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【蔵と中庭のある暮らし/日本人のいい家⑫-3】



ことしの大河ドラマでは「中庭」に隠れたスポットが当たっています。
将軍の住まいでは中庭に面した「縁」が繰り返し画面に映るし、
そのセットを活かしたのか、信長の居館シーンでも繰り返し出てくる。
光秀が尊崇した義輝の最期は、この中庭で討たれるというものだった。
大河ドラマ「麒麟がくる」建築考証担当、広島大学名誉教授 三浦正幸先生の情報は
この時代にはまだ民家では土間が主流だったなど、
非常に興味深いのですが、この中庭のシーンについての解説はまだ聞いていません。
ただ、様式などの研究成果は当然反映されているでしょうから、
この時代の幕府施設では中庭・縁空間は重要な緩衝空間だったと目せる。
多数人物キャラやストーリー説明ドラマシーンとしていい背景設定としたようです。
基本的に平屋主体の建築であれば、その空間相互を機能的に
活かすためには、縁とか廊下の役割が高くなると思いますが、
そのなかでも四周が縁で囲い込まれた中庭が繰り返し映し出されるのです。
ドラマとしても重要な「場面転換」シーンとしても欠かせない背景。

こういった「中庭」空間って、いわゆる農家住宅などにはあまり見られない。
逆に「にわ」という名詞は農作業のための室内土間空間に名付けられる。
都市住宅としての京町家では当時の固定資産税基準が間口の広さだったとされ、
必然的に極少の間口に対し長い奥行きという間取りが採用され
坪庭的中庭を取り込んでもいるけれど、貴族や武家の高級住宅では、
生活機能的な間取りではなく、様式的・格式的な間取りとして
中庭という発想があったように思われます。
空間の初源的には中国の高級住宅である「四合院」が思い起こされる。
写真は本日で3日目の福島・堀切邸であります。


こちらでは玄関と反対側、奥座敷が縁に面しており、その縁を介して
蔵が3つ対面側に建てられている。
渡り廊下でこの間が繋げられていて、すばらしい空間の句読点になっている。
その蔵も、奥座敷側には「中蔵」と「新蔵」が面しているのだけれど、
ふだんの居住空間である炊事場、茶の間、勝手口などに相対しているのは
「道具蔵」というように仕分けられている。
きっと、生活上の細々とした生活具などはこっちに収納され頻繁に出し入れされ
一方の「中蔵」と「新蔵」の方にはいわゆる「お宝」的なものが納められたように思える。
そのどちらへも渡り廊下がアクセスになっていて、
いろいろな生活シーンが思い起こされていました。
奥座敷で賓客と対面するときには、渡り廊下を渡って
「実はご覧に入れたいものがありまして、どうぞこちらへ・・・」
というような密談的シーンが浮かんでくる。
「おお、堀切、おぬしもワルよのう、ぐふふ」だったのか(笑)。
一方の普段使いの道具蔵とは家事の女性たちが
「お正月の飾り物、たしか蔵の奥の方にあったわねぇ・・・」というように
忙しく立ち回って往復するようなシーンが浮かんでくる。
ただどちらも中庭というクッション装置があることで、心理的結界効果があった。
こういう外ではない外部空間、いわゆる「中間領域」というのが
暮らし方に奥行きをもたらせていたように思います。

【築245年米蔵・福島「十間蔵」/日本人のいい家⑫-1】



過去探訪の「日本人のいい家」シリーズ。本日は福島市の堀切家住宅。
このシリーズを続けていると、いまに残っている重厚な古民家建築の家系には
ある共通項的な「経緯」があると思います。
北海道にいると気付きにくいけれど、日本の現在に連なっている「有力家」って
江戸期に淵源を持つ大規模土地所有者であるということ。
それが明治初年の「日本資本主義」勃興期において、それまで幕藩体制下では
国持「大名」たちの専制支配で、大規模な土地所有が難しかったものが、
明治維新の結果、かれらを中心に大規模土地所有層が全国で出現した。
江戸期にも大庄屋などの経済主体は確かにいたけれど、
支配層の武家の都合で自由な経済活動はできにくかった。
そういった権力制約が維新で解放され、土地所有の自由が拡大した。
そして「担保価値」のある土地所有者が日本資本主義の基礎になった
あらゆる「殖産興業」の主体資本家として登場した。先見の明があったというよりも
経済勃興の自然な推移として特権的階級が形成されたという事情。
こうした社会階層の大変化が起こったことが見て取れる。
その体制が基本的には第2次世界大戦まで続くことになる。
現代で各地域に残る「立派な家」には、おおむねそのような歴史経緯が見て取れる。

