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【東京マイタウン渋谷で迷子になった(笑)】

関東出張中もブログについては「北海道住宅・・・」を続けようと
考えていたのですが、やはり体力的に持たず思考時間を確保できない(泣)
ということでやむなく「出張時ブログ」にします。
でも、時間が確保できたらまた復帰します。

で、昨日は久しぶりに渋谷の街である企業を訪問。
年に数回は東京には来るけれど渋谷での企業訪問はしばらくなかった。
しかしわたしは大学時代のホームタウンであり渋谷の体内方向感覚はある。
駅の構成とか、基本になる建物などの記憶は持っているので、
まぁだいたい大丈夫と思ってアポしたのです。
クルマで移動していたので、なるべく駅直近のパーキングにと駐車させて
あとは「ハチ公くらいは残っているんでしょう(笑)」ということで、
そこで落ち合うことにしていた。
渋谷でハチ公というと、それだけでネタみたいなものですよね。
ところが、いざ歩いて渋谷駅周辺を巡り始めて
どんどん体内磁石が喪失していく感覚に包まれる(笑)。
「え、いったいここはどこなんだ?」
まぁわたしに残るの渋谷の街空間記憶の「かけら」が発見できない。
建物と空間、通路の配置などがまったくかけらもない。
やむなく「あの、ハチ公どこ?」とやさしそうなお姉さんに声かけ。
「地方から来た無害そうなおじさん」ということで笑いながら教えてくれる。
まぁなんとかたどりついてすっかり萎縮したハチ公前で会うことができた。
「おお、元気だったか」

ハチ公前広場もいたるところテント囲い状態で迷路になっている。
わたしとしてはグランドレベルでの移動に最適化された体内磁石なのですが、
そもそも1階グランドレベルと地階レベル、さらに2階レベルで
街自体の基本アクセス導線ラインが新たに形成中のようです。
たくさんの高層ビルが駅の敷地に接合して再開発されているので、
いまや渋谷は過去とは無関係な、あらたなガラス街区に変貌してしまった。
人間の体内方向磁石はこれまでのコンクリートから鉄とガラスに
主役が大きく変わっていくのかも知れない。
オフィス環境もまったくガラス主体の建築であって、まるでスケスケ。
おいおい夏の日射はどう対応するんだと心配させられる。
凶暴に冷房コントロールするしかないけれど、
そうすると電気エネルギー消費はいったいどうなるんだ、と。
いわゆる建築の概念が消されているような空間性だとも思いました。
コンクリート主体であればまだ構造的「とっかかり」があるけれど、
ガラスには「思い入れ」を受け止める「素材感」がまったくない。

駅を一歩離れれば、主要道路周辺には旧渋谷の街の空間残滓もある。
そういえば、きょうも渋谷で面会予定があるのですが、
この空間環境に慣れるしかないのでしょうね。
ここまでの駅市街の大変化はたぶんニッポン初かも知れませんね。
しかし街という概念とはなんなのかと、不思議な気持ちにもさせられる。
そういえばビルの中で「あれがGoogle日本支社ですよ」というコトバ。
ランドマークはそういうものに変わっていくのかも・・・。
あ、誌面が尽きてGDPまで進まなかった(笑)。今度また。

