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環境・眺望〜家から見える景色

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写真は25年前のわが家新築当時の写真。
建物は周辺環境を「読み取って」家の中からどんなふうに景観を取り込むか、
そういった要素が、窓の設計には欠かせないだろうと思います。
この要素は、伝統建築群での「借景」という思想を生んだりしてきた。
現代では透明なガラスで風景を切り取るけれど、
伝統的建築では、柱と柱の間隔の「間」の「戸」で
たとえば庭景観を切り取っていた。
京都に残る伝統的建築などでは
築地塀で見たくない景色は遮断し、見たいものだけを切り取った
そういったビジュアルの「仕掛け」を考えるのが一般的。
それに対して,現代の庶民は、敵わぬまでも「借景」で豊かな環境景観を
切り取りたいと考える。まぁ当然ですね。
わが家ではその額縁として「木製3重ガラス入りサッシ」を嵌め込んだ。
その当時には「透明な壁」という感覚も感じていた。

新築当時は、ごらんのように隣家には豊かな庭木の森があって、
1階の窓からは、こんな景色が見渡せていた。
設計者がしつらえてくれた窓と、自分の家のアプローチの木組みとが、
この緑とのコントラストを形成していて、たのしい景色だった。
窓を、ある意識を持って開いて行くという建築の「空間体験」が
こんなかたちで明瞭に体験できて、毎日の暮らしが彩りを持った。
しかし、こういう視覚のピンナップは、もちろん
自分には決定権のない、隣家という他者の自由意志のもとにある。
借景、というものが自由主義社会的な環境要因のなかにある。
これもまたきわめて当然であり、
そういった相互の関係性を尊重しあって、都市生活は成り立っている。
わが家の場合、この「眺望」は数年でうたかたのように消え去ることになった。
一抹のさみしさは感じたけれど、それは当然と考えた。
むしろ、いっときでもこうした景観を感受できていたことに感謝した。
まぁ「眺望」というもの。
しかし、この「眺望」というものに権利意識を持つ人というのもいる。
そういう権利意識は、他者の自由意志の尊重という部分で
さてどうなんだろうかと、いつも考えさせられるものがある。

たぶん、都市生活では他者はつねに流動的判断を下してくるものであり、
それを尊重した上で、自分の感受性というものも制約条件を受けるもの。
そういった前提条件を受け入れたくないというのは、
やはりちょっとムリがあるのではないかと思います。
しかしそういう前提条件を受け入れつつ、では環境が変化したときに
どう対応するように自分の側で考えておくか、
窓をどう考えてつくるか、開けるのか。
むしろそういった「面白み」というものもあるのかも知れませんね。

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