住宅は、兵庫県の箱木千年家のように実際に1,000年続く家もあるけれど、
おおむね2-300年程度が建築と社会支配層の「耐久性限界」のように思う。
日本は比較的に社会階層の流動性、循環性は高い社会だと思います。
「おごる平家は久しからず」「家は三代」という格言はそういう民族性をあらわしている。
あ、除く北海道でありますが(笑)・・・。

この福島市の「堀切家」という存在は、今から440年ほど前、1578年に
梅山太郎左衛門菅原治善が若狭国(現在の福井県)から当時の上飯坂村に移住し、
名を「若狭」と改め、「川跡田畑4町歩(約39,700平方メートル)あまりを開作」し、
農業・養蚕に力を入れていきました。〜という戦国期由来の家系起源。
若狭という先進地帯から福島に来て、「川跡」という河川管理の困難な未開削地を
豊かな田園に変えて行ったのではないか。
江戸期には在地の「大庄屋」として年貢の納税主体を務めてきた。
そういった階層にとっての最重要建築が「米蔵」だったのでしょう。
これは1775年に建立された蔵で、桁行が10間(約18メートル)梁間3.5間。
構造材は野太く、200年を超える歳月、コメを守り続けてきた建築。独特の風格。
1部2階があるけれど、平屋35坪の大型倉庫建築。おもに米蔵として使われた。
建立年代が判明するものとして、福島県内最大最古の土蔵であり、
平成19年に福島市の有形文化財に指定されています。
明治期になって、この家系からは有力政治家が多数輩出する。
東京市長なども出ている。推測だけれど、福島県は本来会津が中心だが、
幕末明治の政治情勢のなかで会津は冷遇されて他地域、中通り地域が優遇された。
そういう薩長閥の思惑が感じられる気がする。
明治政権としては相対的に会津を下げ、福島を上げる意図があったのでは。
会津攻城戦では、官軍の本営は福島に置かれたという故実もある。
あるいは明治初年の政戦両面で、この堀切家は重用されたのかも知れない。

家の盛衰には、こういった生々しい部分もきっとあったに違いない。
ただ単に住宅としての「耐久性」を越えた要因も複雑にからむ。
「いい家」というフレーズには、どうも人文的な側面も見いだせますね。

【ただただ拍手 はやぶさ2カプセル無事地球着陸】


こういう感動を共有できるシアワセを深く実感しています。
やはり人類の最先端技術での未知への挑戦はすがすがしい。
人類は世界の全大陸に進出した未曾有の生物種といわれ、
種のDNAの根深い部分にフロンティアの血が仕組まれているに違いない。
その生物種としての普遍的共感の部分が激しく刺激されるのだろうか。

