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【東京・関東でのクルマ活用「最適解」探究】

このところ東京、というか関東出張を集中させています。
やはりエリアが広域なので行動スタイルの最適解も手探りしながら。
とりあえず8日間行動して、昨日ふたたび札幌帰還。
その間で行動したのは、神奈川県・東京都・埼玉県・茨城県の4地域。
当然ながら関係先は広域点在型であります。
東京だけであれば公共交通手段活用もアリ、ではありますが、
広域になると、やはりクルマでの移動が必然化する。
昨日も大宮から同じ「埼玉県内」の県西北端まで移動した。
地点to地点で90kmちょっとの距離。当然「関越道」経由。
はじめての訪問先でもあるので念のため、2時間半前に出て
クルマ発進後、5分ほどで高速に乗った。
一端、南下して「外環道」を経由して関越道に移動する経路。
って、カーナビが基本的には「最適解」を選択してナビしてくれる。
そこから魔の行軍が始まった(泣)。
関越道は何度か走行しているし、早朝出発でもあるので
気楽に考えていたのですが、走らせはじめたらすぐにノロノロ。
主要ジャンクション周辺での自然渋滞は仕方ないとして
関越道が本格的に始まってからも、むしろ渋滞ノロノロが激しくなる。
あとでわかったのですが、4車線ある道路幅のところで
たくさんの「事故」渋滞が発生するようなのです。
スキーやスノーボード愛好者が土曜日には大集中するということも重なり
首都高よりもずっとひどい大渋滞。
でもほぼ北進というまっすぐに近い道路でなぜかくも事故が起こるのか。
まことに不思議な光景と驚きながらも、たっぷり時間を見ての出発だったので
はじめは余裕を持っていたのですが、
2回ほどはトイレ休憩も挟まなければならなかったし、
徐々に約束時間が迫ってくる状況に追い込まれていた。
最後の大渋滞が事故渋滞だったことが判明したところで、
アポ時間まで残り30分ほどで残り距離が40kmほど。
高速を下りてから6kmほどの距離であり、そこも渋滞していれば、
初訪問で即遅刻という最悪の展開になる雲行きであります(汗)。
しかしようやく、目的の「本庄児玉」手前2−3のICからは
普通の高速走行ができるようになって、目的地にはギリギリ
アポ時間の5分前に無事到着。
90km2時間25分という行程でありました。ふ〜〜〜。

そこからの帰りでは関越道を南下して、都内恵比寿周辺まで移動。
帰り道でも関越道下りの対向車線ではあちこちで「事故渋滞」が目撃された。
事故が起これば、警察による「現場検証」が必要で
それによって大渋滞が発生するメカニズムが一目瞭然だった。
それにしても、雪も降っていない晴天乾燥路面でなぜ事故るのか。
ビジネスのアポとこういう「事故渋滞」との最適解を考えるのは
ちょっと難しいなぁと実感しておりました。
なんですが、やはりクルマ移動しかありえないというのも強い実感。
都内など、驚くほどに狭い範囲に関係先が集中しているので
駐車料金問題はありますが、クルマ移動は合理性がきわめて高い。
それと路側の公営時間パーキングはたいへん有用ですね。
あのパーキングのマッピングをアタマに叩き込むと
かなりコスパのいい行動パターンが構築可能ではとも思えました。
さて、創意と工夫でチャレンジしていきたいです。

【古代豪族古墳石室 死後のインテリア空間】


北関東というのは遺跡群のけっこうな宝庫。
昨日、予定の合間の時間ができたので、生来の考古の研究にと
「埼玉県立歴史と民俗の博物館」を駆け足で見学してみた。
展示の中でつい見とれてしまっていたのが、
埼玉県秩父郡皆野町大字金崎字大堺3号墳の再現「玄室」の様子。

