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【伊勢神宮・式年遷宮「官材川下」3〜山中製材】




さて北海道住宅始原の旅シリーズからの「スピンアウト」版、
江戸期までの「木材製材」林業から木造建築までのプロセス探求篇。
伊勢神宮の「式年遷宮」用材を飛騨山中から「川下」させる絵巻物を
追体験しながら、江戸期の林業製材を研究しています。
難関は「崩し文字」の解読作業の困難さであります(泣)。
一字一字の漢字はまだ、推定も効くので楽なんですが、
ひらがなで「スラスラ」と流れるように書かれている、その中に
これも崩しきった漢字が混淆している文章は、本人しか読めない(笑)。
書いた本人はその筆の進み具合にうっとり自画自賛なのでしょうが、
フォントに慣れきったはるかな後世人が読み下すのはほぼ懲役刑。
まぁ研究論文でもないブログ記事としては、大意をつかんで
ところどころの要点の漢字に基づいて推測ベースで書き下すしかない。
それでもけっこうな反響のようですので、本職の学究の方々、
ぜひ徹底研究してください。工学部系の学生さんの「卒論」テーマにも
オススメ。って、勝手に推奨してどうする(笑)。
しかし、面白い大和絵挿入画がマンガ的に大筋を教えてくれるので助かります。
スピンアウト的発見ですがこの資料絵巻、メッチャ面白い。
とくに日本建築にとってかなり興味深いテーマを提供してくれている。

きのうは飛騨山中の山津見神(やまつみ)への奉納から始まって
伐採、木株切れ目付近への焼却工程までをみた。
この焼却にどういう意味があるのか、詳細は引き続き探査していきたい。
本日はそうして伐採された原木の枝打ち、墨打ち、製材の様子。
一番上の絵図には「丈六厘之図」(?)とタイトルづけられている。
<しかしこの項を書いてから袋小路に入った。タイトルは「文六厘之図」だという。
「文」と「丈」、書き文字ではなんとも判別が悩ましい。
さらに、では「文六厘」とはどういう意味か、これがどうにも調べ当たらない。
なのでこれも時間を掛けて解明するとして大筋の研究は進めていきたい。>
「丈六」であれば寸法単位で約5m。厘というのは「単位」というような
意味合いでの言葉使いのように想像されるのだが・・・。
原木を丈六単位に仕上げていく、と解釈する方が自然ではないだろうか。
以降の図を見ていると、この「丈六」ほどと思われる単位での製材木が
たくさん絵画表現されているのですね。
伐採されてからすぐにその現場付近で「枝打ち・計測(墨打ち)・切断」
などの作業が行われているように見える。
職方組人数が一組15-6人と多いのは、伐採と製材仕上げの工程が同時という
施工慣例を物語っているのでしょう。
資材の「流通」に河川を「下らせる」ことを主眼にする日本山岳の
特徴に沿った林業作業工程だったのだと思われます。
必然的に人足が「大量動員」されることを前提としたシステム。
とくに一番上の絵図を見ていると、想像の飛躍だけれど南北朝動乱期の
楠木正成軍の戦い方を類推させる「杣人の技術体系」を見るような思いがする。
斜面傾斜を利用してアクロバチックに伐採木を「架構」させて、そのまま
枝落とし、断面を平滑面に仕上げる釿(ちょうな)作業現場にしている。
説明書きでは、杣人の匠にして可能な技とこの樹上作業を褒め称えている。
複雑な山岳地形を作業現場に変貌させてしまうような「知恵」。
複雑急峻な山岳地形を進軍する軍の目には木の枝振りの異常さに
しっかり気づけるような軍事戦略眼はなかったに違いない。
それで進軍していって、突如樹上から「奇襲攻撃」されるみたいな。
それに大軍・鎌倉幕府軍はまんまとやられて歴史が転換させられた・・・。
こういった日本式林業技術体系は面的知恵の体系である農事的発想とは違う。
あくまでも水平勾配を保つ必要のある「水田」土木造作技術、さらに
その導水技術などとは異質な技術体系だったのではないか。
複雑な山岳地形をもちながら木造建築が主流であった国土社会条件が
日本にどういった文化影響をもたらしたか、
いろいろな気付きを想起させられるくだりだと思います。
江戸期林業の生産流通プロセスの研究、明日も続きます。

