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【蒸暑前提の快楽的「伝統」のいごこち】

写真は、沖縄からの帰路一時逗留した福岡・博多の「町家」空間。
日本の都市住宅ではこういう「中庭」空間が普遍的に存在した。
その経済力によって、空間性の「格差」は存在したし、
また日本一円、北海道でも日本海側の酒蔵などの建築施設では
ほぼ同様の間取り構成での空間がしつらえられていた。
ただし写真のような艶やかな植栽、高温多湿な風情は年に数日しかなかった。

こうした空間性には北海道から遙かに訪れるエトランゼとしては
民族的空間郷愁はたっぷりと持っております。
沖縄的な言い方では「雨端〜あまはじ」、一般的には濡れ縁、
という、室内であるか外であるか、あいまいな空間越しに
「管理されたそと」としての中庭でたっぷりの湿度貯蔵と水分蒸散機能を
同時に果たすような植栽、中庭をながめ、
なお、その水分保湿、蒸散機能の結果、室内側に「微風」も感じられただろうと
そのたたずまいを感受することも認識できる。
こうした空間性、雨はじでのいごこちのここちよさは素晴らしいと思う。
ただし、この「いごこち」はきわめて刹那的でもあると思う。
第一、不確実性の方がはるかに勝っているだろう。
やはり蒸暑の一時期だけ、その快楽性を発揮する空間ではないか。
このままの空間で雪がそこにうずたかく積もったら危険ですらある。
さらにこうした快楽性は、現代の高断熱高気密空間でも
建具などの「開閉」の工夫で十分に実現も可能だろうと思われる。
そうすることで、蒸暑以外の季節にも建物の空間快適性は高められる。
沖縄でのあらたな高断熱高気密空間の胎動は、
こうした建築の進化がまったくシームレスにあり得ることを語っていた。

それにしても、と思う。
日本の知識人のありよう、その文化というものは、
多分に「情感的」というか、情緒的な部分が多いのだと。
「心頭を滅却すれば火もまた涼し」とか、「武士は食わねど高楊枝」文化。
そういう「ガマンを強いる」ことが、まるで高級な心根であるかのように
生活文化的に無理強いして拡散されてきたのではないか。
日本文化でも民家の系譜にはそういうやせ我慢の発想はないと思う。
一方で人類は普遍性を持って、生活を進化させてきている。
その知恵と工夫を大いに活かして、いごこちをも「科学」する、
そういった態度、姿勢が建築人には不可欠なのではないか。
最近2020年断熱義務化へのアンケート結果の開示がされつつあるという。
そこでは、作り手・設計者のなかから「表現の自由」みたいな論から
断熱義務化を否定する声がアンケートには出ているとされていた。
ことはアンケート結果のことであり、自由に思いを書くことは否定しない。
しかしそれを盾にとって、進化を拒否することが喜ばしいこととは思われない。

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