わたしのような昭和中期生まれ世代はアメリカの月面着陸計画、
アポロ計画のロマンと同心していた世代なのだと思う。
手塚治虫の鉄腕アトムや一連のSF的マンガに魅せられて、
人類進歩は無限に広がっていくと固く信じられた世代なのだと思う。
そのアポロ計画が一段落して、どんどんと宇宙開拓が進むのだろうかと
そんな夢を見てきたのだと思う。
現実は、そのようには進展せず、さすがのアメリカの経済力を持ってしても
コストパフォーマンスを考えれば、主に軍事での技術進展という
確実な「果実」を結実させることに主目的が優先されてきたのだと思う。
アポロ13号でのクライシスも、頓挫の大きなきっかけにもなったのだろう。
冷静になってみれば、宇宙空間でしかできないことを確実に研究するという
大きな方向性は決して間違いだとは思われない。
次の大きなテーマは有人火星往復とは言われるけれど、
そのためにはそのメリットがどこにあるのか、ターゲットの確定が不可欠。
一方ではるかに予算の小さい日本の「はやぶさ」計画は
太陽系起源に関わるナゾの解明という目的において合理的・理性的と思われる。
そして小惑星からその物質を持ち帰るという技術進化に特化して
コンパクトな駆体とシステムでアメリカや中国とはレベルの違う低予算で
しかしその特定分野の技術では、実用レベルまで到達していることが証明された。
オーストラリアの砂漠地帯に着陸し、丸1日も掛からずに回収されるってすごい。
ちょっと前までの人類の宇宙計画とは隔世の感がした。
たしかに実際にその惑星や天体に人間が行くよりも、
研究を進化させるには、その天体の物質を採取して分析研究に活かす方が
はるかにコストパフォーマンスがいいと思う。
日本の戦後の技術進化はよりコンパクトに、より精密にという方向で
発展してきたことを思えば、はやぶさの方向は日本らしいと思える。

しかしはやぶさ2というプロジェクト全般は、擬人化されていて、
まるで一個の生命体のように認識されてくることが面白い。
最後の、カプセルが地球に帰還してくる火球になって天空を翔る様子など、
いかにも「はやぶさ」というネーミング通り、かわいくけなげな印象を持つ。
ひょっとして、ロボットが人格を持つ人工生命体の嚆矢に、
このプロジェクトがやがて記憶されていくようになるかも知れない。
人類が関与した、生命概念それ自体の進化であるのかも知れないなぁと・・・。

【北海道に残る円空仏か? 有珠善光寺神棚飾り】



円空
(えんくう、1632年〜1695年)は、江戸時代前期の修験僧(廻国僧)・仏師・歌人。
各地に「円空仏」と呼ばれる独特の作風を持った木彫り仏像を残したことで知られる。
円空は一説に生涯に約12万体の仏像を彫ったと推定され、現在までに
約5,300体以上の像が発見されている。円空仏は全国に所在し、北は北海道
南は三重県、奈良県までおよぶ。多くは寺社、個人所蔵がほとんどである。
その中でも岐阜県、愛知県をはじめとする各地には、円空の作品と伝えられる
木彫りの仏像が数多く残されている。北海道、東北に残るものは初期像が多く、
多作だが作品のひとつひとつがそれぞれの個性をもっている。
円空は、北海道でも広尾町・伊達市・寿都町の円空仏に記される「寛文六年」の
年号などから1666年35歳の時、北海道に渡って仏像を残したとされています。
北海道の円空仏は、観音坐像を中心に40数体が確認され、慈悲に満ちあふれ
微笑みをたたえるその表情から人々の心を和ませ信仰に導いたといわれています。〜
・・・というような人物ですが、大体人間加齢してくると円空に惹かれる。
わたしもまったくご多分に漏れません。

各地で円空仏を見てきたり、あるいは国立博物館の展示などで
たくさん見ておりますが、写真はわたしの撮影した有珠善光寺の「神棚」。
こちらの神棚はごくなにげに撮影したのですが、
善光寺というお寺なのに、こんなふうに神棚があって、
真ん中には般若の面が鎮座し、金ピカの仏像あり神鏡ありと豪華絢爛(笑)。
なぜ鬼の面が中央に鎮座しているのか、まことにフシギ。
これは「神棚」ではなく、神仏、魔界大集合というシルシなのかもしれない。
まことにキッチュな光景で、日本でしかあり得ない多神教の世界であります。
後述のような自然災害頻発で、宗派の違いを超え衆生救済に立ち上がったか。
江戸期の「神仏習合」のさまをまざまざと見せつけられる思い。
で、この左右に円空仏とおぼしき2体が鎮座されています。
左側の仏像の右隣の座像もそれっぽい。
円空が訪れたころの北海道・有珠は、1640年駒ヶ岳噴火津波、
1663年有珠山噴火など自然災害が頻発の頃とされている。
あるいは自ら志願して蝦夷ヶ島に渡り、自然災害に苦しむ人を助けたいという
かれとしての祈りをこめたのかもしれません。
コロナという現代の阿鼻叫喚のなかで、円空さんの仏たちの表情に
なにかつたわってくるモノがあるのではと、写真整理して見ました。