人間は生きている間、いろいろな空間を体験する。
多くの場合は伝統に従った住空間とその生活文化にくるまれて過ごす。
そして死を迎えると、墓に葬られることになるけれど、
権力を握った人間は、その死を荘厳に飾り立てたくなるものなのでしょう。
またその権力を継承する肉親者にとっては、
その死者の死を飾ることで自分の権力の正統性を証し立てようとする。
そのような初源的で非民主的な死の装飾は現代では
「唯物論」に由来するとされる「社会主義」国でむしろ平然と行われている。
毛沢東はその遺体が永久保存され北朝鮮でも同様にされている。
こうしたことひとつをとっても「科学進歩」からもっとも遠い
異様な権力であることが明らかだがWHOのように目の不自由な連中も多い・・・。
横道にそれた。人類発展のある段階まではこうした墓制は理解出来る。
で、面白く思うのはそういう古墳を造営する建築的な立場。
その墳墓をどう建築し、どうデザインしたのか、
そういう立場で考えてみて、遺された遺跡は示唆に富んでいる。

ここでは、というか、わたしが知見した限りでは
おおむね石材でそれらが構成されている。
古代蘇我氏の途中経過古墳とされる明日香村「石舞台」を実見すると
永遠の「終の住み処」として炭素年代的な石材で構造が構成されている。
「天井・屋根」まで巨石で構成されている。
あのような巨石構造は、その動員された人力を思えば圧倒されるけれど、
こちらの埼玉秩父の古墳では、床には砂利石が敷き詰められ、
壁の1面は細かい石材がまるでレンガのように積み上げられている。
一方で正面は地元で産出される平板状の緑がかった1枚岩が嵌められている。
どうしてこのようなインテリア構成に至ったのか、
作り手、施主にヒアリングは不可能(笑)だけれど、
はるかに後世のわれわれからすると、そのモダンな感覚に圧倒される。
展示物として照明も配置されているので、
たぶん創建時、建築として作ったときの雰囲気、
感じたであろうインテリア空間性を再体験することができる。
明日香の石舞台が土盛りされなかった古墳なのだとすれば、
古墳では土は石室構造が出来上がってから被覆されたものに違いない。
なのでこの石室空間を造営建築した人物たちは明るい太陽光採光条件下で
空間体験しながら作っていたのでしょう。
建材としての石の各種取り合わせ、その水平垂直の配置など、
いろいろ思念し宗教的カタルシスを意識しながら作っていったに違いない。
やや「建築」取材に似た空間体験を感じ続けておりました。
たぶん、この空間はステキだと思う方は多いのではないだろうか?

【唐招提寺丸瓦がアタマに判子スタンプ】

やはり関東は人口も多いので情報量も圧倒的に多い・・・。
出張しての多数接触なので、情報収集型の動きになるのですが
しかし話しているウチに「縁」が膨らんでくる瞬間がある。
たまたま建材流通の企業を訪問したら、創業が明治4年で
日本の「建材ガラス流通業」の草分けだというお話しが飛び出して
ちょうどわたしのライフワーク「北海道住宅始原期」情報掘り起こしで
開拓期の北海道が日本全体でガラスの特異的最大消費地だったことと
連関することが判明してしまった(!)。
北海道内だけでは情報の掘り起こしには限界もあったのですが、
こういった新たな情報発掘でさらに研究が進みます。
いろいろと会話して情報を突き合わせると、知見が複層化して深まる。
たしかに「開拓使」も北海道と東京の二元機構だったので
その両方でいろいろな動きが同時進行したのが実際なのでしょう。
寒冷地住宅を本格的に開発しなければならなかった開拓使にすると、
その必要な建材について、外国からそれを「輸入」する必要性が生じる。
とくに伝統的日本住宅から「洋造」に建築基本方針を明確にしてからは
海外との交易関係が不可欠であり東京なり横浜なりでの情報収集が
待ったなしに発生しただろう事は自明ですね。
やがて明治末年頃にはガラス建材が国策として国産化されるのですが
それまではひたすら輸入材に頼っていたので、東京の流通事業者は
こうした情報について相当の蓄積があるに違いない。
あらたな研究の基礎的情報源が得られた思いがしております。