【江戸期製材 伊勢神宮「官材」伐り出し 2】


昨日からの続きであります。
江戸期の、というか近代以前の木材の伐りだし・製材プロセスを
美麗な表現で絵巻物にしてある「官材川下之図」の再構成ブログ連載2です。
読み方はたぶん「かわくだし」「かわおろし」ではないかと。
歴史的には伊勢神宮の幕末での大工事があったように思える。
その大工事にあたって工事記録を伊勢神宮の事業経費で残したのではないか。
神社仏閣では「縁起絵詞」の類が制作されることがよくあるので、
そういった記録制作を江戸の出版事業者に委託して残したことが想像される。
で、伊勢神宮で木工事といえば「式年遷宮」が思い浮かぶ。
三重県環境生活部文化振興課の「伊勢神宮遷宮制度の衰退と復興」という
HPの記述をみることができたので、以下要旨抜粋。
〜「式年遷宮制は今から1,300年前、天武14年(685)とされ第一回式年遷宮は
内宮では持統天皇四年(690)外宮では同六年に行われた。式年遷宮とは
『正殿以下すべての社殿や神宝・装束に至るまですべてを造り替え新調し、
新しい正殿に御神体を遷す祭典』・・・なぜ20年に一度行われるのか。
一つは正殿の掘立柱建物の寿命が20年程度、もう一つは建築技術伝承には
20年に一度行うことが望ましいから。20年区切りに新しくすることで
神が若返りより強い力での保護を願う行為であり伊勢神宮の最重要行事。
南北朝動乱期には20年に一度制は崩れ室町時代には120年以上にもわたって
遷宮が行われない事態に。その後実権を握った織田信長に遷宮実施を願い出た。
信長は社殿の造営費用を寄進し遷宮実現に尽力し江戸時代にも徳川幕府が
その費用を負担して執り行われ順調に式年遷宮が続けられてきた」〜とある。
江戸幕府が費用を負担した「公共事業」として運営された。
式年遷宮とは一部の「本殿」建て替えだけでなく「すべて」が新調されたのか。
この絵巻では飛騨山中から大量の材木が出荷されている様子がわかる。
想像を飛躍すれば、どうも式年遷宮にかこつけて「余材」を流通させていた、
むしろそっちの方が主目的だったのでは?という邪推も働いてくる(笑)。
実際そうだったのでは。いわば「ホンネと建前」みたいなことではないか。
木造建築には「建前」という儀礼も文化継続しているし地鎮祭など神事は多い。
日本的ビジネスが宗教と結びついて発展してきた事例を考えると興味は尽きない。
ありがたい神事なので「すべて大目に見る」みたいなことがあった可能性大。
「今度の式年遷宮官材伐りだしの件ですが、つきましてはよろしく(袖の下)」
「おお、その件は万事あいわかった(懐に入れる)」・・・。
というのは三流時代劇の見過ぎでありますね(笑)。
実態としては材木伐採〜材木川下りという産業システムが継続的に存在し
その「用途」のひとつとして伊勢神宮式年遷宮神事があった、ということ。
そういうことで「建前」として最初で図写真のような「神事」が行われる。拝。
説明書きでは「山津見神」が祭られている。やまつみ、と読めるけれど、
ふと「わだつみ」という古語も類推として浮かんできた。これも興味深い。
すいません、想像力の羽ばたきがどうも止まりません(笑)。


で、いよいよ伐採工事・製材工事が始められる。
面白いのは斧で切り目を入れたあと、その部分を焼いていること。
あぶない、山火事を推奨しているのか。ですがそんなことはないでしょう(笑)
「株焼之図」の説明書きが書かれているけれどまだ解析できない(泣)。
この下の絵図左側にその説明を載せたけれど、崩し字がまことにやっかい。
鳥とか栗鼠とかがどうこうと書いているけれど、よくわからない。
以降、順調に切り倒され「墨付け・製材」工程なので大勢に影響はないけれど、
ここの説明がどうしても不明であります。奇特な方、
いっしょに解読に悩んでみて欲しい(笑)。気付きコメント大歓迎!