【解約申請フォームで解約「キャンセル」へ誘導?】


さてトラブル続きの2020年でありますが、もう少し混乱が続くのか(笑)。
わたしどもの会社では数カ所の駐車場賃貸契約をしております。
で、随時、契約・解約は日常茶飯で起こってくる。
ごく当たり前の日常業務であります。今回は直接わたしが関わった物件。
ということで12月3日朝に「解約しますから」と電話で不動産仲介屋さんに連絡。
そうしたら「追ってすぐに解約担当からメールを送ります」という答え。
「了解しました、即対応をよろしく」と返答し待つことにした。
で、そのあとは各種業務に没頭して忘れていた。
最近は対面しての話合いよりもWEBベースの対応が多くなってきた。
まぁ非対面で要件が済むので、便利になってきたことは間違いない。
とくにコロナ以降、顕著にデジタル化が進んでいると思います。

ところが、このメール丸1日経っても来ない。
解約に関する申し出なので、期日が遅れると直接利害がからむ。
たくさんの処理案件があるのだしこんな些事はさっさと片付けたい。
仕方なく、翌日4日再度こちらから電話連絡した。
「あのう、メールが来ないのですが、解約申し出は受理されているのですか?」
という当方の危惧をお伝えした。
電話対応担当としては、「それは申し訳ありません」ということでした。
で、再度別人の「解約担当」に至急連絡させますという返答だった。
数時間後、メールがようやく到着。文面に遅延対応へのお詫びはない。
あとでわかったけれど、どうも業務の定型文書をクリックして送信している様子。
<さらに本筋からズレるけれど、発信者名が女性担当者の個人名でのメール。
たまたま「タイトル」も見て気付いたので良かったのですが・・・。
どうも最近DMメールなどの発信者名、こういうのが増えている。
堅苦しい会社名よりも「気付いてくれる」というマーケティング的対応なのか。
ただ、このような要件についての連絡は不似合いのように思う。>
・・・おっと、横道。
で、そのメールには解約申請についてはWEBページの「フォーム」から入力して
という案内文とそのURLがリンク表示されていた。
契約書には「解約文書を提出」と記載があり、その文書を求めたのだけれど、
そういう対応をもって「文書」に換えたものかも知れないと善意的に推察した。
けれど、そういう確認が取れる文章箇所は見られない。
「まぁそういうことなのかなぁ」と受け取って、フォームに入力して、
最後に当方の情報と敷金相当の返金口座も入力した後、
「次へ」というボタンを押した後に表示されたのが写真画面。
タイトルはいいとして案内文が、ありゃりゃであります。
「解約の申請をキャンセルします。
お間違いなければ「送信」をクリックしてください」
・・・普通に考えれば、ここまで入力させて最後にどんでん返しと受け取る。
解約しようと入力しているのにそれ自体をキャンセルさせる、という悪意的誘導。
これをうっかり「送信」したら、詐欺的に契約を延長させられる可能性が高い。

ということで、このフォーム段階でストップしてメール送信先に電話。
苦情を申し立てたら、コトバでの謝罪はあったけれど、
対面であれば納得できないような口調での物言いでした。
謝ればいいんだろう的な、・・・う〜む。
まぁ、今度はメール本文に内容を書き入れての返信で「解約受理とします」
と対応変更する旨伝えられ従ったけれど残念ながら一貫して誠実さはなかった。

どうも賃貸不動産業界、おかしな方向に向かっていると危惧させられる。
対面であれば人間関係の「信頼感」がベースになってスムーズに行くけれど
デジタルではもっと低位の部分から疑って対応する必要がある・・・悲しいかな。