一方、写真はあちこち巡り歩いていた先の松井郁夫設計さんで
見せていただいた古建築の「瓦」であります。
漢字文字が5つ配列されていることはわかるけれど、
クイズのようで、どう読んでいいのかがわからなかったけれど、
「唐招提寺の瓦だよ」と教えていただいた。
真ん中の「律」はわたしもわかった。鑑真さんが唐から伝えたのは
「律」宗とそのあと名付けられたことがアタマに浮かんだのですね。
なので、その唐招提寺の寺院をあらわす一字として採用されたのでしょう。
瓦は長く使える建材とはいえ、千年も持つものではないでしょうから
いつのころに焼かれた瓦かはわかりませんが、
しかし、瓦の文字はその時代の人間が書いた文字なのでしょう。
先般来アタマを悩まされた「くずし字」ではない楷書なので
わたしたち現代人にもわかりやすい。
というか、現代書体の手本のように端正な書体。美しく読みやすい。
松井さんの説明ではさる建築の大家から譲り受けたということでしたが、
さすがに古建築の探求者、面白い学習素材を目にさせていただけた。
まわりの丸い突起はどういう意味合いがあるのかとか、
また外周縁部分に白く変色した部位が3箇所見えるけれど
それはどういったことが原因なのかとか、
素朴な疑問がたくさん湧いてくるのですが、
なんといっても「あちこち行脚」の出張の身の上なのでじっくり
疑問をぶつけられませんでした。
「今度来たら、夜じっくり教えてあげる」みたいな約束で
次の訪問先に向かっておりましたが、どうも疑問はアタマから離れない。
この「変色域」はどうも瓦運搬時に縄懸けしたときの擦過痕では?
というように推理があれこれ浮かんで止まりません(笑)。
印象的な丸瓦、ハンコのように頭にスタンプされた心境です・・・。

【出張中・不安的中の札幌わが家大雪(泣)】

わたしきのうから東京に出張してきております。
今週は土曜日までこっちでの動きになるのですが、
2日前には本格的な降雪があって、これからひょっとすると
これまでの小雪傾向の「揺り戻し」があるのではないかと
過去の似たような年の事例を警鐘していたある専門家のご意見を
聞いておりましたが、どうやらわたしの出張を狙ってドカ雪のようです。
まだ家族から上の写真が送られてきてそれ以外の情報はないのですが
写真画像で見ても数十センチ、たぶん40cm超程度の積雪ではないかと。
前日までの「積雪深」は札幌(西区)で40cm(2.5午前9時段階)でしたが、
ハラハラしながら情報を見ていたら、地元テレビ局の「ライブカメラ」
映像での情報ですでに79cmという積雪深になっていた。(札幌市中央区)
積雪深というのは、雪の現在深さを表すもので、
昨年の暖冬ではこの同じ日で49cmで「平年値」は69cmレベル。
まだきょう6日の発表は9時にならなければ出ないのですが、
地元テレビ局の発表からすれば、平年をすでに10cm上回っている。
案の上の「ドカ雪」到来のようであります。

なんとも旅の空であることがやるせない。
たまたま息子が帰省しているので、2日前の積雪では
親子で除雪に立ち向かってくれたのですが、
きょうは遠くからエールを送るくらいしか出来ない。
きのうは午後から東京でスタッフと同行で各所訪問後、
やや時間が遅れたのでスタッフの帰着便に間に合わせるのに
借りているレンタカーで羽田まで送り届けたりして、
こっちはこっちで動き回っているのですが、
雪かき道具を手にできないことがなんとも悔やまれる次第。
気温は昨日で札幌でも零下2ケタくらいまで下がっていた。
最強寒波というように言われているようですね。
雪質は写真を見る限り、パウダースノーみたいに感じられる。
なので慌てず騒がず、時間を掛けて淡々と片付ければいいと思いますが
事務所兼用なので、数カ所に「駐車場」も借り上げている。
そっちの方もどうにかしなければならない。
一応除雪も条件には入っているけれど、時間的に間に合うのかは不明。