【伊勢神宮造営材伐り出し 江戸期林業の図】



歴史的に建設業を探究してくると、当然木材のことが知りたくなる。
日本ではたくさんの木造建築が作られ続けてきたけれど、
その材料である木材は当然、国内から伐り出された。
北大の「北方資料データベース」を見ていたら「官材川下之図」と題された
「飛騨山中における伊勢神宮造営用材の切出し、造材、益田川の川下し、
白鳥湊からの積出しなどを詳細に画き説明した美麗な絵巻物」
を発見することが出来た。大学というのはすばらしい勉強の宝庫ですね。

巻物の形式で描かれているので、製材の流れに沿って理解が進む。
最初から最後まで読みこなすのはなかなか至難の業。
本日触れるのはその作業最初の「杣小屋〜そまこや」の場面からであります。
杣というのは「そま。山から切りだした材木」という一般名称で
いわば木材生産の最初期作業、その人々ということになる。
説明文が楷書ではなく崩し書体なのでところどころ立ち止まる。
疲れるのですが、慣れてくると理解出来たときの喜びも大きい(笑)。
ただ、時間が掛かるので困りますね。
その最初の記述に「杣人一組凡そ十五六人」と記されている。
で、林業の要諦の第一番に「水の事を第一の要として」と書かれています。
日本の国土は森林面積が大半であり、その森林はヒマラヤを出発する
偏西風が日本海を渡って大量の雨を降らせるので豊かな自然林ができる。
その条件下に急峻な火山列島地形があるので、
当然、ほとんど「滝」だといわれる豊かな水流が存在する。
それがやがて大河となって物流と産業形成、市街形成に至るけれど、
それらの流通経路として水運が一番の要だと書かれている。
森林資源産業もこの水運流通を大前提にすることが事業の条件だという。
この杣小屋もそういった条件を慧眼をはたらかせて選び取り、
そこに15-6人単位の作業員を集結させるのですね。
絵画の掲載順番は上下逆にしました。
上の方が小屋内観図で、下の方が外観というか周辺環境図です。
この上の職人さんたちの居住状況がなんとも見覚えがある・・・。
北海道西部海岸にはたくさんの歴史的漁業建築「番屋」がありますが、
その作業員たちの生活状況とまったく同じように描かれているのです。
わたしは住宅雑誌をやっているので人間がどのように暮らすか、
ということに強い興味があるのでその最低限、立って半畳寝て一畳ぶりが
同じようにしつらえられていることに深く共感を覚える(笑)。
ここでは詳細までは描かれていないけれど枕とおぼしきものは、
たぶん竹で編まれた「行李」だっただろうと思います。
今日で言えば身の回り品を納めた「スーツケース」。
それ一丁を担いでこの「杣小屋」に集結してきたのだろうと思われる。
自在鉤から鍋が下げられて食事が提供され、浮かれて踊っている人物までいる。
きっと「親方」から酒の支給もあったのだろうと想像できる。
盛大に煮炊きの火が焚かれて楽しげな食事の様子が伝わってきます。

現代社会では働き方改革が叫ばれていますが、
江戸期までの職人さんたちのこういう状況って、さて不幸だったかどうか?

【過去の感覚再構築 明治初年さっぽろ地図】



わたしのライフワーク一領域であるのは間違いないと
「北海道住宅始原への旅」をブログの1テーマ領域で探究中。
過去の時間へのタイムトラベルをしながら、古建築と向き合う。
そんな「脳内作業」に取り組んでいる気がします。
わたしが生まれてからほぼ60年くらい住んでいる札幌地域は
明治初年にはアイヌの集落がいまの北大周辺地域にあったとされるけれど、
それにしてもたぶん30-50人程度の人口。それ以外にも
数戸の和人居住者もいたとされるけれど、まぁほぼ「未開」。
そういうほぼゼロの状態から今日の約200万都市まで変貌してきた。

ここまで劇的に変貌した北海道・札幌は日本の中でも稀有な進行形事例。
そういうことだけれど、時間的には150年ほどのこと。
それ以前の江戸期にも絵画表現はあり明治以降には
住宅をテーマにした写真までかなり残されていてたどる「よすが」がある。
そういうなかで一般性があるかどうかは置くとしても(笑)
現代で探究出来ることはいろいろあると考えた次第。
現代はWEBやデジタル情報端末、ソフトを利用できる。
ということで、リアルに迫れるところには迫っておきたい。
写真は上が明治初年の「銭函新道見取画図」(北大データベース)。
下は、Googleマップで札幌から日本海・小樽市銭函の海岸までです。
両方をほぼ方向を合わせてみたビジュアル。
ヘタなデジタル操作だけれどPhotoshopで試みてみた。
あんまりうまくはいきませんが、ご笑覧ください。
どちらにも赤丸を入れましたが、これがわたしの居住地(付近)。
昔の地絵図は、人口集積地はややデフォルメされ大きめに描かれるけれど、
ふたつの地図をこうやって重ねて眺めると、ほぼ「同期」できる。
見えにくいけど古絵図で「本府」と書かれているのが「原さっぽろ」街区。
札幌駅からススキノくらいまででそこからまっすぐ延びている道は
現北海道神宮までの「参道」です。いわゆる「表参道」。開拓三神は
本府内東北端の仮座所から「圓山」と地図に書かれた地域に移転した。
明治国家は王政復古政権であり国家の開拓意志は神社の存置で表現された。
そこから右折して旧国道5号線の街道が山地を左手にしながら続き、
そして日本海、石狩湾に出るあたりが「銭函」地域となります。
明治2年の11月末に開拓判官・島義勇はこの銭函をベース基地にして
民家を借り上げて「仮役所」として利用しながら、
毎日のようにこの「銭函新道」のルートを往復し本府建設工事を督促した。
この街道は日本海海運で到達できる小樽港から札幌本府への
メインルートであり、言ってみれば「札幌開拓ルート」。
距離にしておおむね20km。歩いて早足4時間、馬なら2時間程度か。