【北海道は東海道と同時期に鉄道開設】


さて「北海道住宅始原期への旅」シリーズですが、
写真はなぜか神奈川県横浜市「鶴見」駅の明治はじめと最近の
駅写真であります。
北大の「北方資料データベース」にはなぜかこういう写真もある。
開拓使という歴史上10数年間だけ存在した「中央官庁」は
札幌に本庁を置きながら同時に中央省庁として東京にも本部機能があった。
企業で言えばダブル本社制みたいなものでしょう。
長官である黒田清隆は中央政府要人として東京に在住している必要があり
また開拓使の政治力の源泉はかれの存在であったのですから
いわば必然的なスタイルだったのだと思われます。
それで指揮命令系統に齟齬が生じることもあったワケですが、
そもそもがそういった組織形態であったことの表現だった。
たぶんこういった関係からこの写真は北大に格納されたのではないか。
駅の建築について、そのイメージを現物の駅舎で確認させるみたいな。
東海道線の「標準的」な駅舎としてたまたま当時の鶴見駅の規模が
ひとつの「尺度」として採用された可能性がある。
150年の時間の推移で鶴見の駅舎は大変貌を遂げているけれど
北海道の地方の駅舎ではまだ、この明治初年の鶴見駅舎と
そう変わらない景観のものも決して少なくはないだろう。
そもそも北海道の鉄道敷設は東海道、関西圏に続いて3番目。
いかに開拓が至上命題とされたとは言っても、
人口規模で考えれば地域に投資する順序はあきらかに経済効率計算ではなかった。
しかし早い段階での交通手段の導入は「観光」という事業領域を生んだかも。
最初の北海道の鉄道が明治天皇の「お召し列車」であった事実は
一種の地域としての「エキゾチズム」を生成させるきっかけにはなった。

このことは、北海道の地域としての性格付けにも影響した。
基本的な部分で深く東京との関係が強まったということ。
よく北海道の「となりの県」は青森ではなく東京だと言われる。
主に国家的公共事業による開発独裁的な発展の仕方をしたので
そのような地域色がついたのだといえる。
まぁそういう意味では「東京の植民地」と悪くとらえられもするけれど、
北海道としては前向きに、ニッポン人感性的な「資産」とも思われます。

さてわたしも東京関東との往復が人生長かったので
東京での出張時の滞在先も好みがずっと推移してきた。
はじめの頃は便利な繁華街中心だったけれど、徐々に気分が変化して
なぜかいまは「鶴見」がお気に入りになっている。
都心との距離感、適度なローカル性ということと、
總持寺があって、毎朝たのしい「朝勤」を参観できることが魅力(笑)。
宗派は違うのですが、その修行の様子がなんとも刺激されるのですね。
そんなところにこの写真と出会って、勝手に盛り上がっている次第。

【本日関東出張 大雪に大当たり(泣)】

ことしは暖冬というブログを書いておりましたが、
どうやらバチが当たったようで、ちょうど関東出張の初日に大雪遭遇。
っていうか、いまは午前5時半くらいの段階なので
この「大雪予想」を踏まえて行動予定の大幅練り直し真っ最中。
広域移動で、複数人での行動なのでレンタカーを予定していたのですが、
わたしはなんとか運転出来るとしても、回りのクルマたちがどうなるのかは
ほぼ未体験ゾーンに突入する。
以前、急な降雪で「東北道」郡山から仙台まで5−6時間という悪夢もあった。
急な降雪には南東北・関東のクルマはほぼマヒしてしまう。
そのうえレンタカーではスタッドレスタイヤは見果てぬ夢でしょう。
ここは潔く行動予定をすっぱり変更して基本的には電車利用に大変更。
しかしそれはそれで各所に連絡などをしなければならない。
まだ未明時点での変更なので、十分に連絡が機能するかどうか不安。

東京でも年に1−2回はこういう降雪がある。
東京に住んでいた7−8年間でも経験があります。
北海道出身者としては「東京でも雪が降るんだ」という気分になって
それなりに雪景色を楽しんでいたりする。
しかし仕事での移動手段とか、その脆弱性にも驚かされる。
温暖地大都市というのは、そうした年に1−2回のことのために
インフラ整備をするというのはどう考えても割が合わない。
あくまでも「特殊な」出来事として緊急避難的な対応にならざるを得ない。
集団として同一体験を共有することである種、イベント的な
非日常性として「受忍」することが習慣化していると思う。
たまたまそういう日にぶつかった日頃の罰当たりぶりを反省しながら
その特殊性に対応していろいろ「取材」させていただこうかと考えております。
まぁヨミとしては電車などは影響は少ないだろうと考えていますが
さてどうなるか、暗中模索であります。・・・

