の大動脈とつながっていた。
こうした商業流通ネットワークのパワーに依ることが大きい。
畿内から近江商人などがこの地に巨大利権構造を構築してきたとされる。
きのうも「最上徳内記念館」のスタッフと方に聞いたのですが、
最上地域では一応山形が本拠の最上家があったけれど、ほかにも小藩が林立し、
民衆の側では武家の支配などはほとんど眼中になく、
経済については紅花利権に群がって最上に進出した商人たちが
ほとんど支配的な社会体制であったようだと言われていました。
貧しい階層から生まれた最上徳内も、学問を志して江戸に出て
その学問の力をもって田沼意次などの経済官僚層に結びついて
武士の身分を得、蝦夷地探検の機会を得るというような
階級超越を実現していっている、と話されていました。
事実、紅花生産でこの地域の「総元締め」的な位置を占めていた
大庄屋は、9百石以上の農業生産主体になり、
在郷のまま苗字帯刀を許され、さらに自衛のための軍備までも持っていた。
この9百石というのはコメ生産だけのことのようなので、
そこにそれをはるかに超える経済力を生み出す紅花利権を考えれば、
まさに事実上の経済的独立主権が確立していたともいえる。
最上川の日本海との接点・酒田の「本間家」のことも併せて考えれば、
山形県の江戸期での日本経済に占める位置取りが垣間見える。

まことに女性の美への探求、
それが生み出す経済力のすさまじさを見る思いでした。
江戸期は、徳川政権という軍事的政治体制とはまったく無関係に
「民主的」な循環が実際に存在した社会だったように思われますね。

コメントを投稿

「※誹謗中傷や、悪意のある書き込み、営利目的などのコメントを防ぐために、投稿された全てのコメントは一時的に保留されますのでご了承ください。」

You must be logged in to post a comment.