以前山形庄内・羽黒山五重塔での現実と過去画像でのタイムトラベルに似た感じ。
過去との感受性同期が可能になる。気分は「行きつ戻りつ」。
しかし令和のいまの現実進行もあるので(笑)まぁほどほどに没頭・・・。

【戊辰戦争・五稜郭とならぶ「弁天崎御台場」城塞】



本日は、住宅ではないけれど歴史的な北海道幕末明治「建築」探訪シリーズ。
それもいまは消え去った幻の建築空間です。
函館の街は、明治の「北海道住宅始原の旅」探究で存在感が際だつ。
明治天皇も明治14年の行幸の前、明治9年段階で東北から函館にだけは
上陸を果たしている。まことに北海道の「表玄関」。
そして同時に江戸幕府が果たした役割の歴史残滓も色濃く残っている。
「五稜郭」城郭が最大のものといえるけれど、同じ設計者の作った
いまは失われた「弁天崎御台場」に強く惹かれた。
北大データベースに残っている上の写真を見てこの台場の威容は出色。
美しい石積みやアーチの出入り口が独特の構造美を見せている。

お台場というのは近代戦争における打撃陣地・砲台城郭建築であって、
海軍的視点での国防面で死活的に重要なものだったと思う。
現代戦は空軍、宇宙軍、サイバー軍が死命を制するのだろうけれど、
明治初頭の歴史段階では最大の攻撃力は海軍軍艦でありそこからの艦砲射撃。
その軍艦は機動力抜群とはいえ、エネルギー補給のためにも
良好な「軍港」が必須とされる。箱館は函館山という海に突き出した防壁をもち
囲い込まれた内海もあるという天然の「錨地」。
津軽海峡というアジアと太平洋をまたぐ戦略的要衝ともいえる。
世界中からアジアに向かってくる各国海軍にとって垂涎の地だっただろう。
いまもロシア正教会系の影響も残るほどロシアも強く興味を持っていた。
開港地として箱館が選ばれたのにはそういう価値があった。
五稜郭はこの防御機能の良港からさらに数キロ内陸後退した安全地に立つ。
なぜ江戸期の松前藩がこの天然の要塞地域を見過ごしていたのか、
その政略的不明、武家としてのオンチぶりにだれもが驚かされる。
ただただアイヌからの攻撃をおそれ、農業開拓努力もせず
この箱館から約100キロ離れた絶壁のなかの松前に引きこもり続けていた。


主城である五稜郭と、この「弁天崎御台場」の位置関係をいま見ても、
ここがいかに戦略的なスポットであるかがわかる。
入港する軍艦艇に対しての防衛打撃力は抜群の位置関係にある。
事実、榎本武揚はこの台場からの砲撃を怖れてはるかに迂回して
北方・鷲ノ木から上陸して箱館・五稜郭を占領している。
江戸幕府は幕末開港地としての箱館にこの重要な城塞建築を2つ残した。
五稜郭とそしてこの弁天崎御台場城塞建築。
その両方を設計した人物が武田斐三郎という伊予大洲藩出身の武人。
日本初の近代城塞を設計し、その科学知見に来航した米海軍人ペリーも刮目した。
戊辰では中立的に対応しその後能力を買われ新政府で陸軍創設に尽力した。
科学者、教育者、陸軍軍人としてその豊かな才能を残した。
台場建設費用は10万両の計画で安政3(1856)年着工、竣工は文久3(1863)年。
土や石は箱館山のものを使い重要部分は備前御影石を大坂から運んだとされる。
台場の形状は不等辺六角形で周囲は390間余(約710m)高さ約37尺(11.2m)。
星形の平面形の五稜郭、変形6角形弁天崎御台場とも近代戦への先見性が高い。
まぁわたしは軍事オタクではないので建築的に見てということですが、
機能の優れたものはカタチも美しくなると感じる次第。
見方によっては五稜郭以上に美しい建築だったと思うのですがいかがでしょう。
戊辰箱館戦争では主城の五稜郭と連携して奮戦したが、補給を断たれて
守備隊の新選組が降伏し新政府の軍門に降った。幕末を疾駆した新選組終焉の地。
その後この弁天崎御台場は明治20年まで陸軍省函館砲隊が入り
明治29年港湾改良で壊され跡地に函館ドックができた。存在期間34年間。
いま残っていればと惜しまれる建築。

