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【身に付ける「屋根」 日本の雨具・蓑と笠】

雨って、地球創世以来の太古から天から降ってきた。
人間が出現する以前から、生命はそれとどう対応するか、
それこそDNAレベルで「考えて」きた痕跡がわれわれの血肉に格納されている。
どう対応しようかと考えるのは、人類みな普遍の工夫。
人類進化が分化してそれぞれ民族で違いも生まれたのでしょう。
そのなかで日本列島という自然条件で暮らしてきて、
ヒマラヤ出発の偏西風と日本海の水蒸気がこの列島に多雨をもたらす。
結果としてこの地に存在する素材を活用して、雨対策の知恵が蓄積される。
石器時代の雨対策は、たぶん森林や洞穴に逃れることだったと思うけれど、
長い採集生活は、自然界への注意深い探査で素材の特性も見極めていたでしょう。
そういった探究心、工夫の結果、民族的な雨対応文化が生まれてくる。
定住は縄文の世から始まったけれど、漁撈と薪の周辺バイオマス採集に
最適な場所を選定して、生活拠点として家を建てたときその屋根材として
周辺に豊富な「茅場」を確保もしていたと想像できる。
定住革命と同時に「萱」などの繊維利用が開始されたのだろう。
アイヌ集落などでは、集落共同の茅場は屋根材資源確保で必須条件。
まずは家の雨対応策、その確保実現があってそこからさらに雨具が考案された。

日本では雨具は、ながく「蓑・笠」が一般的だったと言われます。
童謡で案山子を揶揄するのに
「天気も良いのに蓑笠つけて・・・」と歌われるほどに日本人の暮らしに根がらみ。
傘も古くから存在していたとされるけれど、なんといっても高価だった。
比較物価的考証では、江戸時代中期頃で1本2万円程度から
安価なものでも5-6000円程度はしたとされています。
それに傘は、手が1本それに取られるので「ながら」労働には適さない。
適度の体動の自由さと、雨水防御を両立させた「笠」はオモシロい。
そしてカラダ全体を覆って動ける「蓑」は、
その素材が藁などの繊維素材でまるで屋根素材そのものであり、
屋根をまとって動き回るというイメージが強かったのではと想像する。
日本列島は先述のように多雨が特徴的な文化圏だと思います。
そしてその気候風土に根ざして萱などのストロー繊維質が自生し、
それを束ねることで防寒性や防雨性を見出して利用し始めた。
そういった無数の先人の知恵にうたれる。
萱などの内部空洞繊維質素材は「防雨」性能の理由が以下のように言われる。
1)茅が厚く葺かれているので、下まで浸み込むのに時間がかかるから。
2)雨で濡れた茅が膨張して隙間を塞ぐから。
3)中のいろりの煙で茅に付いたススが雨をはじくから。
4)棒状の材料を束にしたものによる導水効果で表層だけ水が流れる。
5)ガラス管束を少しずつ隙間を空けた実験で雨漏り防止効果が実証。
・・・というような科学的な解明が進んできていて、深く納得させられる。
日本列島で人々が定住をはじめた縄文の世から
屋根と言えば萱葺きを最上と考える知恵があり続けたのでしょう。
蓑は、それとほぼ同様の発祥であっただろうと推定できます。
雨が非常に多い地域なので雨だから休み、というわけにはいかない。
早くから「水田」耕作を続けてきたので、雨中の労働機会が多かったのかも。
労働を確保するためには、アタマに対して「屋根」をかけて防御して
しかも両手を自由に動作させられる蓑は、革命的だったのではないか。

当たり前ですが、人類の知恵というのは急に進展するのではなく
先祖から連綿と工夫してきている様子がいかにも興味深いなぁと思います。

【いい家とはなにか?/1758年から8代の新潟豪農】



一昨日のブログでムラ共同体での家と戦後ニュータウンでの家の相違、
あきらかに次元を異にする日本の「家」概念にポイントを絞ってみた。
戦後社会が、集団就業の大資本勤労者・農家の次男三男層向けに
「都会でなら誰でも家を持てる」と日本人に普遍的な心理的ロマンを提供し、
都心から遠距離だけれどニュータウンに大量に持ち家を実現させた。
勤労者に約束した「持ち家」は確実に実現したのだ。
しかし、ではそれが「永続する家」であるかどうかは未知の領域だった。
ニュータウンにある家は「末代まで続く家」かどうか、いやむしろ、
多摩ニュータウンが象徴するように戦後社会の幻視になりそうなのだ。

