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中世京都の風景

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京都が日本の首都であった歴史年代って、
実に永く、京都で観光バスがアナウンスする「千年の都」というフレーズは
誇張でもなんでもないのですね。
その国の首都の雰囲気が作り出す感覚のようなものってあると思うのですが、
いまは東京が首都になっての時代が140年近く続いている。
東京という土地は、京都とはまったく違う気質を持った都市ですから
きっとそのような違いが歴史に反映した部分も多いと思います。
京都から東京への遷都って、
それまでのアジア中心の世界観から脱却させる、というのが
一番大きかったような気がする。
世界に対して開港した横浜から上がってくる欧米世界の雰囲気に対して
敏感に反応して、それを前提条件なく摂取すること。
そういう意味で、京都ではあまりにもアジア的な蓄積、
仏教権威から政治的なシステムすべてまで
ごっそりと残ってしまっていて、
大きな振幅に耐えられない文化性を持っていたのではないでしょうか。
一方で、京都が中心であった時代の感覚って、
通り過ぎてしまった過去であって、皮膚的な感覚を持てない。
写真は戦国期の京都の街のジオラマ接写。
たぶん、地方から京都に用事があって出張してきた
地方政権の中堅幹部クラスが用事を片付けたあと、
国元に帰還するような様子が感じられる風景。
信長の逸話に若い時期、京都に上京し、堺に遊んだ下りが出てきますが、
そんな様子を想起させる気がします。
たぶん、戦国末期の当時で言えば、
混乱した中央政権、足利将軍家は実体を持っておらず、
形式的な追認行為くらいしかなかったでしょうが、
それでも地方政権に対してのなんらかの表面的な政治行為はあった。
それと、経済の中心としての堺の町は独自の自衛装置も持つほどに
独立的な経済権力を構成していた。
若い日の信長は、そういう時代の雰囲気の真ん中で自由を感受したと思います。
また、この時代には種子島からの鉄砲伝来以降、
ヨーロッパ世界の文化進出もめざましかった。
たいへんな大航海時代の息吹が京都にも充満していたことでしょう。
後の「琳派」の源流的位置を占める俵屋宗達が表現したような
開放的で自由な都市文化が自由闊達に勃興していたに違いありません。
こういう空気感は、たとえば「琳派」の絵画などから思い起こすしかないのですが、
階級的にも固定的でなく、自由に各人が「天下」を目指す雰囲気があったと思うのです。
こういう自由さのゆりかごであったような京都文化って、
なんとか追体験してみたいものだと想いつづけています。
北のくらしデザインセンター
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