旧幕府は政治戦略・国家統治では失敗のそしりは免れないけれど、
ほかのアジア国家権力からすればはるかに先見性はあったし、
軍事政権としての終焉でも戦乱は発生したがほぼ平和的といえる政権移譲だった。
明治国家は江戸の街を無傷で獲得し北海道開拓の基盤も得られた。
前政権の基盤的成果を十分に活かして飛躍することが出来たのだと思う。

【江戸期の住宅雑誌?〜蝦夷地風俗取材篇】


写真の2点は「蝦夷風俗図巻」からの住宅取材部分であります。
出版年代は江戸後期/19世紀とされています。
文化遺産オンラインの説明書きは以下のようになっている。
「紙本著色 28.0×1428.5 1巻 岸和田市立郷土資料館所蔵
アイヌ人の衣服や生業、熊祭り(イオマンテ)の風習などを図解する。
江戸中期以後、蝦夷地(北海道)に対する関心の高まりとともに、こうした
アイヌ民族の風習を記録した絵画が多く制作された。
本図は大坂安治川口の船宿淡路屋に伝わった資料の一つで、
海運業者のアイヌ人への関心の高まりを示すものであろう。」
ということであります。
これは綴じられた本のかたちで製本されたもので、
江戸期でもあり、浮世絵のように印刷され流通したのでしょう。
船宿に常置されていた本であることを考えれば
活発な北前船交易での人的往来という需要に対して情報を提供したのか。
北前船に乗り込む人たちに蝦夷地の状況、風俗を知らせていた。
この絵図を含めて北大データベースには38点の収蔵があるので、
絵師は、現地アイヌと親密になって取材を敢行していたのでしょう。
わたしどもは現代で住宅に特化した雑誌を発行していますが、
はるかな先人を見る思いがしてきます(笑)。

写真のない時代ですので、浮世絵出版界から絵師が派遣された。
明治期になるとすでに明治2年から以降北海道の建築写真が記録が残っているので、
こういった情報伝達流通の形態は変化していった。
ただしきのうご紹介した明治10年代の状況を伝える絵図も残っているので、
江戸期出版界では、写真印刷製本に至るには時間のズレがあった。
このあたりは出版技術の歴史探究になりますね。
上の外観図には、主屋に対しての説明キャプションとして
「屋只四壁ノミ覆フニ菅萱、或ハ木皮篠葉ヲ用フルアリ」と記載されている。
また、家を守るかのような「幣」や、アイヌの風習である獣檻、
食倉の高倉建築などが描かれている。
さらに室内絵図は詳細な家具類のキャプション説明が満載されている。
水平垂直にも十分留意されていて、描き方に齟齬は感じられない。
畳の代わりムシロ敷きだが、江戸期の日本社会一般庶民と大きな乖離はない。
いや矢や大刀まで装置されているので、刀狩り以降の
日本社会にはない武具も常置されているワケで、よりバイタル。
「菅萱、或ハ木皮篠葉」の厚みで「断熱性能」を確保もしているので、
北地での居住性はそれなりに考えられていた様子がうかがえる。
総合して見てみると、基本的な情報はわかりやすく伝わっていると思う。
あるいはキャプション部分は編集者が手を入れたのかも知れない(笑)。

やはり住宅をよく知らせるのはビジュアルですね(笑)。
このようにカラフルに伝えられれば情報としてリアル感が高い。
江戸期の出版の先人たちの仕事、楽しませてもらいました。

【北海道開拓期の囚人「道路」建設労役】


北海道住宅始原の探究に避けて通れないのが「囚人労働」。
利用しやすい海岸線地域だけが開発されていた江戸期までは
内陸地域への探査はほとんどされていなかった。ほぼ漁業だけが産業だった。
江戸期松前藩の「場所」制というのは漁業資源だけに特化した収奪経済構造であって、
内陸地「農業振興」という試みは点的で面的にされてはいなかった。
農業振興、民の定住の実質確保のためには人的交通も物資の輸送も、
道路が開削されなければ北海道開拓の実質はなにひとつ行うことが出来ない。