どうも胸騒ぎしていたとおりのこの冬の積雪展開なので
遠方からヤキモキさせられております。

【虚を突かれる北海道方言「食べらさる」】

わたしは食事作りがそこそこ好きなので
「社長食堂」とか、番外編とか、家族料理とか、
なにくれとなく毎日、食事作りをするライフスタイル。
これが性に合っているというか、習い性というかであります。
で、そういう様子をブログでアップしたりすると、
いろいろな「ツッコミ」がやって参ります(笑)。
高校時代以来の友人知人であるShigeru Narabe さんからは
そういうきびしいツッコミが多数寄せられるので、
いつも戦々恐々としているのですが、無上の楽しみでもある。
ふだんはある程度は予想が付くのでこころの準備は整っているのだけれど、
つい先日のツッコミで、食後感想で「いくらでも食べられる」
という意味合いのことを書いたら、
「北海道では正しくは『なんぼでも食べらさる』が正しい」
と断定的にツッコまれてしまった。

内心深く「おお」であります。
まったくぐうの音も出ない。
その手があったじゃないか、であります(笑)。
ブログを書いたり、住宅雑誌の編集発行、WEBメディアの運営など
毎日「表現」の仕事が常在戦場の身であるのに、
ここまで的確な感覚表現をスルーしてしまっていたことを深く恥じた次第。
美味しいものの魅力、その麻薬的な習慣性表現に関して
ここまで的確な良い方はなかなかないのであります。
ただ惜しむらくは「北海道方言」なのです、通じない(泣)。
たぶんこの記事を読んでいただいている北海道以外の方には
「こいつなにを書いているんだ」と思われることでしょう。
この方言を「翻訳コンニャク」すると、
この言葉は「食べる」という言葉に「さる」という方言接尾語が加わっている。
この「さる」という接尾語の意味合いは
〜「意思に反して」「わざとではなく」「意図せずに」「不可抗力で」
「勝手に」「そのつもりではなく」「状況ゆえに自動的にそうなる」
ということを伝えたいときに使います。〜
ということなので、食べらさる、というコトバは
その食べ物の魅力にすべての抵抗バリアが崩壊してしまって
ただひたすらその魅力を無抵抗に受け入れる快楽の状態、といえる。

北海道は日本中の「地方」からの移住者が集まって
コミュニティがほんの150年程度で生成されてきた「地方」。
多くの方言がある特定の地域発ということが多いのですが、
この「さる」はやや不明なところがある。
どうしても「表現」の仕事をしていると標準語が無意識に常態化する。
そういう間隙を縫って、ゴツンとした方言表現力に出会うとたじろぐ。
便利さと表現の深みの両方で、これは標準語にしてもいいのではないかと。
ぜひ国語審議会のみなさん、よろしくお願いします。
本日のテーマはどうもすらすらと「書かさる」のであります(笑)。

【雪まつり期間中に本格的積雪 2020年冬さっぽろ】


昨日は人の往来が活発になっておりました。
さっぽろ雪まつりが先週1.31から来週の2.12までの期間開催。
で、札幌周辺の雪不足状況に断続的な積雪で、
けさは写真のようなわが家周辺の積雪状況。
さっそく本格的な除雪をしなければならない。
ある人からは、この冬はこれからが積雪と寒冷の本番という説。
なんでも過去の「似たような年」を探してみると、
よく似た状況の年もあると言うことなのですね。
さらに翌年は大雪に見舞われた記録があるというのですね。
で、冬が遅れてやってきて、立春過ぎから本格的な冬になるということ。
すこし季節がずれてしまっている。
日本海の海水温と偏西風が忘れずに働いて日本西海岸側は積雪する。
ただ偏西風の気温がその年ごとで若干上下するので、
総トータルの積雪量はそれに連れて前後することになる。