【明治4年開拓期 札幌建設材木群の素性は?】


さてすっかり幕末の飛騨高山からの木材出荷、
「官材川下之図」に導かれて日本の建設業の歴史、建築素材の流れを
探究してきましたが、たいへん有意義な気付きになったと思います。
で、「北海道住宅始原期」への復帰に当たって最初に目にしたのが
この写真であります。
どこまでも「材木」の方に目が向いてしまうのは習慣の成せる技か(笑)。
しかし遠景に見えている札幌のランドマーク・藻岩山がうれしい。
こころなしか「お帰り」と言ってくれているようであります。

北大「北方資料データベース」での収納タイトルは
「札幌本陣ヨリ南山ヲ望ム」となっておりまして、
たぶん現在の札幌市中央区南1条東1丁目付近から南西方向を見た様子。
そうすると写真手前側は創成川畔という位置関係になりますが、
大量に材木が留置されている様子であります。
最初期の札幌都市建設ではそんなに大量の建設がされたわけではないけれど、
それでも数十人規模の「職方」が動員されていたことを考えれば、
その原材料は絶対に不可欠であり、供給される必要がある。
職方にはそんなに多くの木こり職人さんがいたという記録もないし、
原始林とはいえ札幌周辺原野から伐りだした材だけに依存したとも思えない。
それに創成川周辺に留置されていることから考えて
舟運でこの地まで運搬されてきたことが見て取れる。
こういう場合、江戸などの大消費地では「木場」という木材貯蔵プールが
設営されることが思い浮かぶけれど、札幌ではそういう場所は
どうも記憶には乏しい。
この地までの運搬ルート自体は水郷的だった石狩川周辺の茨戸あたりから
この「創成川運河」を伝って運ばれてきたものでしょう。
あるいは、近辺には「豊平川」も流れていて創成川と連結していたから
豊平川や茨戸水郷が「木場」の役割を果たしていたか。であれば写真に見るような
材木群はすぐに建築現場に運ぶための「一時置き場」であったのかも知れない。
しかし今度は、こうした材はどこから運ばれてきたかの問題。
初期の札幌都市建設では岩手県の山から出荷した材が秋田県能代に集結され
そこから北前船で運び込まれたと言われる。
材の現地調達が原則ということからするとやや異例。
しかしまぁ、開拓初源期にはやむを得なかったか?
さらに想像するとそういう材の出荷発注を最初の開拓判官・島義勇が
上司に無断で「契約」してしまって開拓使財政に齟齬が生じた?
あるいは「経費が掛かりすぎる」と処断された島義勇の進退にも関連するのか?
1枚の写真からもいろいろな疑問が沸き立ってきます。
とくにほんの少し前の時代の幕末期の木材生産流通を研究してくると
余計に類推が働いてきます。さてまた「北海道住宅始原期」研究頑張ります。

【貨幣社会と自給自足社会 流通交易のバランス】


絵図は幕政期の北海道でのアイヌの石狩川での丸木舟交通。
きのうまで飛騨からの材木伐りだしの絵図世界に籠もっておりましたが、
ようやく北海道に復帰いたしました(笑)。
なんですが、江戸期での都市江戸・大坂の「市場経済・貨幣経済」進展と
地方での「自給自足・村落共同体社会」との並立状況に気付いた。
公的な社会運営として貨幣ではなく米穀が基本だった社会。
しかし時代の趨勢としては貨幣経済に大きく変換していくあつれき。
そういうものに気付かされた次第であります。
そして今日われわれが生きている社会も、貨幣経済が完全浸透した社会であり、
さらにはその貨幣もひょっとして変化していく可能性がある歴史時点。
ひるがえって、北海道島でもアイヌ社会と日本社会は「交易」で
ながく結びついていたとされる。なによりアイヌは交易民であった。
また北海道島南部に盤踞した松前藩も、この「交易」に依存した存在。
時折、北海道島内の遺跡から大きな壷が発見されることがあり、
そのなかに貯蔵されていた大量の「貨幣」が発見されることがある。

