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【明治初年和洋折衷住宅「和/洋」の結界デザイン】


写真上下は、北海道開拓期の和洋折衷形式の代表的建築
永山武四郎邸と清華亭の写真です。
どちらも、その「和洋折衷」の結界、和室側から洋室を見たところ。
接続する部屋間の仕切りに重厚なモールディングが施されています。

永山邸は北海道屯田兵軍事組織と政治家としても北海道のトップの邸宅であり
清華亭は行幸された明治天皇のために造作された貴賓接遇施設。
いわば権威付けが意図されたような建築であって
そのような建築意図を表現する意匠であるのですが、
しかし、和室には本来このようなモールディング意匠というのは存在しない。
あえていえば欄間の装飾がそれに当たるでしょうが、
柱などの構造木材は素地のままというのが日本的定型。
明治になっての住空間デザインとしての「和洋折衷」のなかで、
その接点、和と洋との境界部分をどのように意匠処理すべきか、
悩んだ結果、このような「洋式」モールディングで仕切るという選択に至った。
少なくとも貴賓建築においては、この時代の設計者の心理の中で、
和洋折衷の結界部分について「どう調和」させるかという意識が存在したのでしょう。
それまでの日本建築では和室と隣室の仕切りは、「襖・障子」建具が使われていた。
同じように、タタミの室内と縁側という開口部が和室空間を包んでいたのですね。
しかし明治開国以降、洋室が徐々に日本人の住空間に入ってきて、
和洋の「結界」表現という新たな空間デザインが迫られたのでしょう。
ここで和室同士のように襖という選択もあり得たのでしょうが、
その場合には洋室の1面への影響が大きすぎると感じたことは容易に想像される。
和室のインテリアの方が、洋室よりもはるかに「柔軟性」が高くて
洋室に襖が取り付くよりも、和室にモールディングが取り付く方が
納まりとして、より自然と感じられた状況を伝えてくれる。
ハレの洋室に対して、ケの和室の方が柔軟に譲ったというところなのでしょうか?

一方で、このような和洋折衷形式でも玄関は靴脱ぎ習慣が厳然と残っている。
洋室とは言え、明治のこの導入時期から素足が採用されている。
やはり「結界」意識での玄関は日本人にとっては決定的な「仕分け」なのですね。
このような和洋折衷初源期を経て現代の住宅、とくに北海道では和室が
ほとんど住宅から消滅しつつあるのも現実。
今後は、この和室と洋室の北海道での比率割合推移なども面白い研究領域かも。
和風住宅と洋風住宅の異質な住文化がどのように「調和」していったのか?
このふたつの明治初年建築ではいわば常態では和室の方が優越的であって、
洋室は特別の存在と認識されているけれど、いつそれが意識において逆転したのか。
住空間の時代推移、なかなか奥が深いですね。

【リアルとWEB、そのコミュニケーション乖離】

やむを得ない状況から、WEBを利用しての「会合」が盛んになっている。
社内での連絡とか、お互いをよく知り合っているメンバーでの会合などでは、
それがWEBに移行しても、それほどの「距離感」は感じられない。
しかし、初対面に近い人間同士の「会合」においては、
ずっと「緊張状態」が融けない場合が多い。
結局は多数参加の場合、一方通行的な「授業形式」セミナーが多くなってしまう。