ということで、ただいま除雪完了。
たぶん体感的積雪量は約30cm程度と推定されます。
それと普通の北海道の積雪からすると雪質が重たい。
たっぷりと水分を含有した、新潟の雪のように感じられます。
ちょうどよく息子が大学生活最後の春休みで帰省中。
親子でたのしく雪かき作業であります。
やっぱり北国育ちの男子なので、雪かきには立ち向かう。
おかげさまでふだんの半分程度の時間で完了しました。
雪かきって、傍目から見ればツライ作業で、事実きびしいのですが
しかしその作業にも喜びはたくさんあると実感しております(笑)。

本日は体力消耗につき、ブログはここまで、
明日以降、またしっかり書き込みますのでよろしくお願いします。

【江戸・東京の都市建築文化「銭湯」の景色】

わたしは大学から就職したての頃、東京生活しておりました。
家風呂のないアパート暮らしだったので、銭湯通いの日々。
東京の街はそういう銭湯が無数に存在している街だったと思います。
で、その銭湯は公共的な衛生設備空間であり、多数の人間が参集する。
一度にたぶん100人くらいの人間が集う空間であり
それなりに大型建築にならざるを得ない。
面積的にも天井高という意味でも一般建築とは規模が違っていた。
したがって街区の中でランドマーク的な存在になっていた。
そのような建築の「用途」が定まっているので、
おのずと外観的には「風呂屋っぽい」という既視感が刷り込まれてくる。
東京の住宅街を巡っていると写真のような建築が目に入り
その規格性に吸い込まれるような印象を受ける。
けっこう永い時間見続けていたが、そう大きな印象を持っていなかった。
しかしふり返って見ると、歴史的にも大きな意味を感じる。
建築という意味でも、また都市空間という意味でも。
さらにいえば、日本人の生活習慣に果たした役割まで考えればすごい。

銭湯というのは江戸に家康が入府した翌年には町場に開業記録がある。
それ以前から、奈良時代の寺院建築で「施浴」施設が民衆にふるまわれた。
仏教が日本に根付いた根っこにこうした公衆衛生思想を
わかりやすい宗教の現世利益的「機能」性として
仏教の価値を民衆に刷り込む目的性を持っていたのではないか。
また、政治権力としても皇后が風呂を提供したりしている。
奈良のような権力の中心「都市」を造営すれば、必然的に
「疫病」が発生する。藤原氏中枢まで命を落とすような
度重なったその被害から「公衆衛生」思想が導入され、入浴機会を
庶民に提供する必要性も高まっていた背景事実も当然ある。
このような入浴習慣・思想があって都市江戸の建設当座から
風呂屋は街区の重要な施設として、江戸から東京にいたる時間、
いわば都市文化として基盤的な建築であり続けていたのだろう。

別にこの写真の風呂屋さんに通った経験があるワケではないけれど、
建築としてのいわば「一般性」の部分で
「あ、これ、風呂屋だ」と直感できるだけの要素があるのでしょうね。
まず大型であること、当然高い煙突を持っていること。
男女別々なので、左右均等性を持っていること、
さらには一般建築よりも1階天井高がかさ上げされていることが
柱梁の真壁構造から見て取れることなどが「一気に」視認されるのでしょう。
ニッポンの都市と風呂屋、なんかなつかしい(笑)。

【人間環境「オモテ」ガラスオフィス 「ウラ」の住は?】



東京の変貌ぶりはいろいろに参考になるので、
ときどきはチェックするようにしているのですが、
今回「オフィス」の環境をチェックする機会も得られた。
いわば伝統的な田の字型の「オフィス環境」というのはパワハラの根源、
みたいな印象を受けるのか、あるいは「働き方改革」への対応から
環境を考え直す、という動きが強まっている。