しかし一方で、ムラ共同体の「家」意識の方は健在かというとそうではなく、
その価値感もまた、大暴風とともに消え入りつつあると思う。
写真はそのものズバリの命名ですが新潟の「豪農の館」。
この家はまさに江戸期からのムラ社会での最大の「成功者」痕跡なのだ。
というか、こちらの家は江戸期にさかんに「干拓」を行って、
沼沢地を農地に改良してその所有する土地を広げていった。
やがて結果として小作たちの集住するムラができていった。
なので、一種の農地開発デベロッパーと言えなくもない。
当然開拓した広大な土地はこの家が所有し、小作・農奴が使役された。
そして幕末明治の「階級変動」で全国的に「大地主」層が勃興する中で
最盛期を迎えていった。先に見た「富山の豪農」とまったく瓜二つ。
日本の資本主義が武士の解体と同時進行して「土地が担保価値」という
金融資本主導型の発展に向かった結果、これら大成功者が生まれた。
発足間もない銀行は、まずなによりも「担保」を求め、
江戸期までに土地持ちになっていた階層に対しあらゆる「資本」を提供し
殖産興業に当たらせ、明治新政府側もそういう身分上昇した階層を
あるいは政治家として、資本家として取り込んで日本資本主義を成立させた。
富山の豪農もほぼ同様な経緯で地域の「有力者」になって国会議員にもなる。
明治維新から戦争までの社会は基本的にそのようにして骨格ができた。
それが第2次世界大戦敗戦の結果、農地が開放され「民主化」された。
しかし現代に至るも、基本的には土地こそが基本担保になるというのは
わかりやすい社会経済構造原理だといえるでしょう。


・・・いまこの家は大空間座敷の庭の眺望が話題の「テーマパーク」と化している。
江戸期までの大名家かと見まごうばかりの「系図」がこれみよがしに
展示されているけれど、「偉人」とはどうも素直に受け入れられない。
またこれはムラ共同体社会の成功者典型とは言えない。
住居痕跡としてはむしろ、明治の急激な資本主義勃興期の富の集中痕跡。
ムラ共同体に対しては新興の富豪権力者という存在であり、
その財力に拝跪させられる対象ではあっても、尊崇すべき対象とは思えない。
歴史の中で一瞬光芒を放った階層だが日本的メンタルからは距離がある。

住宅の豪華さのなかに空虚感が漂っている、
こうした「成功者」たちの罪業感が有島武郎のような飛躍行動を生んだ。
太宰治の小説世界的な心象のうつろさを感じるのは、わたしだけだろうか?

【管理が困難な「Apple ID」問題 う〜む】


全国の、いや全世界のMacユーザーのみなさん、お元気ですか?
あ、Win使いのみなさんも(笑)。
わたしが長年、困っていたことがありまして、日曜日に家にい続けたので、
ようやくAppleの相談電話窓口に問い合わせをすることができました。
普段は、「ありゃりゃ」とは思っても、問題を回避し先送りしていたのです。
問題点とは「Apple ID」についてであります。
Macユーザーのみなさんにはお馴染みのAppleのユーザー管理システム。
Winに似たようなものはあるのかどうか、不勉強で知らない。
Macパソコンを新規導入すると、あるいは初期化してOSインストールすると、
必ずシステムの方から問いかけてくるのがこれ。
「Apple IDを入力してください、お持ちでない場合は新規登録してください」
白状するとわたし自身もApple IDは4-5個持っている(泣)、もういらない・・。
登録内容の記憶がメンドイのでつい新しく作ってしまったりしていたのです。

パソコンという性質上、個人ユーザーを想定して
その「管理」をメーカー側として確保するための手段、ルートとして運営されている。
ただOS自体のインストールとか、更新についてはこのApple IDは紐付いていない。
なので、根底的な問題を惹起したりすることはない。
また、多くのソフトウエアは各メーカーごとに管理されているので
Apple IDとはまったく無関係。なので業務上は大きな問題は出ない。
しかし、Macオリジナルのソフトウエア、Pagesなどについては
これが紐付けられているので、それらを使うと頻繁に「最新版にアップデート」という
「親切な案内」が繰り返し発信されてくる。
ここでうっかりアップデートと答えると、Apple ID地獄(笑)が始まる。
・・・詳細はアタマがこんがらかってくるので割愛(笑)。

「こういう問題の回避方法を教えて欲しい」というのがAppleへの問い合わせ。
結果を先に言えば「その通りですね。う〜む」という答え(泣)。
Apple IDはApple社内的にも十分に対応策が練られているとは言い切れない。
古くからのMacユーザーとしてはこの手のクラウドビジネスでは
Apple社は決して褒められた対応はできていなかったと思わされます。
「ひとつの回避方法としてはソフトをいったん消去して、再度インストールされれば」
という提案がありましたが、そのソフトの「環境設定事項」まで削除するのは、
UNIXベースでありいかにもメンドイ作業で、トラブルも惹起しそうなことは確実。
ただ、こういった問題についてAppleでも認識してくれたというのがせめてもの救い。
Macは使いやすくて最近はシステムも非常に安定しているし、
このことで即どうこうもあり得ないので、メーカーさんの対応を待ちたい。
最後は「よろしくお願いします」とお願いした次第。
Apple IDという名詞、これでもかと多発してしまった、申し訳ありません(笑)。
アメリカ資本主義、信頼して忍耐するしかない・・・。