普段からの日常的な「コミュニケーション」で、性格などの詳細を把握していると
その「ベース認識」があるので、多少面接ツールに変更があっても、
なんとか「乗り越えられる」ことが証明されつつある。
お互いにそういった「基礎的コミュニケーション」があれば、
「ツッコミ」も入れやすくて、すぐに「座が馴染む」瞬間を創出することができる。
そういった「呼吸」感が、実は非常に大切な要素を締めているのだとわかる。
いわば「ホンネと建前」みたいなもので、
「ここだけの話だけれど・・・」みたいな部分が、一気に「座を盛り上げる」。
公式的というか建前的な話というのは、本当は「会合」の中核的意味ではなく、
その話題を巡っての、ホンネの部分を知りたいと考えて人は会合に参加する。
人間コミュニケーションの中核的な意味合いはそれではないか。
こういった基礎部分が形成されていない会合では、
「間違えちゃいけない」みたいなプレッシャーで固まってしまう部分が大きい。
即興性は許されず、いわば公式的情報発出の壁に閉じこもることが一般的。
しかし、そういう「WEBセミナー」はたぶんあっという間に意義がなくなる。
貴重な時間をそういうことに費やすのは耐えられないムダと認識されるだろう。
そういう公式的情報であるならば、「検索」すればすぐに入手できる。
人間が集まって情報交換しようという動機は、
そうした情報には「収まりきらない」部分の情報を得たいということが大きい。
「あの人、こんなことを言っているけれどホントはどうなの?」
っていう興味が強くて、そこを知りたいがために人は貴重な定点時間を
占有されることを受容して参加するのだと思う。

こういう情報交換の「あらたな環境」がはじめられてからまだ数ヶ月あまり。
初期段階を越えて、これから本格的にコミュニケーション環境の進化が
始まっていくように思われますね。
さて本日もリアルな会合が予定されています。徐々にではありますが、
ようやく再開されるような情勢になって来た。やっぱりリアルは楽しい(笑)。

【83年前の「テレワークボックス」電話室】


写真は、以前訪問したことのある旧小坂家住宅(きゅうこさかけじゅうたく)。
東京都世田谷区瀬田にある歴史的建造物。「瀬田四丁目広場」として公開されている。
棟札には「昭和12(1937)年10月2日上棟」とされる。
清水建設の前身の「清水組」の施工になる建築とされているけれど、
太平洋戦争の真珠湾奇襲が1941年12.8。同時代にこのような建築があった。
実業家・政治家の小坂順造(1881年ー1960年)の別邸として建てられた。
小坂は長野市の生まれで、信濃銀行取締役、信濃毎日新聞社取締役社長などを
歴任したほか、衆議院議員、貴族院議員を務めている。
そういった人物なので、国家の枢要の機密にも関わったりもしていたのだろうか?

過去取材の住宅写真を整理整頓していて、
なにげに「電話室」という空間の写真を収めていたものを再発見。
建物のなかでの配置としては、オモテと裏の境界的な廊下コーナーに位置し
使用人室にも近く、情報への感度が重視されて即応性の高い角位置。
いかにも電子媒体情報と、住宅の関わりを象徴しているような間取り。
電話という装置と住宅建築の「関係事例」として面白く思えた。
この「電話室」には入ってもみたけれど、
タタミ半畳分の「内法寸法」空間だけれど、やや大ぶりに感じられた。
たぶん1m四方以上くらいの感覚があったように思う。
こういう「空間記憶」というのは、けっこう持続するものだと思う。
そこそこの「充足感」のある広さであって、しかもガラス建具などで、
「そこはかとない」外部との応答性も確保されている。
今日的な住テーマである「テレワークスペース」に似つかわしいと直感。
もちろん完全な個室で収納なども充実していた方が、
「書斎」的な、情報ストックを大量に必要とする職種にはやや手狭かもしれないが、
家事とのアクセスという意味では、かえって新鮮な配置性格を感じる。

内部の棚などは「電話室」としての専用性がうかがわれ、
現代のノートPC、プラスアルファとしての配置収納には不都合も感じられるけれど、
人間居住サイズで考え、また他の「家事動線」との応答性も考え合わせると
過不足のない「ほどよさ」が強く感じられる。
とくにドア建具のすりガラス、上部の「すき間」、椅子背面のすりガラスなど、
採光と空気循環性では相当よく考えられていると思われる。
検討すべきなのは、壁面利用での「収納力強化」があるだろう。
そこに情報整理や人間生理対応のモノ収納が確保されれば、悪くない。
このような「テレワークボックス」という発想は、十分に現代に活かせるのではないか。
これくらいを「最小限機能空間」として基本設定して、
これを夫婦2人、プラスアルファとして住宅設計に「織り込んで」いく考え。
この程度のスペースであれば、現代住宅に応用させていくことは考えやすいし、
なによりも他のスペースと調和させやすいと想像できる。
まさに「立って半畳寝て一畳」に現代「働いて約半畳」空間のプラス。

まことに「温故知新」という思いが強くなっております(笑)。
「テレワークボックス」、どうでしょうか?