江戸のような消費経済都市では、都市民自らは食料生産に
ほとんど関与せず、必要な食料はすべて貨幣と交換して得ていた。
幕府体制下ではこういった価値観の差異は、権力側の調整で
なんとか秩序維持できていただろうけれど、
ほぼ未開であった蝦夷地では、ほとんど機能していなかっただろう。
交易とは基本的に物々交換だっただろう。
貨幣を対価としてもらっても、後生大事に床下の穴に貯蔵するくらいしかなかった。
物々交換にしても、交換価値の妥当性には難点が多かっただろう。
サハリンでも原住民と中国社会とが交易してきたけれど、
徐々に原住民社会が「借金漬け」にされていった、という記録があった。
国家が成立して流通を担保する貨幣を機能させていた社会と
民族形成としても微妙な社会との間では共通価値観は形成し得なかった。
価値の等価性の確保というのは、そこにビジネス的思惑も持ち込まれれば、
非常に難しいテーマになるのでしょうね。
先日、飛騨の山から木を切り出す1村の年間収入が1000万円相当だったと
書きましたが、同じ時期に江戸では「歌舞伎役者」トップスターは
年収1億を超えていたということなのですね。
そもそもこういうことを考えれば、価値の等価性などというのは
ハナから成立するわけがないと思い至る。
市場経済がやがてこうした不均衡を是正するのだとされてきたけれど、
それもまた、見果てぬ夢のように思われる。

まぁビジネスというのは、多かれ少なかれ、
こういう価値の不均衡の間で、利益を目指す行為と言えるのでしょうね。
モノの流通、歴史経緯を見ていていろいろ気付かされる次第です。

【飛騨から川下り「官材」江戸・大坂市場へ 】



どっぷりハマっていた「官材川下之図」でありますが、
飛騨の幕領の山から切り出された材木は河川流通を経て尾張熱田の
「白鳥湊」に集結され、そこから江戸へ大坂への経済大動脈・回船へ。
この絵巻の北大DBでは「官材」という意味合いが
「伊勢神宮への奉納」というような説明がされているのですが、
どうもこの絵巻を詳細にチェックして見ると「官材」というのは、
幕府が直接管理している材木、というような意味合いに近いのではないか。
文字通り、官が下げくだす「材木」という意味での「官材」。
上の絵は上下巻の下巻の最後の方にあるのですが、
本来の「伊勢神宮への奉納」図絵は上巻の末尾に挿入されています。
伊勢への奉納がメインであれば荷揚げされて奉納されるシーンが
もっと描かれてもいいハズ。そういう絵図は見られないので、
伊勢神宮云々は、そういうルート目的もありましたよ、
っていうような扱いだったように思われる次第。
ちなみに次の絵図が、「伊勢神宮への奉納」とされるシーン。
「神事」として芝居がかって演出されている様子がわかる。

幕府が直轄管理する材木産出地・飛騨材はこの尾張白鳥湊から、
全国に回船輸送された。沖に停泊した大型船に小型船から荷積みされている。
江戸期は平和が達成されたことと、各地の「封建領主」たちの
経済的生き残りを懸けた地場産品の開発努力が盛んであり、
そうした産品が活発に交易されていた。日本の豊かな「地方性」は
アジア国家の中で唯一のこの「封建」の根付きが大きいと言われる。
この江戸時代がなければ、今日に至る地方経済基盤はなかったのではないか。
北海道は「北前船交易」でいまにも続く「北海道の味覚」昆布やサケなどや
さらに豊富に獲れるニシンが魚肥として綿花栽培の必需品になった。
しかしそういった北海の産品はそれまでの国内交易の中では
「ニュースター」だったに違いなく、基盤的な交易産品は
やはりこの「飛騨や木曽」の材木などが主力だったのだろう。
北前船でも「千石船」が就航していたけれど、この白鳥湊出入りの船も
千四百石積載船という説明書きが見られる。
「衣食住」という人間社会の基本需要に対して住の最大原材料は
このように市場投入されていた実態なのでしょう。
こうしたいわば市場経済での原材料流通は、江戸大坂といった
「消費都市」への原材料供給であって、それ以外の地域では基本的には
「自給自足」的な体制が取られていたのが江戸時代だったのでしょう。
制度としての封建と市場経済化とが機能していたということ。
この絵図のようにして運送された材木が、伝説の紀伊国屋文左衛門のような
材木商を江戸で「豪商」として成立させていったのでしょう。
さらに探究を進めると木材の流通、末端での木造建築に興味は向かう。