図は「囚徒峯延道路開削之図」〜明治10年代作画〜。(北大データベース)
ゴーン被告は楽器ケースに身を隠してプライベートジェットで不法出国したとされるが
明治初年段階では全国で新政府への反抗を示す「政治犯」などが多数続出した。
以下Wikipedia「囚人道路」から状況の要旨をまとめた。
<政府が推進する改革に対する不満や意見相違から佐賀の乱(1874年)や
西南の役(1877年)などの内乱が相次ぎ、犯罪者も急増したことで
「国賊」とよばれた多くの人々が国事犯・政治犯として逮捕されていった。>
<度重なる戦乱で国民は困窮し犯罪者が後を絶たず囚人数は1885(明治18)年
過去最高の8万9千人まで膨れ上がった。>
という状況の中、北海道に「集治監(刑務所)」を集中配置してとくに苦役である
「道路開削工事」に当たらせるという策が実行された。

集治監は最初地として現・月形町に明治14年「樺戸集治監」が設置されたが、
図はその周辺から市来知(現三笠市)間の道路(峰延道路)の工事の様子。
その翌年には市来知にも集治監が置かれ旭川への道路開削もされているので、
集治監配置計画はまったくウラの目的そのままだったことが推察される。
まさに明治初期政権の武家出自の「開発独裁」政権たる側面が明瞭だと思う。
道路開削工事は雪融けを待って囚人たちを原始林に駆り出し、斧を振りかざして
大木を切り倒し、土砂や切り株をモッコに入れて担ぎ、夜にはカガリ火を焚き、
松明をかざしながらの重労働が展開された。
囚徒200人ほどを一団として4組に分け、3里から4里(約12–16km)を
1区画として受け持ち、15間幅(約30メートル)に立ち木を切り倒して、
3間幅(約6メートル)の道路を建設する工事が進められた。
図を見ると原始林で切り倒した丸太を敷き並べて
その上から土砂をかぶせて、突き固めるというような工程が想像できる。
囚人たちは2人1組で足を鎖で繋がれながらの作業だった。
「現在における滝川市〜美唄市間の国道12号は日本一長い直線道路(29.2km)
として知られるがこの区間の道路建設には樺戸集治監の囚徒たちが駆り出され、
3か月で完成させた。」とある。月に10km・1日300-400mになる計算。
「昼夜を問わずヌカカやブヨが襲い、オオカミやヒグマの恐怖と闘いながら、
充分な食料も与えられないままの劣悪な環境下作業のため病気やけが人が続出し、
正確には記録のない数の犠牲者を出し続けた。3里ごとに外役所を設けながら
200人を一団とする囚人たちによって、全てが人力による突貫工事が続けられた。」

いまの時代、人権として考えると怖ろしい「政策」だけれど、
今日の北海道の大地はこうした労役に多くを依って成立したことは紛れもない。
深くその労苦を思いながら、この事実から目を離すことはできないだろう。

【明治「国家戦略」決断〜北海道の炭坑開発】

北海道住宅始原期の旅シリーズです。が、本日はエネルギー安保論。
北海道開拓は明治初期国家建設の核心的なプロジェクト。
有色人種は自らの国家存続すら危ういという帝国主義全盛期に
日本の独立を守り、欧米列強国と伍していくための決断を数多く行った。
その方向性のなかで北海道開拓は焦眉であり、同時に
国家としての飛躍を賭けた「投資」でもあった。
そこからなにも得られなければ、その後の日本の近代化はありえなかった。
政治権力構造としては、近代工業化を背景に明確な植民地政策を
アジア各地において剥き出しの武力でもって貫徹してくる欧米列強。
そういうなかで日本は国家戦略意思の不明確な
江戸幕府・封建による固陋たる分権的体制を革命して
それまで武家政権期に京都御所で隠棲してきた天皇を東京に移転させ
近代君主制国家のシンボルとした「開発独裁」型権力体制を構築した。
それは剥き出しの国家戦略相互の暴力的戦いであった19世紀国際社会で
国を経済発展させながら独立して生き残っていくための
機動的な意思決定可能な権力構造として、自明の選択だったといえる。