【ポスト安倍政権のニッポンへ】

本日はトピズレであります、住宅ネタはお休み。
ものごとにははじまりがあれば、必ず終わりもある。
さしも長かった「安倍政権」というものがついに終了することになった。
個人の健康問題からの結論なので外部からはなにも言えない。

ま、一般的な政治評論の類はヤマほど出てくるのでしょう。
先進国でドイツのメルケル政権に次いで長かった政権を持つ国から
ニッポンはこれから「離脱」していくことになる。
安倍政権支持不支持に関わらず、ニッポン国・国民はこのことに等しく遭遇する。
日本人的心性から考えて、政治的に追い詰められた結果でない政権交代の場合、
どのような「世論動向」になっていくのか、ということに強く興味が湧く。
このような「政権交代」でいちばん近しい事例は佐藤栄作退陣劇だろうか。
しかし、かの時代とは日本の国際的立場はまったく違っている。
一番に考えられるのは、次の為政者が背負うことになる国際関係「遺産」。
すでにして、国内対応だけからの「国際的外交方針」の変更は許されない。
日米基軸の同盟関係についてそれを逆走させるような「反米的」スタンスは
このキビシイ国際状況で選択肢としてありえない。
この局面で日本が現在の国際的位置を変更すれば世界の不信を呼び、
そのこと自体が国際緊張を高めてしまうだろう。責任ある国際的立場位置。
対トランプ政権、対米外交は相手がどう変わるのかによっても
大きく変動が考えられるけれど、その「相方」が定まらない段階で日本自身が
政権選択の事態になるというのは、想像を超えた事態といえるかも。
理性的に考えれば、トランプにしろバイデンにしろ支持・旗幟を鮮明にはできない。
まさか親中の方向に舵を切る選択はあり得ない。
尖閣への中国のあからさまな「攻撃」に唯々諾々とし対中シンパシーを持つような
そういった外交政策を日本がとれば、アメリカにとっては危機的事態。
責任ある地域の安全保障の観点から見て、ありえない。
国際的パワーバランスを壊す選択は日本にとって最悪だろう。
為政者がだれに代わっても日本の現在の国際的スタンスに変動があってはならない。
たぶん、この要素がいちばん継続されるべきポイントになるのではないか。
少なくとも対米・対中の位置取りでは、現政権の政策の継続が不可欠。
もしこれを忘れた政権選択になるとすれば、日本は世界情勢の中で漂流する。
中国はそれを強く希求するだろうが、それは日本の自滅だろう。

内政問題は別に、少なくとも「外交的継続性」は絶対に保守すべき日本の「国益」。
日本の国際的立場、安全保障についての継続性は非常に肝要だと思われます。
ニッポン国全体として、ぜひ賢明な政権選択を期待したい。

【日本の美意識の象徴:松花堂弁当】

久しぶりに「お弁当」をいただいた。
わたしは料理大好き男子なので、彩りとかも含めてすばらしい仕事に目がない。
こういう美感演出に、いつも率直に感動させられてしまいます(笑)。