【家は末代か一代か? 持続可能な「住宅地」とは】

住宅雑誌+WEBを、主に注文住宅ユーザー向けに発信しています。
そういう情報メディアなので「どう建てるか」という探究がメインになる。一方の
「どこに建て、住むか?」という必須興味分野については前提条件ということで
あまり深く考え込むことは少ない。
気候風土条件としての必須な性能要件もまた普遍的条件の一端。
土地選択はあくまで建て主さんの生き方選択要件であり、
それについては受動的に「受け止める」ということになる。

しかし、自分自身の家づくり・環境選択ではこの
「どこに建て、住むか?」というポイントはきわめて大きかった。
「将来、この地域がどうなっていくか?」というポイントは人生の長期戦略選択。
当たり前だけれど、将来的な「不動産価値」としてきわめて重要。
また多くの住宅取得者にとって「先祖代々」とか地縁血縁条件は希薄になり
住む土地自体、いわゆる無名性の強い「郊外大規模開発住宅地」選択も多い。
そういった無名性条件の拡大が大手デベロッパーやハウスメーカーという
「量の市場条件」に最適化された事業者が業界主流を形成する要因になる。
大量生産・大量消費の資本主義的システムに順応するということになる。
しかし今日、その社会システム自体も「老朽化」してきている。
東京などでもいっときの「ニュータウン」が一斉に高齢化して
やがて地域の流動性発展性が毀損し停滞していくことが問題化している。
多摩地区などが象徴的ですが、それ以外の地域でも
ただただ現在の土地価格条件だけで住宅地の遠距離化が進んでいる。
都心の勤務先への「大量輸送」を前提としてほぼ同一年代のユーザーばかりが
その地域に集住し、その年齢構成のままに地域が衰退するという問題。
メディアとして「注文住宅での好適な環境作り」という視点だけでは
解決しにくい「住宅問題」が浮上してきていると思うのです。

この問題は日本人の伝統的住宅価値感、家の存続というテーマとも関わる。
資本主義的な社会システムとして地方から都市圏に人口移動させ
かれらを労働力として集約することで日本は社会発展してきたけれど、
それ以前の社会システムは、地域共同体「ムラ」社会型であって
地縁血縁が優先されたシステムだった。そこでは家とは永続するものであり、
家系の発展を建築形式で表現したものというのが普遍理解だった。
そういう社会で土地取得が難しい農家の次男3男層が都会に出ていく。
江戸期を通じてそのように社会が機能し江戸は人口調整機能を果たしていた。
ムラ社会では人口が増え続けたが、江戸で独立して伝承可能な
家系を新たに開くというのは、非常な狭き門であり、
そもそも極端に男性が多いいびつな人口構成で、そういう流入人口が
「所帯を持つ」ことは、事実上、非常に難しかった。
江戸期を通じて、そのような人口抑制機能を大都市は果たしてきたといえる。
それが機能した証拠に元禄頃到達の3,000万人口が幕末まで固定された。
明治、また戦後以降、資本主義的発展が進行して、
都市労働力層がふるさとを離れニュータウンに現実に家を持てるようになった。
このこと自体は江戸期からの大きな社会問題の解決ではあったけれど、
しかし田舎のように生産手段・田畑と近接した住宅ではなく、
ただただ、人が住むという機能にだけ特化した住宅であるに過ぎない。
言ってみれば「どう生きるか?」の機能がない住宅なのだ。
働く場所は満員電車で数十キロ先にあってその間を往復する人間環境。
生産手段と切り離されたそういう「集住環境」が永続的かどうかは
まだ、社会的に解明されてはいないというのがいまの現実だと思う。
こういう住宅を子どもたちはふるさとと認識し、永続を願うかどうか?

この問題、社会システムとしてまだ誰も「解」を持っていないのではないか。
そういう不安を感じているのはわたしだけでしょうか?