【コロナ感染者の国籍が発表されない理由】

第3波といわれる感染者数の拡大局面になってきています。
とくに北海道・札幌は寒さに向かう季節ですので北海道特有の、
乾燥してしかも寒冷という条件下で感染拡大の危険があるとはされていた。
その危惧のままに、グラフのような「新規感染者」の状況で推移している。
北海道は第1波が大きかったのですが、欧米発とされた第2波は比較的平穏で、
しかし今回の波はきわめて大きいという状況。しかし
このグラフで見る限り、直近では少し下降曲線に向かっているようにもみえる。
まったく未知の事柄への対応なので、注意深く対応しなければならないのは
今後とも変わらない。一進一退の状況が続くのでしょうね。
しかし今回も「GoToキャンペーンが」というような、根拠が明確でない
過度の「危機煽り」が横行しているようにも思われる。
未知への対応なので誰が悪いとか責めても仕方がないと思う。
少なくとも情報は明確にして理性的な対応を心がけて行くべきだと思います。
ただここのところ、日本は海外からの旅客は受け入れてきている。
GoToとは違うレベルの問題、日本人と外国人のこの感染症でのデータは
いったいどうなっているのかについて明確な情報が出てこない。
このことは半年前くらいのブログでも書いたのですが、不明だった。
ところがこの件について、6月段階で国会質疑があって、当時の安倍総理が
国会答弁している一部始終が国会記録で開示されていた。
あるいはメディアでの報道を見落としていたかも知れないのですが、
わたしははじめて内容に接することができたので、多くの方も知らないかも、
ということで以下、報道してみたいと思います。

質問者は立憲民主党の松原仁衆議院議員。
このことに関する質問は以下のくだり。(要旨)
●厚労省発表の感染者に占める「日本国籍」「外国籍」「国籍確認中」区分について
1 「外国籍」に区分されるものの国籍別、または白人・黒人・アジア系などの人種別の
データを持ち合わせているか。またそうしたデータを公開しているか。
していない場合、どのような理由によるものか。
2 「国籍確認中」の区分にはどのような患者があてはまるか。受診時に健康保険証や
身分証明書を所持していなかったなど偶発的な理由によるものか。
3 「国籍確認中」の区分から「日本国籍」「外国籍」の区分に変更された
ケースの件数をそれぞれお示しいただきたい。
この質問に対しての安倍総理(当時)の答弁は以下。(要旨)
●厚労省HPの「新型コロナウイルス感染症の国内発生動向」では、
「日本国籍が確認されている者」及び「外国籍が確認されている者」を示しているが
「外国籍が確認されている者」の国籍の公表については、
「一類感染症が国内で発生した場合における情報の公表に係る基本方針」
(令和2年2月27日付厚労省健康局結核感染症課事務連絡)の参考
「一類感染症患者発生に関する公表基準」において
国籍を「公表しない情報」としていることを踏まえ、取り扱っている。
また国内における新型コロナウイルス感染者等の人種については、把握していない。
というような答弁が行われているのだそうです。

なんのことはない、門前払いに等しい対応。そう決めているからそうなんです、と。
ちなみに「一類感染症」とは、
〜エボラ出血熱、クリミア・コンゴ出血熱、痘そう、南米出血熱およびラッサ熱の
ウイルス性出血熱、ペスト、マールブルグ病が指定。〜で新型コロナはこれに該当。
ようするに厚労省の一部局の「事務連絡」判断で「国籍を公表しない」とのこと。
少なくとも政治的にこのことは判断されたわけではないというのですね。
ここで松原議員、大いにツッコむべきだと思うけれど進まなかった。
厚労省という役所の壁か、アリバイ的情報のガス抜きか。
この質疑についてその後も、論議が深まった形跡はない。
しかし感染症の恐怖に慄くばかりの民に、冷静な情報は不可欠。
より多く日本人が罹っているのか、外国人が罹っているのかという情報は、
これだけの社会混乱のなかで秘匿するよりも公開する方が
パニックを抑えるという意味では優先度が高いのではないかと思われます。
まぁ差別に繋がるのでは、という危惧は想像できるけれど・・・。
せっかくこの問題に踏み込んだのだから、論議は深められるべきではないか。
国民の知る権利として優先されるべきではないかと思われる。