【江戸期飛騨「材木伐り出し」村落収入 年間1000万円?】



北海道住宅始原の旅・スピンアウト版で江戸末期の林業構造の探究。
「官材川下之図」を見て研究していますが、すばらしい論文を発見。
茨木市立文化財資料館学芸員の高橋伸拓氏の研究論文
「飛騨幕領における御用木の運材と川下稼」を発見することが出来た。
江戸期の「村落共同体」経済構造の一端が明確に見えるすばらしい労作。
論文自体は「川下稼〜かわさげかせぎ」の「運材」経済研究が主体ですが、
その前段で「元伐(木材の伐り出し)」について具体的な金額記載があった。
幕領・飛騨は高山の奉行所支配であり山の所有権はもちろん「幕府」の公的資産。
その木を伐り出す作業は、周辺村落共同体が労役主体になる
「お救い」事業として作業料を交付する。その取り決め公文書が残されている。
公共事業でかなり村落共同体に対して撫民的対応で民への配慮が伝わってくる。
また1853年の京都御所焼失・再建という幕末政局を揺るがした歴史的事実も
飛騨からの木材で対応した痕跡。なぜ飛騨が幕領とされたかの理由も垣間見える。
天下の公共事業の貴重な資源が、特定藩の私権専横で左右されることは
公儀幕政全般にとって危険姓が高かったということでしょう。
江戸幕府時代というのは別に強権的な武力弾圧政治とはいえない。
しかも公儀権力として、山の資源管理にも十分配慮されていて、
乱獲で資源が荒廃してハゲ山にならないように「お休み」も定めている。
下の絵のように資源復元には細心の留意がされていた。
大断面の木を伐採すれば、その復元利用までには数十年の時間がかかる。

で、年間を通して元伐作業にあたる村落共同体はおむむね25ヶ村。
<上の2番目の図は村落の地図表記といまのGoogleMapの対比。>
それに対しての総事業支出は2,000両と書かれている。
この研究ではこの金額についての現代貨幣換算はされていないけれど、
お金の比較研究は強い興味を覚える(笑)ので日経と野村総研のHPなど参照。
その結果、江戸時代の物価を総合的に計算するとざっくり3億円弱という数字。
余談で、よく「千両役者」というコトバがあるけれど、
あれは実質も持っていたそうで、歌舞伎のトップスター役者はそれくらい
収入を得ていたのだと言う。今で言えば芸能人や野球選手か。
その意味では貨幣経済が浸透した地域とそうでない地域の落差が大きかった。
なんでも貨幣換算される消費都市経済と非貨幣経済地域・地方村落の格差。
まぁしかし現金収入に乏しい山村にとって、この収入は貴重だった。
村落共同体という経済単位も、江戸期までの社会の基本であって
その内部では自治が保たれ、秩序が整っていたといえる。
むしろ社会主義的生存共同体であって、個人というよりも
その共同体に深く根ざして生きてきたのがニッポン人なのだと気付く。
ムラ全体としての共助精神が支配的で「私有」概念は薄かったかも知れない。
私的所有欲よりも「村八分」の方が怖ろしかった社会。
で、山林からの木材伐りだしの1村あたりの収入は25で割ると1200万円相当。
ムラによってもバラツキはあったでしょうから丸めると1000万円くらいかなぁと。
そういう現金収入でムラ共同の経費に充てたと考えられる。
村祭りの費用だとか、水利維持の土木経費とか。
あるいは流通経済社会でしか入手できない物品の購入資金になったのでしょう。
村落共同体の経営中枢・庄屋層は生き残りを懸けた自治を生きていた。
幕府権力はそういう村落と対話しながら時代を運営していた。