【明治資本主義の受益層・大地主の茶道趣味】



さて江戸期を通じた富山の豪農・内山家の時間超越取材シリーズ。
あんまりお金持ちの家には感情移入しにくい部分があり(笑)
それほどツッコミすることはないのですが、
長く続く家系記録も参照できたので人間ドラマも見えてくるオモシロさがある。
きのうは1700年代を生きた当代の「旅行趣味」にスポットを当てた。
本日はいまに残っている豪農住宅の建築年代、1868年という幕末明治。
きのう見た1700年代では一時1000石⇒300石まで衰微したものを
600石まで盛り返し、還暦後さかんに旅行を楽しんでいた様子を記載。
で、幕末明治にいたって、この当時は1000石に版図が復元している。
明治期は大地主層が隆盛を極めた時期と言われる。
地方地主層が財力で新興階級としてのし上がっていった。
太宰治など文化芸術分野でも、社会の最有力層として足跡を残し始める。
たぶん太宰の根底にある「不安感」は、急上昇階層の心象特徴なのかも。
たしかにこの階層がどういう「努力」をしたのか定かではない・・・。
個人としての努力をはるかに超えて社会の趨勢があった。
日本は資本主義が勃興するとき、その「担保価値」として土地が最上として
それを根拠とした進歩発展があった。必然的に土地持ちに権益が集中した。
金融資本自体勃興期であり、カネを貸す担保は土地がわかりやすかった。
結局、人の世というのはその時々で支配層は「循環」するのだと思う。
まぁ現代で言えば、さしずめマスメディアなどは
社会的地位としての既得権受益層というように言えるかも。
戦後体制構築の占領時、米民主党左派がメディアに第4権力構造を与えた。
・・・おっと、横道。で、この内山家も、家運の最盛期を迎えたようなのです。
この松世さんはその家の財力で資本家として活動を活発化させ、
政治家としても国会議員にまでなっている。地方有力者という存在ですね。

いまに残るこの豪農邸宅で特徴的なのが写真のような茶道趣味。
いかにもワビサビを感じさせる石材選びと、その構成ぶりに
「数寄」こころを強く感じさせられます。
1868年にこの住宅を新築したのは、第11代当主の年彦さんなのですが、
その養子・12代の松世さんは京都に遊学して茶道の師匠についている。
藪内さんという「宗匠」という。Wikipediaで調べてみると以下のよう。
〜藪内流(やぶのうちりゅう)は茶道流派の一つ。
古儀茶道藪内流とも。浮薄を戒め利休時代の茶風を留めているとされるが、
これは紹鴎・利休の侘び茶に織部の武家茶の影響をいれたものである。
庵号は燕庵といい、織部の考案による相伴席付三畳台目の茶室を指す。〜
松世さんは男子の継嗣がなかった先代・年彦の弟の子・甥にあたり、
年彦の娘さんと結婚して家を継いでいる。
父親は内山家から出て別姓を名乗っていて、こういう経緯で本家に迎えられた。
本家の財力が大きく縁者もまた京都遊学の機会を得るほどであったのでしょう。
遊学先は内山家は京都が出自という縁もあったのではと推測できる。
こういった石材へのこだわり、という文化は知ることが少なかったので、
「へえ〜〜」と、オモシロい世界を知った気分であります。
この写真の石材の選別配置・結構についても藪内宗家を招いて吟味させている。
また、藪内家出入りの大工棟梁たちがこの建築を手掛けたとの記録。
北陸富山の「地域性・気候風土」への対応という環境性よりも
京都風の文化権威拝跪型の志向がきわめて強い住環境、住文化。
石材の説明などは写真をじっくりご覧ください。ふ〜む、であります。
人間の最後の興味分野は石だと、昔に聞いていたような気がする。
しかしまだまだ修行が足りず、そういう境地にはほど遠いわたしであります。
あ、石器時代にはたいへん興味が強くなってきている。ひょっとして・・・。

【江戸1700年代のGoTo旅・富山豪農の人生】



江戸時代というのは、けっこうな「旅行ブーム」の時代。
庶民の物見遊山の旅行というのは、届け出段階で禁制されていたけれど、
それが神社仏閣詣でなどの宗教がらみになれば緩やかに許可されていた。
「旅行用心集」というようなベストセラー「旅行ガイド」も江戸版元から出版され、
「お陰詣り」に庶民は繰りだしていたとされる。
現代にいたる神社仏閣への参詣心というのは、こうした旅行実利と一体となって
日本人の生活習慣、心理に深く浸透していったものと思えます。
本音とタテマエという2重基準の使い分け要領が良かったと思える(笑)。
で、きのう触れた「富山の千石地主」内山家の1701年から1780年を生きた当主、
逸峰さんの旅行記録があった。その様子に注目し暮らしと趣味生活の取材です。

