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【住宅リノベーション感性の1200年積層都市・京都】



わたしの高校同期の友人たち、リタイヤするひとも増えてきた。
で、そうすると結構な数の人間が京都への長期滞在型の旅に出掛けている。
どうしても北海道で暮らしていて、満たされなかったものを探すように
出掛けていく人が多いのです。
年賀状をもらったある友人は、昨年35日間も京都滞在していたと書いている。
出版不況が叫ばれているのに、中高年向けの旅行雑誌が創刊するとか、
どうもそういったニーズが沸き上がっているのかも知れません。
わたしたちの年代では、マスメディアの支配が強くそこでは、
戦後の支配的な空気は欧米的な文化への拝跪であって、
その文化体制にずっとアタマの先からつま先まで貫かれた人生だった。
そういった人生哲学に対して、なにか満たされないものがあって
京都になにかがあるのではないかと志向するのでしょうか?
それとも、北海道という人文の希薄な地域での暮らしで
常に人文文化性に対して欲求不満のような状態を持っているのでしょうか?
どうもよくわからないまま、でも行ってくるとなにか足りなかったピースが
見つかってくるような気分がするのだと思います。

まぁ、わたしも高校時代にヨーロッパの旅を経験して、
帰ってきてから無性に奈良・京都を旅したくなって、巡ったことがある。
無意識のうちに、日本的伝統とか感受性の系譜に憧憬を持つ。
この点では、アメリカの大量破壊が京都には及ばなかったことに
感謝しなければならない。
京都ではいまだに「前の戦争」というのは応仁の乱だと聞かされる。
794年に都が造営されてから、1200年以上の時間経過があり、
途中何度も内戦によって灰燼に帰したけれど、
そのたびに復興を成し遂げてきた歴史を持っている。
そういう「積層感」はどうしても北海道には希薄ということなのでしょう。
それぞれの時代の先端的な感受性が表現された建築が
繰り返された破壊・焼失を超えて現代にマッチして再建され遺っている。
日本人的感受性が連続したかたちで積層している。
いま、住宅に於いてもリノベーションということがテーマになりつつあるけれど、
京都の街は、まさにリノベーション感性の積層そのものだと思う次第です。
出江寛さんは、こういった感覚について「沈黙の美」といわれた。
これからの日本は、高度成長とか拡大発展という概念よりも、
いまあるものを大切に長く使っていく社会になって行くのだと思う。
1200年以上、古いモノと新しいモノが混淆しながら調和を見せてきた
そういった考え方で住宅建築も長期的存続を目指して行くべきなのでしょう。
そのための「多くの日本人が納得できる」デザインや発想のエッセンスは、
たぶん、京都の街で目を凝らせば、たくさん見えてくるのでしょうね。
<写真は、下鴨神社にて>

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