【三つ子の魂か?人の生き方はそれぞれ】


写真はある古民家施設で囲炉裏を囲んでの子どもたちの様子。
っていうか、その履いてきた靴の様子がなんとも楽しくなってしまった次第。

わたし自身、母親から靴の履き方、揃え方を諭された強烈な記憶がある(笑)。
わたしは幼い頃、靴の右左に無頓着で、よく反対に履いていた。
母親はいつ言おうかと考えていたのでしょうが、あるとき玄関で
「見てごらん」と言って、靴の右左を教えてもらった。
いつもやさしい母親が真顔で諭すので深く足下に気付かされた。
「そうか、靴って右足、左足で違いがあるんだ・・・」。
その記憶が鮮烈、強烈に残っている。まさに三つ子の魂、百までもというヤツ。
日本人の「しつけ」としては、こういう靴の脱ぎ方について
作法として親から言われることが一般的なのでしょう。
なのでこういった場面、状況の場合は、ここから帰るときの進行方向に向かって
両方の靴の先っぽを向けて、2つの靴を左右も整えて脱ぎそろえるのが理想。
この場合には画面の上側に囲炉裏の部屋があるので、上から下方向にそろえる。
しかし、この見えている靴12足でそういった「傾向」が辛うじて見えるのは
最右側の1足だけという状況であります(泣)。
この1足にしても上がり床面からは遠い位置なので、やや減点対象。
しつけの観点からはまことに嘆かわしい日本民族の未来であります。
しかしまぁ、子どもたちにとっては楽しい「囲炉裏」体験のソワソワの場面。
われ先に、他の子よりもいい場所を確保したい一心がそうさせたのかも。

しかし、そういうしつけ問題とは別に、しげしげと見ると
靴の脱ぎ方の様子で、なんとなく性格とか人間性とかが表現されていてオカシイ。
よい子の模範的な揃え方は、それはそれで素晴らしいけれど、
大混乱しているような靴の盛大な乱雑さも、これはこれでなんとも可愛い。
物心ついて、あるいは大人になって、では確かに困るけれど、
天真爛漫なこどもらしさがそのまま表現されているようなのは魅力的。
「おお、囲炉裏だってよ、もち食べられるかも、うまそう!」
というような心の動きが正直にこの脱ぎ散らかしから漂ってくる。
もちを食べさせながら話をするのには、こういう不揃いな子どもたちも
オモシロいかも知れないと、ホッコリさせられる。
きっと、その子どもたちに自分との同質性を感じるせいでしょうか(笑)。・・・

【進む冬景色 2020年も師走・最終盤】


きのうなにげに朝6時過ぎ、いつものように北海道神宮参詣。
朝の気温はマイナス3度と確認しましたが、風も少しあって体感はもっと厳しい。
足下もすっかりスパイク仕様の冬用シューズ、外装上下ともダウンで防備し
アタマには毛糸の帽子という完全冬用スタイルであります。
本格的に根雪になった方がむしろ断熱され、それ以上は地上が凍り付かないので
かえって今時期がいちばん寒さが身に堪えるともいえると思います。
北海道人、暑さにも弱いけれど、寒さへの弱さもハンパない。
で、神宮にたどりついたら冬季時間体制で朝7時でなければ本殿境内は
戸締まりしているところ、開場しているではありませんか。
「あ、そうか」と思い出したのが、毎月1日に神さまから下賜される「塩」。
ここのところ1日は決まって雨で散歩中止していたりで、わたしは遭遇していなかった。
このために参道が1列になっていて、参拝に10分以上は掛かりそう。
見ると先頭では下賜塩が品切れしたようで、行列が進まない。
わたしは、特段下賜塩が目当てではなかったので、列を離れさせていただいて
こころしずかに毎朝の参詣をさせていただきました。
振り返ることもなく行列を離れましたが、みなさんけっこう忍耐強く待たれていた。