この人の生きた当時の内山家の経済状況はけっこうな浮沈ぶり。
家の基本版図「1000石」の収入があったところ、おじいさんの代に
近隣の河川氾濫があって新田開発の必要が生じ、積極的に経営拡大し、
一時期1700石まで版図を広げていたとされる。多少のムリもあっただろう。
そしてそのおかげでか、藩主はこの内山家に頻繁に出入りして、ついには
父親の代に藩から金づる利用されたのか、資金的に借金が嵩んだようで
1729年頃には一転して300石程度まで版図が縮小する。
借金返済苦境のために農地を切り売りしていったのだ。
そのような家の経済状況の中、36才のときに逸峰さんは当主を世襲した。
そこから地道な復興努力を傾け1745年・43才当時に600石まで回復させた。
ちなみに1石というのは人1人の1年間食べるお米の量に相当する価値。
全国の石高は幕末で3000万石と言われ事実人口も3000万人だった。
当時の内山家の奉公人は44人で馬を15頭飼育していたとのこと。
このころの家屋敷の面積状況が書き付けられている。
●母屋 3.5間×9間=31.5坪●作事場 5間×15間=75坪●馬屋 4間×6間=24坪。
●中屋 2.5間×9間=22.5坪●物置勝手  3.5間×9間=31.5坪。
工場一体型家屋と考えると、総面積184.5坪建築物の所有「企業」。
現代の日本人の1人あたりGDPはざっくり500万円とされるので、
44人雇用+扶養家族もカウントすれば、およそ100人分のGDP相当と推計。
そうすると5億円程度の「総GDP」規模の企業ということになる。
製造業平均で仕入費用が50%と勘定すると、総売上10億円企業程度かなぁ。
<GDPは付加価値の総量なので、仕入を除外した金額と考える。>
っていうことは売上げ5億くらいまで落ちていた業績を倍増させたのと同義か。
ちょっと荒唐無稽かも知れない積算ですが、大ぐくりの把握数字として。

で、本題のかれの人生の「旅行遍歴」であります。
●若い20才で「伊勢参り」に行っている。若いボンボン「旅をさせろ」か。
それから家業に精励して家勢を衰退期から倍増と復元させたところで
還暦になってから余生と考えたか、頻繁に旅行に出かけ始める。
●60才 京都 ●63才 京都・大阪・明石・伊勢
●同年 弥彦・新発田・米沢・山寺・松島・鹿島(神宮)・日光・江戸・善光寺
〜〜●74才 大津
と、写真2枚目詳細のようにほぼ毎年10回の旅行に出掛けているのです。
家系伝承では京都の出自とされているので、まずは遍歴はそこから開始したか。
当時の旅行はひたすら徒歩旅行でしょうから、なかなかの健康ぶりであり、
また、その費用負担も可能なほどの財政状況だったようですね(笑)。

ちょっと懐勘定も交えた歴史的推理での「取材」ですが、
この人の人生の状況が総合的に垣間見えて、人間的親近感を抱きます。
江戸期がずいぶんと身近に感じられてオモシロい。

【江戸時代富山のトランプ邸?/日本人のいい家⑨】




タイトルが刺激的かなぁ(笑)。ひょっとするとFacebookからBANされる?
わたしは特段トランプさんに好悪の感情は持っていませんが、
アメリカメディアのやや冷静さを失ったようなトランプ叩きには
他国の冷静な一国民としてちょっと疑問を感じております。
冷静な現状としては、まだ選挙結果は「確定」していない。
これは以前のゴアとブッシュの選挙でも同様にもめていたのと
そう大差のないゴタゴタが続いているのだと思います。待つしかない。
日本にとって最優先にすべき唯一の同盟国であるので、
大いに関心は持たざるをえないけれど、冷静な判断がしかるべきだと考えます。
ただ、外交は待ったなしでいろいろな動きをしなければならない。
現状で「優勢」とされる候補側と連絡を取るのは必要でもあると思います。
本来であれば静観もあり得たけれど、EUが動くというタイミングで
バイデンさん側と話し合って「尖閣防衛義務」言質を取れたことは大きい。
いま日本ができるのは、現状維持なのだと思うのです。
中国側から「激しい反発」というのは、かなり効果的というサイン。
自由世界側の台湾防衛と一体と見なせる尖閣の防衛は明確な発信。
中国は台湾と尖閣を一体と見なして対外攻勢を行ってきている。
日本の国益としても世界の平和を守る意味でも、尖閣の現状維持は
非常に重要なポイントになって来ている。この世界情勢感覚は不可欠。
・・・話を戻すと、アメリカメディアのトランプ叩きはやや度が過ぎる。
アメリカ人ではないので、肌感覚はわからないけれど、
どうもいわゆる「不動産屋のオヤジ」的レッテル貼り、人格ヘイト攻撃が
目に余る。仮にも7,000万人以上のアメリカ人が信頼して投票した人物。
日本メディアがその尻馬にただただ乗っているのは見苦しく嘆かわしい。

