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【死生をみつめる空間、座禅堂】

座禅というと、典型的な映像イメージとして
導師が警策(きょうさく)をもって座禅者の背筋に活を入れる動作が目に浮かぶ。
一種独特の感覚を持つ行為で、まるでしごき(笑)のようでもある。
まぁあれは自然に出るカラダの疲れゆがみを正す効果があるのでしょう。
こうした空間には、昔からある憧れを持っている。
立って半畳寝て一畳という現代の「断捨離」に通じる
日本人の基本的メンタリティはこうした空間が涵養したように思えるのです。
こういった精神性は禅の影響が強いのではないか。
自ら進んで身を打たれようとする精神性に由来する所作(笑)って、
そもそも西洋文化的にはあるのだろうか?
また、日本以外の東アジア世界でもこうした「自虐的」精神性文化、
禅宗的な文化は基本的には存続してきていないのではないか。
中国では国が替わる度に前時代を全否定する「易姓革命」が支配的で
直近では文化大革命で宗教ばかりでなく「木造文化」まで根こそぎ否定された。
寺院建築が破却され木造技術者までも迫害されたそうで、
そんなバカなことがホントに行われたのだという。
その技術の復元のために日本の建築技術者が協力したといわれます。
精神性でも他罰的姿勢が支配的で、こういう禅的求道姿勢は少ないと感じる。
最近の東アジア情勢を見ていると、こういうメンタリティの違いを感じる。
で、日本的なるものとして座禅堂の「しつらい」にある郷愁を感じる次第。
自分自身と向き合う「修行する場」としての空間性を
歴史的に多数の人間がどのように構想しデザインしてきたか、が伝わってくる。
多くの「修行」、死生を見つめる行為を促進させる空間的共通要素のようなモノが
まるで抽出されるかのような気がしてくる。
まさに自分自身と向き合うにはこういう空間的しつらいが似つかわしい。
似た空間として、北海道の西部海岸地域に多く残る「番屋」空間の
「ヤン衆」のための個人の空間がある。
大空間の中に数十センチほどの「仕切り壁」が回され、奥には個人のモノ収納を持つ
ほぼ1畳大の大きさの空間。
こういった空間でどのように一個人が人生と向き合っていたか、時空を超えて
深く人間心理を探究したくなるのであります(笑)。

だんだん年を重ねてくると、死というモノが身近になってくる。
先日、高校同期の級友たちと再会する機会があった。
ごく自然に「来年のことはあんまりわからないし」というコトバが飛び交う。
淡々と死がごく自然に近づいてくる空気感とでもいえるでしょうか。
ここは僧侶の修行の場ですが、体験できるお寺もあると聞きます。
一度、背筋を警策(きょうさく)に差し出して打たれてみたいと夢想しています(笑)。

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