ことしもそういうことでついに「師走」であります。
すっかりコロナ禍で1年が、まったく違う様相で去って行く気がします。
仕事ではスタッフの安全最優先で「テレワーク」体制を組んでいました。
非常事態宣言期間中と期間明け、そして第3派襲来と
「働き方改革」が待ったなしで迫られるような状況だったと思います。
通常のビジネス業務はそれはそれで進めつつ、
しかし仕事のプロセスでは実にさまざまな困難が襲っても来た。
東日本大震災でも、「未曾有の」ということを経験しましたが、
今回のコロナ禍は同じような「非常事態」とはいっても
まったく始末の悪い状況だと思います。
しかし弱音を言っても仕方ない。この環境の中で
なんとか創意工夫で戦っていくしかありませんね。
Replanの旗艦誌「北海道版」も年末年始発売最新号が最終段階の真っ最中。
Zoomなどの手段も駆使しなにより集中力で仕事と向き合うしかない。
テレワーク、リモートワークというものももはや業務の基盤になっているし、
Slackとかchatworkなどの業務連携ツールも使い始めるともはや手放せない。
<でもこういった環境にMade in Japanがまったくないのは、う〜む。
たぶんアメリカとは起業創業に際しての金融環境が違いすぎる。
中小零細企業にいつまで「個人保証」を続けるのでしょうか、ニッポンは。>

こういった環境要件はコロナが収束しても継続していくことは確実。
まさに環境激変の2020年師走でありますが、
寒さに向かってアフターコロナ戦略を練って乗りきりたいと思います。

【「能登・上時国家」/日本人のいい家⑪-2】




能登・上時国家その2であります。
通常通用口の「大戸口」を入ると広大な「庭」と呼ばれる土間空間。
見上げると豪放そのものの太い構造材が力強く組み上げられた天井空間。
そしてその座敷側入口上部には、なんと駕籠が4機も吊り下げられている。
上時国家当主が外出するときには、この駕籠を降ろして
用向き先まで移動させたものでしょうか?
っていうか、駕籠の収納方法が太い梁に吊り下げるというのがすごい。
イマドキ住宅で、豪華な高級車を室内インテリアとして
住まい手の自慢のタネとして「どうだ」と見せることがありますが、
インテリア的な意図としては江戸期にもそのようなことだったのか、オモシロい。
そうではなく、実用性としてあったのだとしたら、
それはそれですごいものがある。
というのは、駕籠に乗って移動するのには当然「担ぎ手」が不可欠。
短距離であれば1台2人でしょうが、長距離移動ならば4人くらい必要。
能登の「代官所」まで、輪島としてもそこそこの距離を
こういう移動手段で移動した、それが常態化していたとすれば、
その財力はハンパないレベルなのでしょう。
きのうも触れましたが、この建物の建築それ自体が大納言格式。
北前船交易での「信用装置」と考えて、28年もの時間を掛けて
地元有数の宮大工に思う存分に腕を振るわせていた。
江戸時代の経済活動は日本海側の方が活発だったとされるけれど、
その中継点として、この上時国家の重要性、比重がしのばれます。



北前船交易では船が着岸すれば、活発なビジネスが展開した。
この場所ばかりではなかっただろうけれど、この土間空間、庭は
その中心スペースとして交易活動が行われたでしょう。
また、高級客人、たとえば高田屋嘉兵衛などには、駕籠が差し向けられて
丁重にこの屋敷まで案内されたかも知れない。
そして間取り的には大茶の間という自由空間から、王侯貴族クラスの接遇として
「上段の間」まで、どんな階層にも対応可能な接遇空間。
江戸期の流通経済中心の輝きがはるかに残照しているように思われる。