おっと、タイトル付けから横道に逸れまくり(笑)。
富山の「豪農館」という住宅建築であります。
内山家というお宅ですが、明治になって家系は東京に移転されて
この建物は富山県に寄贈されて、その後一般公開されるようになっている。
WEBページの概要を見ると要旨は以下のようです。
〜富山県民会館分館内山邸は、越中の豪農・内山家の邸宅・庭園等を、
昭和52年8月13代当主内山季友氏から富山県へ譲渡されたもの。
内山家は1521〜1531年頃、富山市内地域で新田開発してから
450年続いた家柄で、資料で確認できる累代では季友氏が13代目。
歴代当主は富山市内神通川の氾濫原野の開発新田に基礎をおく自営大百姓。
富山藩時代には十村(とむら)役として地域の勧農・治水にあたり、
たびたび富山藩主の来訪も受けた。明治以降地主制度のもとで最大繁栄期。
この建物の大部分は11代内山年彦によって幕末1868年に建てられたもので、
江戸時代の典型的豪農屋敷の構えと生活様式をとどめている。築150年。
座敷、広間等の構成は伝統を受け継ぎ、いろり部屋、にわ(作業小屋)等は、
農家としての特色を残す。また明治期12代内山外川氏によって改装された
表座敷や書院の一郭は選びぬかれた材料でつくられ当時の「千石地主」の
繁栄ぶりが偲ばれ広大な庭園とともに深遠な趣きをただよわせる。〜


・・・という邸宅。「日本人のいい家」という範疇として考えたとき、
庶民性からはかけ離れているかなぁと思いましたが、「千石地主」という
不動産王の「御殿趣味」、住宅へのこだわりのありかを探ってみた。
広大な家屋敷で江戸期までの日本人成功者の心情があらわれている。
「結構」な空間として特徴的な庭の景観を楽しむ「月見台」。
そして茶を愉しむ空間では、独特の窓造作などが見られた。
こういった趣味傾向にお金をかけるというのが江戸期までの金持ち心理。
カネで成功した人間として、自分は文化人としても優れているのだと
そのような自己顕示メンタルの方向に向いて行くのかと推察されました。
文化的な中央権威への無条件の翼賛が感じられ、
生業感、生きる必死さのような部分ではややうつろを思わせられる・・・。
結局自分は住宅を通して住む人の個性・生き方を知りたいのだと気付く。

【石器時代以来の普遍技術〜船大工】




住宅の領域でながく雑誌とか情報に関わってきたけれど、
その基礎になる大工技術は、発展の最初期に船大工と家大工に
大きく分化したのだとその歴史的経緯を教えられることがある。
家大工より先行して船大工の歴史がありそこから家大工は分かれたと。
木造住宅というのは、せいぜい数百年程度しか存続し得ないけれど、
世界最古の丸木舟は、オランダで発見されたもので
炭素年代測定法により、紀元前8040年~紀元前7510年ころのものと推定。
(同国のA28自動車道を建設中の1955年に発見された。)
ということは、約1万年以上前のものということになる。
日本の歴史で言えば縄文時代真っ最中ということになる。
しかし人類がグレートジャーニーで世界の全大陸に進出したことを思えば、
はるかに先行する時代から船大工技術が存在していたのは明白。
現生人類8万年の出アフリカ歴史と随伴して船大工技術はあったのだろう。
人間の移動手段として水上利用はきわめて原初的。
現生人類はアフリカを出発してから、いくつかのルートに分かれて
アジアに到達したけれど、海沿いに東進した人々は海を右手に見ながら
この列島にやってきたに違いない。この旅の記憶が人類には深く刻まれている。
ユーラシア大陸最東端から船で沖縄諸島・日本列島に人類が到達したとき
(おおむね3万年前くらい)そのときには船でやってきたことは確実。
海を渡るという冒険心はすごい飛躍だと思うけれど、そのためには当然、
木を伐採して船を作る、という技術が前提になっていなければならない。
それも大海に挑戦するには造船技術の何段階もの技術進化も欠かせない。
当時広大な陸地だったと推定されている「スンダランド」と名付けられた
現在のインドネシアとかインドシナ・フィリピンエリア、台湾地域は
まるで人類の揺りかごのような地域だったと想像されるけれど、
そこから冒険者たちはあらたに太平洋を渡ろうと考えて沖縄諸島に来た。
これは以前放送されたNHKの人類の旅番組でのストーリー。
おおむね事実と推定しうる根拠があると思っています。