まさに日本史と経済、ひとびとの生き様が生々しく伝わってきます。
歴史記録が残っている「内地」ではこういう探究も可能なことに羨望を憶える。

【木材運送が生む日本の伝統体技〜角乗り】

ことしはオリンピックの年ですが、
こんな競技があったらいいな・日本の最有望種目発見「角乗り」です(笑)。

図はここのところ頻出の「官材川下之図」のもの。
幕領である飛騨国の主要産業であった林業の様子を伝える絵巻。
日本の建築業が歴史年代継続してきたその初源から、
その最大原材料である木材の生産流通システムが継続してきたのは自明。
奈良の都造営のとき日本で初めて本格的都市が建設されたけれど、
その最初期から「飛騨の匠」という地域へのリスペクトが払われてきた。
飛騨とか紀州とかの日本における林業地域からどのように材木が出荷されたかは
住宅建築にとってきわめて枢要な位置を占めている。
江戸期にいたって大都市江戸や京大坂での経済発展があり、さらに
定期的とも思える「大火」によって木材需要は旺盛であり続けた。
そういったことから原料供給地域・飛騨国は幕府が直轄し続けてきた。
その流通は太平洋側と日本海側の2方向に向けられたけれど、
この絵図は太平洋側への出荷プロセスを描いている。
物流は基本的に一気通貫で河川〜海という水上交通で行われた。
この運送業務は高山陣所から発注され特定の事業者が「請け負って」いた。
その運送業者は、複雑な地形の飛騨国内から木曽川水系をたどって
難所では修羅などの工作も作り上げて「川下」事業を行った。
こうした運送事業は江戸期における記録では周辺の村落共同体の
「生業」として、下請けされていたとされている。
そのプロセスでは各所で一定寸法の部材「角材」に乗り上がって
川の流れを利用しながら材木をコントロールする作業も発生した。
そうすると、この図のような作業、体技の有能者が人材活用された。
それら村落に似合う者がいなければ、運送業者が人材をスカウトしていたという。
こうした運送作業は農閑期の秋収穫後に行われていた。

高山の代官所から派遣された代官たちは、出荷した材木の集積箇所などで
「検見」をしていたとされるけれど、
そのときに同行させた絵師たちに記録させたのがこの絵巻ではないかと。
農業経済システムとは違う林業、運送業の構造を幕閣上司に理解させるために
こうした絵巻を上梓したという推測ですね。
代官による視察に際し「余興」として職人たちの体技が披露されたか・・・。
角乗り自体は江戸などの大消費地周辺に「木場」という地名が残るように
水運の終着点地域でも材木管理の手法として認知されているけれど、
上流地域でもこのようにエキスパート人材がたくさんいたのでしょう。
今日であれば、バランス体技競技種目のエースになれる(笑)。
そういえば日本は体操がけっこう「お家芸」有望種目ですが、
ひるがえってみると、ご先祖さまたちが先端的に体技技術を開発した?

【さっぽろは雪まつり前に昨年並み積雪】

ことしの札幌は異常な「暖冬」が続いておりました。
1月に入ってもさっぱり降雪がなく、気温が高く好天ということで、
東北を通り越して、すっかり関東、埼玉あたりの気候感だった。
札幌はよく「日本海側気候」と言われるけれど、津軽や秋田とは違って
冬場の抜けるような晴天率もそこそこあって、その状態で暖冬になると、
これは「体感」ですが感覚的には関東に近く感じるものだと思われます。
空っ風がない分、もっと過ごしやすいかもしれない。
が、ようやくこの数日まとまった降雪で冬景色が整って参りました。
街をクルマで走っていると雪まつり前、世界各地からの観光客が目に付く。
ビックリするほどアジア圏各国からのお客さんが目に付きます。
とくにイスラム圏からの団体というのはこれまであんまり目にしなかった。
頭巾をまとった女性たちが多くみられます。ありがたいことですね。
かの地域でも経済発展が進んで観光需要が膨らんでいるのか。
冬の日本、北海道札幌に来てくれるのは同胞アジア人としてウレシイ。
しかしせっかく世界中から雪まつりに来てくれるのに、
肝心の雪がないのではまことに申し訳ない。
まぁこんな事では済まないだろうとは思っていたところ、
ようやくの雪化粧といったところですね。よかった。
雪が降ってよかったと思うのもあんまり経験のない感覚です。