松花堂弁当というのは、たぶん日本独特の食文化ではないかと思う。
懐石とか、京料理とかの美意識が反映されていった末に
プラスチックパッケージも含めて、ジャパンスタンダードを形成したのでしょう。
世界の食文化の中でも、これだけ「目で楽しめる」ものは少ないのではないか。
プラスチックパッケージのマザーは塗りが施された容器だろうから
伝統が現代技術で変容を見せているということで、
そのことも日本文化の対応力の底力を感じさせる。
プラスチックということでの「邪道」感は生活史的にも止揚されている。
よく見ると「視覚」のタテヨコ構成比率はおおむね5:3。
それが全12個の小枠に分割されて構成されている。
この「みた目」が食べる人の心理に与える影響というものも奥行きがありそう。
で、肝心の料理・食材には、そのバラエティの豊かさで感動させられる。
ごはんも通常のお米とモチ米の2種類が使われているけれど、
炊き込みご飯、お寿司系統、おにぎり系統、デザートのおはぎと手が込んでいる。
おかずも、エビチリソース、サケ。お肉も上段右から2つ目の枡に鶏肉料理。
野菜料理も天ぷらのかぼちゃ、きんぴらゴボウ、ニンジン、レンコン、
サヤエンドウ、青物煮浸し、カブの漬物と多彩な食材そろい踏み。
まったく日本人に生まれて良かった感が満載であります(笑)。
よく30品目を1日に食べることが推奨されますが、
これ1食ですでに越えているのではないだろうか?
自分でこれだけの料理をひとりで作るとなると気が遠くなりますが、
食事のバランスとしては、ここまで出来れば最高。
人間のカラダが欲する日本人の自然な食欲欲求を満たすバラエティは、
まさに山海自然に恵まれたこの列島風土の多様さを感じさせられる。

で、本題は「色・カタチのバランス」であります。
ご飯がメインスターとして、円形のデザインでまとめられているので、
その他の食材群も、形態としてはなんとなく円形を意識している。
そういった楽しさも演出しつつ、なんといっても色合いがいい。
料理を作る時、感覚でいちばん動員されるのは「色彩感覚」だと思う。
もちろん素材が持っている色彩を引き出してその素を活かすのが基本。
食材が本来持っている色合いをベースにして、
それらのハーモニーがどうであるか、
色彩的に多様性を演出できているかどうかが、キモだと思う。
栄養素のバランスも、彩りの「ほどよさ」を考えればそれが最適解と言われる。
食材はそれぞれ、その栄養素を「色彩」で伝えているのだ、とされるのですね。
ニンジンが赤いのはそのような意味合いがあるのであって、
白っぽい、緑っぽいなかに赤い色が入れば、栄養的にもバランスが取れるのだという。
けっして人工のあざとさを感じさせない素の風合いの交響楽。
結果として、こういう松花堂弁当では「全体としての」四季感も表現される。
おいしさを封じ込めた缶入りの「お茶」も味わいながら、
いっとき、三昧の世界を楽しませていただきました。ごちそうさまでした。

【明治の永山邸・「手づくり」の暮らしのいごこち】


すっかり明治初年建築の「永山武四郎」邸がシリーズ化であります(笑)。
現代の住宅と比べてサイズはむしろ小ぶりで
主要居室も4つだけの平屋住宅ですが、その分、使い手の息づかいもみえて
好感を持てる住宅だと思います。
このところ、発表できる住宅以外でも「住宅取材」を多数行っております。
やはりどんな住宅も面白みがあって興味が尽きません。