近代国家で自存していくには近代工業エネルギー戦略を持たねばならない。
このことは今日までまったく不変の国際公理。
明治初年にあってはエネルギーは石炭が最高級の資源価値を持っていた。
明治で開国開港したときに真っ先に蒸気エンジンの船のために
石炭の供給を求められたことから日本国家社会はその重要度を知らされる。
エネルギー資源こそが国家戦略のカナメであり、
その利権争奪を巡って国際は熾烈な競争を戦っている現実を知る。
九州北部で一部採炭されていたとはいえ、それは自然発生的な
暖房需要のためであり産業活用ということは考えられていなかった。
江戸幕府政権期以来、北海道には石炭エネルギーが存在することは
断片的とはいえ、確実性の高い情報があったとされている。
この資源開発のために明治国家は「お雇い外国人」として
アメリカの地質学者ベンジャミン・スミス・ライマンを招聘し委嘱する。
ライマンは、1872(明治5)年から1881(明治14)年日本に滞在し調査を行った。
近代炭鉱開発のスタートとなったのは、1879(明治12)年開鉱の
官営幌内炭鉱(三笠市)。開鉱前の1875(明治8)年~1876(明治9)年に、
黒田清隆・伊藤博文・山県有朋ら政府要人が次々と幌内を訪れ、
また石炭運搬のための幌内鉄道(小樽市手宮~三笠市幌内)が
全国3番目の鉄道として1882(明治15)年に全線開通(その2年前1880年に
明治天皇の行幸もあって手宮~札幌間が部分開通)したことからわかるように、
幌内炭鉱の開発は最重点の国家プロジェクトだった。
明治国家が国防のためを最重視して開拓し投資した北海道から
最初の「珠玉」がもたらされたといってもいい。
たぶん奈良時代の奥州産金にも似た国家的な僥倖であったに違いない。
この「自前」のエネルギーによって明治国家の産業化の礎が確立した。
このエネルギー開発によって日露戦争までの日本が運命づけられたともいえる。

日本のこの時代の「国家戦略」の明確な保持、貫徹を見ていると
近代国家、現代国家はエネルギー安保を最優先するべきだと自ずとわかる。
欧米国家ではこのことには長い歴史もあって民衆レベルも含めて
血肉のようになっているけれど、日本は急速な「追いつき追い越せ」で
きたことで、民主主義のレベルで国家意志が貫徹できてはいない。
国家戦略と聞いただけで反対するような議論があったりする。
現代の日本政治と明治国家の意思決定システム・過程とを比べたとき、
現代に不足しているなにかが見えてくるような気がする。

<写真は無関係(笑)。自然「エネルギー」河川管理ではあるけれど>

【北海道民は「新・日本人」ブレンド実験室】

東京育ちの読者のNさんと【開拓の明治を生きた個人の生き様・万華鏡】
の投稿をめぐってコメントのやり取りをさせていただいた。
SNS時代というのは、こういう深掘り「対話」が比較的容易。
どんな内容だったかというと、開拓での先住の人々と日本社会の出会いで
融合と噛み合わない部分が生じたと思うのですが、
それに絡んで、伝統的ムラ社会が存在した日本のほかの地域と比べて
そういう「繋がり」からの断絶以降生成された「北海道民性」について
「共同体がどのように形成されたかは私には全く知識がありません。」
という感想をいただいた。 そうか、であります。

日本及び日本人を永く追究した作家の故・司馬遼太郎さんも
「北海道からどんな人間が出てくるのか深く興味がある」という言葉を遺した。
北海道にいる人間は、このことは自分たちの社会のことなので
客観的に対象把握することはたしかに難しいし、
他の地域の人からは、このように「想像を超える」部分もあるのでしょう。
これはやはりわたしたち北海道人が自ら省みて考察する以外ない。
けれどもこれは北海道と「日本社会」共同での結果でもあるので、
因果関係の探索には、相当の省察が必要なことは自明。
いまわたしが取り組んでいる「北海道住宅始原期の探究」もそのなかの
「住」という大きな一部を構成もしているかも知れない。
たぶん北海道が日本社会のなかで占めている現在の位置・結果から
その成果物を通して考察することが「北海道らしさ」探究には必須。
住でいえば日本的な通風優先的住宅伝統にはきれいさっぱりとお別れして
まずはしっかりと外気と遮断された空間を確保した。
その手法を開発しその環境に慣れ室内気候をコントロール出来てから、
外界とのあらたな感受性を考えはじめていると思う。
っていうか、まだまだ人口密度がまばらなので、
そうやって獲得された「制御された空間」から視線としての外界を見ても
まだまだ自然は豊かに存在し続けているということ。
「朝日とともに目覚める」
「豊穣に落ちてゆく夕陽をゆったり眺めて暮らす」
みたいな暮らし方がまったく自然に獲得できる状況がある。
札幌のように都市化が進んでいる地域でも、まだ自然は力強く潜んでいる。

