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【薩摩武家集落に自然な自衛意識伝統をみる】



写真は鹿児島県出水に残る薩摩藩の出水麓の中心的武家住宅でのもの。
「麓」と呼ばれるのは、緊急時に薩摩防衛の防衛拠点になる「外城」周辺に
配置されていた武家住宅群の名称とされている。
そういうことなので、地域として武道の修練が盛んで
写真のように少年たちも凛々しい姿・表情を見せて美しい。
明治初期の地域での武道修練の様子を撮影した記念写真ということ。
土地・地域を守り、人々を守ろうとする自然な倫理意識が表情を引き締めている。
また、自顕流という薩摩独特の武道精神は隼人の血も感じさせる。
幕末期から明治期の薩摩隼人、おとこたちの息づかいが伝わってくる。

薩摩藩は関ヶ原以来、江戸期日本でもっとも独立性の高い地方武権であり、
幕府の密偵を見つけ次第、容赦なく殺害したとされる雄藩。
江戸期を通じて常在戦場の気風を残し続けた。
徳川政権に対してみごとな外交を展開し、経済的にも琉球を支配下に収め
貿易の利益を得続けてきた。さらに鹿児島には天守などの城郭を築かず、
ひたすら藩経済の充実に努めてきたとされている。
まさに明治期ニッポンの国策になる「富国強兵」路線を江戸期に実践し続けた。
その武の気風が、次の薩長政権ニッポンを生み出した原動力。
幕末日本では対ロシアの国防論議が世論を沸騰させていた。
そのとき、常に問題となったのは蝦夷地だった。
もし蝦夷地がロシア領になったら、という危機意識が明治維新の起爆力となった。
明治ニッポンの国家としての飛躍は、この国防問題と切り離して考えられない。
維新の成就とほぼ同時に、事実上の北海道の開拓使長官に
薩摩中核の黒田清隆が任命され、北海道はまさに薩摩の政治軍事方針通り、
殖産興業と国土防衛の最前線であり続けた。
日本側のそうした国防と一体化した北海道開拓の努力がロシアの方針を転換させ、
北海道への南下活動を停止させ、その矛先を中国北東部から
朝鮮半島へと向かわせたことが、日露戦争への歴史の転換点になった。
平和は絶え間ない防衛努力こそが基本であるのは、歴史であきらかなこと。
北海道を内国化させたことは、薩摩の戦略がその基底にあり、
その結果、北海道はこの時期救われたのだと、
はるか後に北海道に生を受けたものとして、感謝を込めて思っている。

戦後ニッポンは長くアメリカの軍事圏にあって、安全保障を得て
その国力を基本的には経済発展に振り向けてきた。
日米同盟は、第2次世界大戦の多大な国民の犠牲の上にある国家平和戦略。
いま、北東アジアにおいて否応なく緊張が高まってきている。
現代世界における危機とは、このように発現するのかという思いがします。
まさに一昨年の安保法制整備が、こうした事態対応の基本の支えになっている。
冷静にこの事態に対処し、状況を平和的に転換させる必要がある。
しかしそのためには、絶え間ない防衛努力が基本であることはいうまでもない。
明治期ニッポンがロシアに北海道侵略を諦めさせた歴史の事実に学べば、
軍事を含めたパワーを見せない「交渉」などありえない。
けさの毎日新聞の、日本の対ミサイル防衛対応それ自体を「疑問」だとする報道。
「<PAC3配備>「どう対応すれば」地元から不安や疑問の声」と題した記事。
「PAC3を配備すれば、逆に北朝鮮から狙われるのではないか」とまで記載がある。
まさかこういうスタンスを日本のメディアとして取るのか、と驚愕した。
日本の危機とは、むしろこうした「報道」のあり方それ自体にあるのではないか。
明治ニッポンとの落差に暗澹とする思い。

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