写真は建物全体の主要居室である座敷に南面した縁側の東側奥にある
トイレに接続した「洗面」であります。
配置的には、正面の開口は完全に南面した「一番いい場所」。

外側から見るとこの開口部は「ガラス建具」ではなく、外部は木で桟組みされて
室内侵入を防いで、外光の取り入れに紙障子建具を使った、
いわゆる一般的な和風住宅の開口部仕様。
室内の用途造作も、洗面としての機能をしっかりと満たしていて
人間サイズの「使い勝手」に対してやさしく対応している様子が伝わる。
これらの内外部の仕上げすべてが大工造作による手づくり。
洗面ボウル部分はサイズにピッタリな金物ボウルが据え付けられている。
現代住宅では、こういう部分はすべて既成建材が用途を果たすので、
イマドキの大工さんにこういう仕上げを頼んだら、大変なことになる。
しかしこういう視覚的な「感触」は非常に「人にやさしい」と感じさせてくれる。
なんというのか、作ってくれた人の「思いやり」のようなものが伝わってくる。
使用する人間はご主人だけでなく、いろいろな体の寸法の家人・客人。
そういった人間サイズについて大工職人の「手作業」ルーティン化がされて
「ほどよく」なっていたことは明白ですが、つい最近のコロナ禍から
ここで石鹸を使って手を洗ってみたいと、強い衝動を覚えてしまった(笑)。
なんか、そういうふとした動作のために費やされた労を思わされる。
現代の仕様と違うのは水道蛇口がないこと。
「あ、そうか、この時代は「水道」がないだろうから、水を甕に入れて
この左の平面に置いていたものだろうか」みたいな想像力が働いてくる。
その水くみ作業は毎日のことであり、家族が暮らしを維持するのに、
家事を分担してみんなが労と楽の両方を共有体験していた。
そのような暮らしようって、作ってくれた人や維持してくれている人への
自然な感謝の気持ちがごく普通に芽生えるのではないだろうか、と。

現代的な利便性、既製品選びという「合理主義」は当然だと思うけれど、
たまにこういった「手づくり感」と出会うと、
その失われた部分にリスペクトを抱くと同時に人へのいたわりを感じさせられた。

【明治開拓使時代の「窓回り」ディテール】


明治初年札幌の永山武四郎邸シリーズ第3弾であります。
明治10年代の初めという時代の建築で、住宅以外にも北海道庁本庁舎とか、
豊平館、清華亭、時計台など「洋造」建築が実験場のように多数作られた。
和風住宅と「洋造」住宅の決定的な違いはやはり「窓」。
ガラス自体は江戸期にも日本で製造されていたそうですが、
欧米のように住宅建材として使うという考えは全くなかったようで、
ギヤマン細工で繊細な工芸品としてしか考えられていなかった。
住宅建材としてのガラスは欧米人が日本に住むようになって、
かれらの住宅で、透明な建材として「舶来趣味」的に受容されていった。
明治初年段階では、本州地域では居留外国人住宅以外ではそれほど普及しなかった。
しかし、先日も触れたように「気密性」を空間に確保するという
きわめて寒冷地らしい合理主義が北海道移民たちの間でブーム化した。
いや、気密であることで室内の暖房効率が高まるという
きわめて即物的な、いわば背に腹は代えられないみたいな需要で
高価な輸入健在のガラスが、生活の見通しすら不明な北海道でもてはやされた。
ガラスは半紙大の大きさの規格寸法で流通して、
写真のように桟木で嵌め込まれてガラス建具・窓として作られていった。
この住宅はいわば「高級住宅」であり、窓回りの「モールディング」の重厚さには
いかにも「見よう見まね」にまっすぐな日本人的職人気質を感じる。
ディテールを研究し咀嚼する職人的倫理観、それを生む社会倫理が存在した。
それまでの日本住宅建築では木製建具+桟木など+紙障子で
窓が組成されていたが、このような本格的なガラス窓が北海道標準になった。
今日でも北海道は「高断熱高気密」という性能面での先進性が大きいけれど、
そういった素地、事始めは明治開拓期から一貫していたといえる。