そういう自分が関わっている領域での足下をしっかり確認しながら、
「北海道人」という共通風土性、人間類型としての特徴もまた、
明瞭に浮かび上がってきている部分はあると思う。
「こだわりのなさ」というのも、ひとつの特徴であるかも知れない。
150年ほどの時間積層なのに、コトバも方言が育ってもいる。
またそれこそ日本各地からの「地方性のブレンド」であることは明らかで、
その意味では東京と同一の組成ではある。
日本の他の地方のなかでいちばん近いのはどうも東京ではないかと思う。
東京のブレンド組成を密集型ではなく超・分散型に配置するとこうなるみたいな。
また北海道の中でも色合いにはグラデーションがある。・・・
そんな気付きを持って少しずつ探究してみたい。

<写真は日本最初の自然公園・札幌「偕楽園」。造園された木でない自然林>

【本年初「社長食堂」 かに+ラム+たこ「しゃぶ」祭】

今週は仙台からスタッフも合流して年頭の全社会議・研修。
3日間の締めくくりには「社長食堂」であります。
前回の「マグロまつり」時点で「かに食いたい!」の希望が寄せられた。
まぁカニ料理にもいろいろあるし、素材ばっかりに目が行ってしまうのも
「社長食堂」の目指す「手づくり感」からは趣旨がややズレる(笑)。
創意と工夫でチャレンジする手づくりがいちばん楽しいのであります。

ということで到達したメニューは「かに+ラム+たこ「しゃぶ」祭り」企画。
ちょうど東北からスタッフも社長食堂初参加で合流するし、
北海道らしいメニューということで、あれもこれもとなった次第。
とはいえ基本はかにしゃぶがメインであります。
かにしゃぶはわたし個人的にいちばん好きなカニの食べ方。
毛ガニやタラバかにもいいけれど、どうしても素材任せになってしまう。
かにしゃぶならば素材の旨みと最後のシメの「雑炊」まで
楽しくコース食を構成できる。
そのうえ「しゃぶ」なので、ケンカしない「タコ」とは味の同居もできる。
たぶん東北スタッフはタコシャブ、食べたことがない。
で、いっぺんに20人で楽しむ食事で鍋は4コ用意するので
1つは「ラムシャブ」にして見た次第。
北海道はジンギスカンもいいのですが、ラムシャブのうま味も抜群。
で、カニは6kg、ラムは3kg、タコは大足で2本を用意。
かにしゃぶは「ポーション」という持ち手に殻の付いたむき身タイプ。
タコといっしょに例の札幌中央市場の魚屋さんで仕入れ、
おとなりの地元の有名肉店「大金畜産」にてラムも事前に購入。
きのうは朝3時半から解凍〜調理に取りかかりました。
まずは出汁は昆布たっぷり+カツオ節でたっぷり4鍋分以上。
白菜は大玉1コ、豆腐は木綿豆腐6コ、ネギ12-3本、シラタキたっぷり適量。
エノキは7袋を丹念にジミジミとバラし作業(泣)。
ご飯は雑炊用に3合半炊きましたが、ラムシャブはめっちゃご飯を食べたくなるので
別途に5合炊きも、開始早々に消え去っておりました(笑)。
しゃぶしゃぶ用の薄手の「おもち」も適量用意。
大根おろしはしゃぶ料理には欠かせないので大1本を完全すりおろし。
その薬味も「紅葉下ろし」ほか各種用意し、調味のぽん酢も
贈答でいただくヤツなど多数、お好みで十種類くらい用意。
鍋はスタッフに協力してもらってコンロを含めて4コ用意。
・・・っていうような「段取り仕事」がしゃぶしゃぶ料理であります。
あとは、お好み次第で談論風発しながら食べまくりモード全開(笑)。

スタッフに聞いたら、東北の2人を含め
この全しゃぶ料理が「初体験」というスタッフも多数いました。
とくに「タコしゃぶ」「ラムしゃぶ」は北海道の新名物なのかも。
どっちも「なんぼでも食べられる」(笑)とのこと。
・・・ということで今年も「社長食堂」ひきつづき頑張ります。
食べられないのに取引先から話題で聞かれることも多くなってきたとのこと。
そういう意味ではわが社の「売り物」になっているかも知れません(笑)。
いよいよ腕によりを掛け取り組んでいきたいと思います(キッパリ)。