この「オフィス環境」と人間の住宅環境とは
いわばコインの「ウラオモテ」のような関係なのだと思います。
オモテの変容はやがてウラの変化につながっていく。
いわば伝統的な一企業の占有環境というオフィスのありようから
シェアオフィス型の環境が徐々に多数派を占めてきている。
とくに地域としての渋谷はGoogleが日本支社を開くなど
「先端型オフィス環境」というイメージを刷り込ませつつある。
息子たちの世代にして見ると、そういう一種の「羨望感」があるという。
銀座や丸の内、などといった「地域ブランド」に対して
渋谷はそのような印象を強く持たれている。
それは了解するとして、ではそのインテリア的空間性は?という興味。
上写真は往来する通路部分から左右に展開するオフィス。
この「ガラスの壁」のガラスドアの仕切り鉄骨が列柱のように連なり、
外周窓まで「スケルトン」感そのままの光景が連続している。
ワーカーはみなノートパソコンで基盤的な情報とつながっていて
いわゆる装置的な「企業」感覚はきれいに除去された空間。
一方で会議などは、このセパレートされたガラス空間を
時間単位でレンタルすることで確保されている。
こういった基本的な「仕分け」になっている。
一方でラウンジ的な空間が下の写真。
こちらの方はまだしも「居住性」が仕掛けられている。
少しリラックスできるような家具配置が心がけられている。
しかし、どちらにしても「壁」という概念はなるべく除去され、
外周部の広大な「ガラス壁面」まで空間の連続性が確保されている。
建築の要素の中から「壁」というものが忌避されてきている。
極端に言えば、そのように言えるような空間性の志向になっている。
建築で言えば限りなく壁の要素を簡略化できる工法に向かっている。
そしてガラスが強度を持った壁としてリプレースされている。

こういった空間性がいわば「オモテ」の世界の印象の大きな領域を占める。
では、その「ウラ」を占める住宅の世界はどういう志向になるか、
というのが、本来的な興味分野になるでしょう。
いま現実に住宅シーンで起こっていることのなかに
そのキーワードやヒントはきっと表出しているのでしょうね。

【暖冬のニッポンを襲う新型コロナウィルス】

昨日東京羽田から札幌に帰還しました。
ここ1両日は雪の予想だったのに反して「雨だった」ということで、
いよいよ暖冬の様相が極まってきているようです。
通行量の多い幹線道路では高速道路も含めて積雪はなく路面乾燥。
そして住宅街の道路は雪融け時期の「グチャグチャ」状態。
ある情報ではことしは季節は「跛行」しているので、過去の気象と照らして
例年の「春先」に一気に大雪が来るのではないかとか、
いろいろな情報が駆け巡ってきておりますが、さてどうなのか。
目先的にはラクなそうした暖冬異変のさなか、
もっぱら関心は中国発の「コロナウィルス」恐怖。
気候変動とコロナウィルスという、恐怖の魔王が降りてきたようです。
写真は帰りがけに見学した「出雲と大和」展で撮影可だった「法隆寺金堂壁画」。
複製ですが、これは現状の画像と3次元データから復元したもの。
展示の最後にあったのですが、その仏の目が白眼で、
背景の色調などと合わせ胸騒ぎするほど不気味さを漂わせている。
なにか今回の気候変動とコロナウィルスの不気味感と共鳴している。