引き違いに比べて外部からの操作性、防犯性が高いことが理由なのかどうか、
欧米には「引き違い」という窓の開閉形式は少ないようで、
まだ「見よう見まね」の住宅「洋造」段階だったことから、
この明治初年段階では、写真のような「上げ下げ窓」形式が採用された。
一方で、和洋混淆の和室側では下の写真のような開口部。
きのうも触れたように、縁側外周が2重のガラス建具で覆われている。
このスタイルがどこまで「一般化」していたかどうかはよくわからない。
ただ、清華亭でも縁側外周はガラス建具仕様になっているし、
先般ご紹介した大正末年の上富良野でも同様の仕様になっていた。
このシリーズを読んだ読者のAさんから、現代の高野山の「宿坊」でも
同様にガラス建具で縁側が仕切られていたと言う情報。
まぁ高野山も近畿圏とは言っても高地なので、北海道と同様の気象条件か。
この写真の「雨戸」的なガラス建具はみんな「突き付け」仕様のようで
雨戸として戸袋に収納されることのみで「開閉」される仕様。
だけれど右側の薄い「戸袋」では1−2枚しか収納不可能だと思います。
1−2枚だけ戸袋に収納した後、残ったガラス建具は外側から外したのではないか。
ただきのうも書いたように、やがてこの「常設」状態で固定され、
ほとんどガラス建具を取り外すことはなくなったのだと推測。
だいたい、スムーズに取り外し作業が可能なのは、北海道では
6−9月くらいが限度で、それ以外の時期にはそもそもガラス建具を
「動かす」こと自体、けっこうな重労働であったに違いない。
冬期には当然積雪し、結氷凍結が避けられなかったことは自明。
春秋もその危険性がつねに迫っていて、いわば季節の「模様替え」習慣には
とても至らなかったのだろうと思われます。

見かけとしては、ガラスの寸法に合わせた規格的な木枠構成。
これはこれで非常に正直な姿を見せていてデザインに好感を持ちますね。

【140年前、縁側は北海道で「窓・開口部」に変容】



きのうの「旧・永山武四郎邸」の探訪シリーズその2。
明治10年代初めということでおおむね140年前という住宅建築であり、
当時盛んに作られた「洋造」を基本としている。
しかし生活スタイルとしては武家出身者でもあり伝統的な貴賓空間、
床の間付きの「座敷」が最優先された「格式」的建築スタイルを踏襲している。
その前室として洋室の「応接室」がある「和洋混淆」スタイル。
床の間や書院といった格式重視の空間がしつらえられて、
壁にはきちんとした土壁も塗り上げられて、天井高も高い。
そして当然のように、南面する庭の眺望を楽しむ「縁側」が造作されている。
しかし写真でわかるように、本州以南地域のように板戸の雨戸で
夜間や雨天時だけ遮蔽して通常的には開放されている「縁側」ではない。
庭との境界部分にガラス建具が2重に装置された特異な「縁側空間」。
日本建築のこういう空間では、縁側をガラスで閉じるという発想はあり得ない。
しかし日本から開拓のためにこの北海道に移住してきた人間にとって
その寒冷気候は想像を絶したものであったことは言うまでもない。
縁側で、陽だまりに佇んでそのぬくもりを愛でられる季節時間は
北海道では夏場の数カ月間に過ぎず冬の吹雪の室内浸入の怖れもある。
温熱的な「陽だまり」をそこに期待することは諦めざるを得なかった。
そうすると住宅建築としてはどう対応すべきか、いろいろな可能性がある。
そのなかで明治の文明開化とともに欧米から住宅用の「ガラス」が輸入され
開拓使のごく初期のモデル的な建築「ガラス邸」で新規建材として推奨された。
輸入建材で高価であるにもかかわらず、北海道ではガラスが積極的に使われた。
内陸部の開拓民ですら、こぞってガラスを購入して建材利用した。
規格寸法で作られたガラス単体が大量消費されたという。
むしろその規格寸法に合わせ「建具」造作された。日本初の「寸法規格化」でもある。
そこまで北海道の人々がガラスを受容したのは、その気密性要素から。
この当時どんな他の建材よりも、ガラスは密閉性が優れていた。
輸入ガラスの市場占有率で北海道はダントツだったのだと言われる。