図は札幌管区気象台が発表しているデータ。
ここ2−3日で赤い線が急上昇しています。クローズアップさせ拡大表示。
昨年も暖冬少雪傾向だったのですが、それに輪を掛けた状況だった。
おかげさまで久しぶりの本格的「雪かき」作業に精を出す。
北国人としてはやはりこの作業がないと気分がシャキッとしない。
昨日は1日2回させてもらいましたが、
雪が降って、それを片付けてキレイに街並みを保とうとする、
ご近所さんたちとの共同作業ですが、それが
問わず語りの隣人間対話になってもいます。
街並みについて公共の「諮問会議」などで論議することがありますが、
北海道ではこういう「公共心」こそが街並みの実質ではないか。
お互いが住んでいる場所について前面公共道路まで
その通行が円滑なように心がけることって、
街をよくしていく基本の心構えなのだろうと気付きます。
そういう家庭ごとの街なみへの労働奉仕の意味合いが自覚される。

それはまた当然に「家への愛着」を育てることにもなる。
北国で住宅を考える基本の部分に関わっていると思います。
本日はしばらくぶりに追求テーマ「北海道住宅始原期への探究」と
スピンアウト版日本の江戸期までの伝統的森林業研究はお休み。
また明日以降、雪を見ながら(笑)頑張りますので、ご愛読のほどを。

【江戸期林業運送4 「官材川下」の山水水運】


すっかりこの江戸末期に残された絵巻物に惹かれております。
この「官材川下之図」は北大データベースで発見したのですが、
どういう経緯で北大に資料として格納されているのかはよくわかりません。
巻物として入手されたものなので多数印刷されていたとは思われないのですが、
江戸時代までの「出版産業」としては巻物の需要は多かったと思われる。
紙を綴じて本の形式にするよりも、巻物の方が「縦書き・右から左へ」という
日本語の表現文化には最適化されていたように思う。
北大の「北方資料データベース」では「官材川下之図」という題名になっているが、
調べていると、ほぼ同内容の巻物が複数存在している。
江戸で、というか江戸だけで存在した「出版」業内部でこういった
「画像の流用」が行われたのか、このあたりも今回の探究で浮かび上がってきている。
1点ものだけで制作されたとも思われない。出版の本質である「拡散機能」で
複数制作されて、情報拡散が計られたことは疑いがない。
・・・おっと、横道にそれるので、本題に復帰。

本日のテーマは木材の山からの出荷「山水水運」の流れ。
飛騨の山から幕府・高山奉行所が事業主体となって
材木の伐採・出荷作業を公共事業として運営した。その「運材」の様子。
一定寸法に「製材」された材木がどのようなプロセスを経ていたのか、です。

急峻な山地から切り出された材木はいろいろな方法で「運び出される」
ここでは慎重に「吊り下げられ」ている。

それらを斜面に沿って「降ろしていく」木道が山中で構築される。

こちらは木道の反転切り返し部分。

地形に沿って一部では「修羅」という装置も造作される。
森林の伐採地から木材を搬出するための大型スライダー、滑り台。


こちらは「樋」という工程図ですが、どうもやむを得ず材木を上方移動させる工夫か。
一時的に荷揚げされた集積ぶりがすごい。


切所狩下之図。起伏の激しい日本の山岳ではこういう滝のような「切所」が発生する。

これはもっと急峻な地形での積み下ろし作業の図のようです。

留綱張渡之図。だんだん川の流量が多い平地に差し掛かってきた箇所。
河川に流して運送した材木が魚群のように「網」で掬われている。

「登械之図」という題名の工程。岩場のあるあたりで材木を「組み上げる」のか。

こういった道中を経て「白鳥湊」という尾張熱田付近の集積湊に到着する。

一気に画像を時系列とおぼしき順にならべて掲載してみました。
それぞれには、ツッコミどころも満載ではありますが(笑)。
この運送プロセスを見ると昨日記載の件、丈六〜約5m単位が材の長さとして
整えられていると思える。「文六」という図への題名付けは間違いでは・・・。
とりあえず、本日は一気通貫で江戸期の材木の運送プロセスでした。
先人たちのすばらしい仕事ぶりを深く思い知らされる・・・。