感染症としてのコロナウィルスに対しては、とにかく手洗いうがい、
そして外出時にはマスク着用と、生活レベルで立ち向かうしかないと思います。
しかし、そういう恐怖に加えてWHOという「国連」機関が
チャイナ独裁政権の「工作」によって怖ろしく変質した現実が顕在化した。
2ヶ月近く中国の情報隠蔽を助長し、今に至っても
中国独裁政権に配慮した発表と対応しかしていない。
国連の組織として、こうした状況では本来透明な判断を示し
各国政府に正確な情報を提示すべき国際機関が、このような状況を示している。
もしこれが他国で発生していたらまったく違う対応だったに違いない。
さらにこの感染病対策においてすら台湾を国際組織除外という非人道的対応。
という状況を目の当たりに見て、他の国連機関、国際機関などでも
このような「チャイナ汚染」は相当のレベルと想像するに難くない。
中国が進出する以前の国際機関の本来の姿に戻るしか、
世界の正常化はないのではと不安にさせられる。
国際秩序は気候変動に立ち向かうにしてもその大前提だと思うのです。
アメリカと日本は自国民を武漢から救出する飛行機を航行させ
さらにアメリカは強力な防疫体制を中国に対して発動させた。
こういった感染病対策は、自由な国境往来を支える基本中の基本。
厳守すべき国際ルールであり、その情報が品性いやしきマネーで汚染されるなど、
人類社会へのもっとも危険な挑戦だと言わざるを得ない。

残念ながら中国語が聞こえたら自衛的に身を遠ざけるように
当面の間は行動せざるを得ないと思います。
チェルノブイリの深刻な汚染からソビエトは崩壊したとされますが、
以前のSARSからまったく学習せず、この独裁政権は
むしろもっと邪悪になっていると言わざるを得ない。
当面はとにかく、各人が自衛的に対応するしかないのだけれど、
とりあえず、WHOについては世界市民として自己改革を強く求めたいと思う。

【東京渋谷で工事の喧噪をみつめるハチ公】

ようやく本日札幌に帰還の予定。
さすがにあれこれのスケジュール調整もしながらの行動なので、
出張中はまったく落ち着いた時間は持てません(泣)。
やむなく、断片的な日々のあれこれブログをお許しください。

写真は2日連続で出没した「渋谷」ハチ公前。
一昨日周囲は白いテントで覆われていて迷路のようになっていた。
その幔幕が外れて、「ハチ公前広場」っぽい雰囲気は復活していた。
いろいろな工事が集中展開しているので渋谷は
大変動期に突入しているのでしょうね。
きのうはクルマは事前に放棄して、山手線で渋谷に到着。
一番恵比寿に近い「南口」側地上改札を出てみたところ、
通路内は旧東横線連絡方面は白いテントで囲まれていましたが、
バスターミナルなどは以前と同じように存在していた。
しかし歩道橋はあちこちで寸断・変更されていて
目に見えているそこに移動するのに行き方に迷ってしまう。
しかも待ち合わせ場所のホテルが同名、ちょっと異名で3箇所ある
というこれも「迷路」状態で、会えるまでムダな時間を費やした。
しかし数時間滞在していたので、ようやく以前の渋谷の様子が
しっかり残っている街区部分も確認することが出来た。
総じてJR側の部分には大きなランドマーク的な変化はないようで、
東急側の動線がまったく変化してしまっているということ。
それに新たな超高層ビルが接合しているので
渋谷の「魔界迷宮」化が進んでいるように印象されるのですね。
慣れ親しんだ「動線」っていうものは刷り込まれているので、
こういう街の計画変更の場合、どうしても混乱は避けられないのか。
変化は「生きている街」として不可欠な要素だとは思うのですが
あらたな動線習慣がその地域で根付いていくまでには
もう少し、たぶん1−2年程度は掛かりそうですね。

まだ、地下鉄銀座線や井の頭線のほうには行っていないのですが、
とくに以前から迷宮的だった東京メトロの地下鉄線が
一体どういうアクセスになっているのか、
ちょっと「怖いもの見たさ」的な興味は強く持っておりますが(笑)
しかし、必要のない接触は避けたいとも思います。
しばらくの間(工事がどれくらいまで掛かるのか知らない)
会合場所として、渋谷はできれば避けようかなぁと
残念な思いを強く感じさせられました。
ただきのうは飲み屋街を逍遙して、そっちの方は
ごく慣れ親しんだ風情は残っていたことをご報告いたします(笑)。
早く落ち着いて欲しいなぁ、なつかしの渋谷シティ。