そのガラス建具が、この縁側空間を2重に覆った。
ガラス建具で縁側の1要素である庭の視界確保だけがなされ2重化が進んだ。
本州地区でつい最近まで、いや今でもガラスは単板が優勢と考えると、
まるで奇跡のように「開口部ガラス」の2重化が140年前から実現していた。
いま、この2重のガラス建具空間をチェックすると、
室内側は引き違いで半分開放仕様であり、屋外側はいわばガラス建具「雨戸」。
雨戸の収納・戸袋は数枚分しかなくて、たぶん1枚だけを「寄せて」
そのほかのガラス建具戸は、外部側から外すことを意図したと想像される。
(永山邸説明員の方からも取り外し方法は未解明の様子)
たぶん、使い続けるウチに季節に応じての「取り外し」は面倒になって、
ほぼ常時2重ガラス建具で閉じられた空間になっていたのではないか。
6月になっても朝晩の冷気はきつく、9月にもなれば肌寒くなる気候条件では
本来的な「縁側」として楽しみ、機能できる期間はごく限られ、
やがて常時閉鎖する2重ガラス建具空間に変容したことが容易に想像される。
縁側という「中間領域」空間ではなく、2重ガラス建具の「窓・開口部」と呼ぶ方が
この空間の機能性をより明確に表現しているのではないか。
そうした日本住文化からの離脱が、明瞭に表現されていると思える。

こんな経緯が北海道住宅の「流れ」だったことが伝わってくる。
しかし、北海道では現代にいたってウッドデッキ文化が盛んになっている。
寒冷地住宅建築本体としてはこうして「閉じ」ざるを得なかったけれど、
そこに暮らしてきた北海道民は、気質としてはきわめて「開放的」。
隣居からの目線を気にするよりも、短い開放的な季節を思い切り楽しむのに、
ウッドデッキなどの生活文化もまた盛んになったと想像される。
日本的な縁側空間は、まったくカタチを変えて受け継がれているのだと思う。

【明治10年代永山武四郎邸・和室の出窓】



灯台もと暗しというコトバがありますが、
札幌にいてしかも建築と歴史にけっこう興味がある人間なのに、
ふしぎと足を運ばなかった建物があります。
旧永山武四郎邸。新型コロナ禍出来以来、明治初期北海道の建築探訪、
「高断熱高気密事始め」みたいな北海道住宅の歴史掘り起こしは休止状態。
ときどき復活させて記事紹介していますが、また時事の話題に振れる、
そういう繰り返しで、札幌市内中心部に残るこの建物は放置してきていた。
昨日、ようやく宿題のようになっていた探訪を果たせた次第。
・・・なんですが、周辺駐車場の値段の高さには呆れた(笑)。
1時間900円って、ここは東京都心か?であります。料金事前明示がなく、
まったく空いていたのでつい入庫しましたが、あれでは確かに誰も利用しない。
お隣の商業施設駐車場がはるかにコスパがいいのでみんなそっち利用で行列。
全国企業の駐車場大手の管理でしたが、ああいうのは独占企業の
弊害がモロに出ちゃっていると思われます。きっと単価は上げても
利用率は激減し、オーナー側は大きく不利益だろうと推測。
おっと、大きく横道ズレまくり(笑)。