石器時代というのは、移動採集生活の時代。
そういうライフスタイルにあって船を使うというのは、
移動手段として最先端技術であったに違いない。
というか、木が水に浮かぶ公理を技術に利用した人類知はすごい。
狙った獲物への接近手段で水上移動は有用性が高かったのは想像に難くない。
陸上と水上の2面作戦は狩猟にたいへん有効だったと思える。
一番上の写真はエジプトの船大工の様子を描いたレリーフ。
2番目の写真は縄文時代の時代相の博物館展示。(富山と新潟)
そして3番目は現代の中東に残された船大工技術の実演風景。
上の2枚の画像からは、石斧が重要なツールとして表現されている。
現代は石斧から鉄製の斧に置き換わっているけれど、機能は同然。
木を切るとともに、丸木をくり抜いていく作業は人類普遍の知恵だとわかる。
この石斧は縄文に先行する石器時代からの「伝統技術」であることが明らか。
石斧は現世人類ごく初期から有用性のきわめて高い道具だった。
木を加工するときにこれを使って切ったり、掘り込んだりしたのでしょう。
この石斧の進化史をたどっていけばミッシングリンクが見えてくる予感。
船大工技術はこう考えると、相当古層で人類進化の大きな要因だと思う。
木造と人類進化の歩み、いよいよ面白みを実感させられる。

【アイヌチセはなぜ「平地住宅」になったのか?】

アメリカ大統領選の帰趨はどうも明確にはならない膠着状態。
激戦各州で再集計作業が始められてメディア各社のバイデン勝利報道についても
「確定票」としては過半数270に届いていない、というアナウンスになってきた。
いま現在バイデン259対トランプ214ということでストップしている状況。
当面、このような混乱はどうも収まりそうもないようです。
そういうなかで新型コロナの広がりは予断を許さない。・・・
不確定要素の多い2020年11月。で、札幌は一気に冬景色。
このまま根雪になるとは思えませんが、朝の散歩は雪景色に突入であります。

ということで本日は伝統住宅探訪であります。
北海道で古民家とは縄文期以来痕跡が存在する。
有名なのはアイヌアイヌチセなんですが、北海道内での住居の系譜では
それ以前の時期とは、大きな「断層」が存在する。
最近よく取り上げている「竪穴住居」ではなく、
日本史の鎌倉幕府に相当する時期ころから、
それまでの竪穴に代わって「平地住宅」のアイヌチセが出現するのです。
図はアイヌチセの建築プロセスですが、見てわかるように
床面が平地のまま、基礎を掘り込んだりしないのです。
現代では竪穴伝統の継承とも言える「凍結深度」以下まで地面を掘り下げて
冬期の土壌冷却での「凍結」に気候対応するのが寒冷地住宅の基本。
むしろそれ以前は竪穴として気候対応していたのに、なのです。
なぜ、竪穴から平地住宅に代わったのか、という大きな疑問。

まぁ本州社会、ヤマト社会でも竪穴から徐々に平地住居に代わるので
よく似た事情がそこに投影されているのではないかと思っている。
そういった変化には「ミッシングリンク」がなにかしらあるのではと
想像できるのだけれど、なかなかそういう痕跡が明らかではない。
先日、移動採集社会から定住の住宅に移行した時期のミッシングリンクとして
「穴を掘る技術」ということに着目したのですが、
竪穴から平地住宅という場合には、どうもこういうのが見えないのですね。
動機についての想像では、竪穴の最大の弱点が春先になると床の土面が
湿潤になって乾燥状態になりにくく、いごこちが悪くなるという説がある。
江戸時代に北方探検した日本人が北東アジアの人々の竪穴を訪問して
そのような記述を残している。北海道と同様の寒冷地で、
竪穴は「冬の家」としてあり、併置的に「夏の家」として
高床式の通風重視の家も持っているという記述があります。
理解出来る合理的居住環境選択だと思われるのですが、こちらの
アイヌチセの場合は、竪穴から一気に移行している(と思われる)。
まぁ考えられるとすれば、気候の温暖化ということがありえる。
寒季の気温が平地住宅でも越冬可能なほどに上昇していた可能性。
さらにこの時期、竪穴のかまど+囲炉裏という「土器」ベースのキッチン環境から
広範に「鉄鍋+自在鉤」という囲炉裏だけで用が足りる「食卓革命」が
アイヌの人々の住環境を大きく変えたのではないかという説もある。
・・・いまのところは、想像の域は出ていないのですが、
このあたりの研究は不勉強で、説得力のある説明に出会っていません。
北海道の住宅革命というと、明治以降・戦後の高断熱高気密化が
もっとも大きな変化だと思いますが、それに遙かに先行してやや逆行的な
この平地住宅革命も現実に起こっていたのは事実なのです。さて真相は?