【北前交易拠点「能登・上時国家」/日本人のいい家⑪-1】




一昨日「神棚」のワンピース先出し紹介の家であります。
いまは、コロナ禍での移動自粛期間。GoToには罪はないと思うのですが、
県境をまたいでの移動については、出張などはしにくい状況。
とくに開拓型の掘り起こし営業ではWEB、Zoom環境での実現は困難。
まったくビジネス環境は変わったと思わざるを得ない。
なのですが、逆に過去取材の膨大な写真データ類の整理整頓には好都合。
そういうなかから、いろいろな「いい家」が自然に浮かび上がってきます。

源平壇ノ浦合戦での捕虜、平時忠が能登に流人として流され、
その息子・平時国が家を継いで以降、「平氏」姓を秘匿して
セカンドネーム時国を姓として家を興してからの名家。
時国氏としても800年以上で、平氏の出自を考えれば1500-1600年の時間を
優に遡ることができる家格の住宅であります。
ブログ記事でも一度紹介しておりますが、シリーズの1篇として再掲。
写真の家はいまから188年前に竣工した本家・上時国家。
家という概念が、このように表現することで日本語として二重であるとわかる。
家系という概念の家と、建物概念としての家と日本人は使い分けている。
さらに建物概念としての家も、そこに生活手段は自明のこととして
備わっていることが普遍的原則だったと思う。
この時国家も鎌倉幕府初期、平家としての出自から源氏政権の迫害を受け
財力は持っていても、山中に身を隠さざるを得なかった。
3代将軍実朝が死んで源氏嫡流が途絶えたことでようやく「農地を買った」とある。
生産手段の裏付けのあるものが「家」として定住に値するということがわかる。
一所懸命というコトバは日本人に深く染み込んだ土地信仰だけれど、
具体的に農地はしっかりと耕せば、いのちを繋いで行ける生産手段。
そういうベースを確立させた上で、能登の海運上の立地条件を活かして
活発な北前船交易などで経済的繁栄を実現させてきた家系。

一方で住宅デザインとしては、「大納言」という家の家格を表現させることに
その経済力を注ぎ込んだとされている。
いま、国指定重要文化財として扱われるほどに、精緻に作られている。
玄関は2つあって、正式の「式台玄関」と通常の「大戸口」。
右側の式台玄関には唐破風が渡されて、この家の外観デザインのポイント。
左側大戸口は、生産手段としての農家の土間空間、庭に至る通常出入り口。
いかにも「格式建築」の表情を外観でも見せている。
2枚目の写真は「上段の間」の様子。壁上部が湾曲して格天井に連なっている。
枡形のなかには金箔が張られていたという。
書院造り的な様式、鄙にあるとは思えない格式建築。


そして心の字型の池を取り込んだ風格のある庭に向かって
「御縁座敷」という畳敷きの縁側空間が幅1間で広がっている。
その外側に板張りの「縁」があって、庭を鑑賞する仕様。

この建物を設計施工したのは、地元能登の宮大工「名工・安幸」。
竣工までに28年掛けたというのは、いわゆる「大納言家」の故実を
丹念に江戸末期に復元再建する工事意図から、
京都などの名建築を訪ね歩いて、その意匠の探究に精魂を費やしたのではと思う。
しかし、唐破風という平安期にはありえないデザインも取り入れた。
建築の用途としては、北前船交易での交易拠点として
耳目を驚かすような家格を表現する格式建築を見せることで、
交易での価格などの交渉を有利に運ぶ主要な目的があったかも知れない。
平安期からの名家という演出装置は、ものの価値に裏付けを与えた側面があった。
ビジネスマインドから考えれば優位な「営業戦略」とも言える。
「わが家は平家出自、平時忠公を先祖とする家柄でして・・・」という口上は
高田屋嘉兵衛らの江戸期有数のビジネスマンたちを信用させる価値があった。
住むための建築であれば28年も時間を掛けるのは不都合そのもの。
むしろ、「いや時間を掛けてホンモノを追求している」と宣伝したのではないか。
そうであれば時間を掛けることそれ自体も価値がある。
交易の「目利き」力、信用力の裏付けとして影響は大きかったに違いない。
本日はいわば建築のオモテ側のデザイン。他の側面はあす以降に。