永山武四郎というのは、明治開拓期の北海道史で名高い軍人・政治家で
黒田清隆と同郷・薩摩出身の軍閥で西南戦争に「屯田兵」を率いて南下した。
出陣したが、戦地に赴く前に東京で西郷軍の敗北を知って
実際の戦闘は交えなかった。軍司令部内部で同郷軍との戦い最前線配備に
ややためらいと配慮があったものかも知れない。
軍人事跡はこうしたことが知られているけれど、長く北海道庁長官受任。
この写真の「邸宅」が明治初期の開拓使時代の住宅建築の象徴的存在として
ながく札幌の地で残り続けたことで住宅史的に名高い存在。
建築当時、いまのこの地域(札幌市中心部・サッポロビール園隣接)は、
開拓使による殖産事業実験の最先端地域だったとされている。
そういう時代の雰囲気、空気感のなかで「寒冷地住宅」が試行されていた。
同好の好事家Tさんから、この和室の「出窓」について聞かされていたので、
興味深く見学させていただいた次第。
和室と出窓という組み合わせは、いかにも「和洋折衷」住宅らしいデザイン。
あした以降触れますが、隣の本格的和室では「縁側」を介して庭を見る仕様。
日本住宅建築の定型パターンで、日本住文化そのものだったと思われる。
そうした主室に対して、こちらは東側に面して庭景観も考えられる配置ながら、
写真のような「出窓」が開口されている。
和室なのにやや腰高程度の高さがあって、しかも上部にはカーテンボックス。
そして出窓は左右押し出し型で全面ガラス建具となっている。
中央部もたぶん左右に観音開きのようで内側には網戸も仕込まれていたけれど、
こちらは建築当時の仕様かどうかはやや疑問。
建具の造作金物を見るといかにも「洋式開口部材」が使われている。
洋式の開口部仕様が和室に導入されている。明治初期と考えるといかにも実験的。
しかし一方では出窓の下には刀を隠しておく収納とのこと。う〜む。
設計者の詳細な記録は存在しないようですが、当時の状況を考えれば、
開拓使の建築部局が関わっていたことは明らかで技術者・安達喜幸が想像される。
「和室だけど、南面もしていないし防寒優先で出窓にしますか!」
といったノリで建て主・設計者が意気投合しこの仕様が採用されたものか?
夜に防寒のためもあってカーテンを閉めると、和の空間が洋で閉ざされた。
で、布団で寝て、朝カーテンを開放して出窓越しの朝日を見る暮らし。・・・
寒冷地での日本人の「新常識」ライフスタイルを探った明治の革新。
一種独特な「寒冷地住宅」ライフスタイル事始めを実感したかも知れない。

この時代の「日々革新」といった開拓初期の空気感が
かなりの迫真性で感じられた次第であります。
作り手と建て主の日本建築「常識からの離陸ぶり」に共感を持つ。

【モダンアート 美的価値と社会性】


わたしはどっちかというと伝統的な美感・感受性の方が好きではある。
そういうことなので、毎朝の散歩も北海道神宮とかの
長い時間、民族的感受性が込められた「集合芸術的空間」ともいえる
神社空間などの方に魅せられる方だと思っております。
散歩道途中神宮のごく近くに毎朝、意識せず鑑賞せざるをえないモダンアート。
ま、キライではないけれどすごく共感するタイプでもない作品。
で、この建物。写真は横長すぎるのでちょっと加工して
上下で2枚の写真を重ね合わせています。
別に上下写真での「間違い探し」ではありません、悪しからず(笑)。

ただ、毎日見ることが重なってくるので、
それほど共感はできないまでも、一応「これどんな建物なのか」という
疑問は持ち続けておりました。
どうも「美術館」らしくて、教会も併設された庭園美術館で、
そういう結婚式もできますよ、というコンセプトのようなのです。
ということで、目に触れてから数千日経過後、ついにアートの概要書きを見た。
それが2枚目の写真であります。
どうやら高名そうな海外現代画家によるビル壁面絵画だそうであります。
説明書きでは、このアートが描かれたのは2011年なので、
「数千日」というわたしの認識はそうおかしくはなく、約9年の歳月。
しかしこの間、札幌の人々の人口に膾炙した記憶は残念ながらないと思います。
敷地はけっこうクルマ通りの多い幹線道路に面している一等地。
興味に惹かれ「一回は見学してみようか」と思っていたけれど、
いつその気になっても展示会開催などの案内は表示されない。
玄関入口に行っても、その手の開館情報はまったく明示されていない。
どうも現在は「閉館」しているそうで、今後どうしようかという段階とのこと。
先日ふと気付いたら、工事関係車両のようなものがあり、
声掛けしたら、「・・・検討中みたいですよ」とのこと。
市場原理というもので、社会評価が定まりつつあるように思われます。

現代というのは、個人という存在が非常に重んじられる社会。
なかでもアートというものは、そのことが過重なまでに尊重される。
しかし当然、社会はさまざまな個人による複眼的な価値感の世界でもある。
壁面絵画、それも長期間人目にふれる絵画というものに対しては、
「公共性」という概念も大きくならざるを得ないのではないか。
またそれ以上に「市場原理」という風圧も絶対に避けられない。
どうも芸術と社会との関係が迷路に差し掛かっている危惧を感じる。