【バイデン4年前発言「日本国憲法は我々が作り押しつけた」】


アメリカの大統領選挙の混乱を横目で睨みつつ、
とはいえ国際関係は停止しているわけに行かない。
先日書いたようにバイデンへの「祝意」を日本・EUが表明した。
菅さんの場合、Twitterでの書き込みという「祝電」とは違うカタチ。
EU首脳も同様の「フランク」な表明とされる。注意深く媒介を選んでいる・・・。
4年前の選挙のときには、就任プロセス前のトランプさんに対して
たまたま訪米日程が組まれていた安倍首相は急転その自宅を訪問した。
正式な外務省ルートは機能せず、政治家・安倍晋三のネットワークから
仲介者を探し出して。正式外交ではないので逆にツッコんだ話し合いができた。
政治家同士の本音の部分を確かめられたことで、その後の日米関係が
特異に接近し、いわばこの4年の世界の枢軸的なものになっていった。
今回のバイデンについては前・オバマ政権の副大統領であり、
すでにさまざまな人物把握、性格特定ができているだろうから、
トランプのような未知数部分は少なく、外交常識的範囲になる可能性が高い。
菅首相も2月訪米を視野に入れているとされている。

今後、バイデン政権についての本格的な分析検討が始まっていくと思う。
メディアなどがどういうポイントに比重をかけてくるかはいま不明だけれど、
わたし的にはより親中的なスタンスを取る可能性が高いと感じる。
先日も書いたが、スーザン・ライスという女性が国務長官候補に擬せられている。
米民主党スジからのリーク情報と思えるが常識的な信憑性があるのだろう。
たぶんこういった情報の流れが正解になっていく政権と予測できる。
彼女は黒人女性でかねてオバマ政権で国務次官補を経験している。
その事跡からかなりの「親中派」と目されているワケ。そうであれば、
トランプ政権の表面的な現状追認から、中国重視に復帰する可能性が高い。
それは日本にとって対中「抑止力」の減衰を招来させる。
台湾にとってこの「変動」は死活的であり同時に尖閣も危機レベルが上昇する。
アメリカの抑止力が減衰すれば東アジアのパワーバランスは崩れる。
オバマ政権時点への世界史時間の巻き戻り。中国の侵略に無反応なアメリカ。
そのとき日本はどう対応すべきか、日本自身に問われてくる。
必然的とされるのが日本の自主防衛力・抑止力の向上。
そのときにポイントになりそうなのが、4年前副大統領当時のバイデン発言。
「日本国憲法はわれわれが作って押しつけた」というもの。
まぁ大統領選挙の渦中での副大統領発言ではあったけれど、言外には
(日本を無力化させるために)という意味合いが込められていた。
国の根幹に関わる事項での発言であり、独立国家に対して侮蔑的態度。
ふつう副大統領・常識的政治家なら、日本の国体への「配慮」はあるべきだろう。
たとえそれが世界常識的真実であっても、だ。
占領した側がこうも正直に自白しているのに、しかし当の日本国内では
現に周辺隣国から脅威を仕掛けられているのに「他国の善意を信頼して」
無防備とする憲法9条を金科玉条とする勢力が根強く存在する。
日本の国防研究を妨害し続ける学術会議もこうした日本無力化のひとつの仕掛け。
バイデンはまさに正直に、戦後一貫した米民主党左派の対日無力化戦略を語った。

この発言について、日本社会は発言の真意を確認する必要があると思う。
言ってみれば占領国による国際法違反の暴挙が自白されたのだ。
(占領国が相手国に憲法を押しつけるのは普遍法「民族自決」への国際法違反。)
そしてアメリカ自身のパワーが衰退していく一方で、このドクトリン通りに
自縛的憲法を日本はいまだに克服できていない。
この自縛的憲法によって中国・北朝鮮・韓国のわが国への侮蔑外交がある。
「なにをやっても反撃してこない。米軍にさえ配慮すればいい」・・・
米民主党政権・軍による占領からいまに引き続く米軍駐留の現実があり、
日本社会の裏の統治コントロールシステムが陰に陽に社会に張り巡らされている。
日本学術会議のありようを通じて、米民主党左派が作った占領システムが
実質的に日本社会を占領し続けていることが客観的事実として暴露された。
いまに至る日本メディアの基本的ありようもこのシステムの一翼とされる。
・・・日本の構造、戦後世界の構造がさまざまに暴露されつつある。

もちろんこういう社会構造システムのなかでもわれわれは日本の「平和」を確保し
自立を探ることを冷静に追究しなければならない。しかし
占領・米民主党左派の日本永久支配を自白したバイデンは前言をどうするのか。
「いやあれは・・・」と、外交上なかったことにし続けるだろうか?