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【30年目の温水洗浄便座メンテ補修】



本日は札幌も暴風雪〜大雪です。ついに、であります。
朝早く起きて外の様子を窺ったら、暴風雪が渦を巻いているではありませんか(泣)。
目視的には積雪も40-50cmくらいは積もっている感じ。
すこし暴風が収まるのを待って、雪かき作業に入る予定。う〜む。
ここのところのマイナス10度超の寒さは異常のようで、
「水道管凍結」が続発している。4日には札幌で1,000件超の問い合わせとか。
コロナ禍も1都3県で「非常事態宣言」ということですが、真冬に突入日本列島ですね。

一方わが家のトイレ、ここ2−3週間ほど上写真矢印の部分ランプが点滅を始めた。
スワ、そろそろおシャカ(言い方、古っ)到来なのかと、一瞬思った。
なにしろこの建物は建ててからことしで30年になる。
一昔前までだったら、もう「建て替え」の時期になるのかも知れない。
しかしわが家は大きな工事だけでも3回は経験しているし、
なんども手を加えてきているので、まるで古家感はありません。
でも確かに家具的なものとか設備などは老朽化してきて、
気をつけている必要はあります。
なんどかの工事で設備を入れ替えたりもしているので、
「あ、こいつは30年前当時のヤツだ」と判断する必要がある。
洗浄便座って、単なる衛生陶器ではなく一種の「家電品」として
お湯を作ったり、便座を暖めたりという機能を果たしてくれている。
ほぼ日本人の生活に欠かせないアイテムになったものだろうと思います。
一時期、中国からの観光客が異常に感激する、あるいは、
商品メーカーロゴがカッコいいとヨーロッパで注目されたりした。
30年前でもほぼ普遍化していた設備なのですが、
そういえばメンテナンスは一度もこれまで必要なかったヤツであります。

問い合わせたら以下のような返答。
「点滅は、そろそろメンテナンス時期ですよというお知らせ」
点灯しているから即座に運転停止するというものではないと。
で、1ヶ月くらい掛かってメンテナンスに来てくれた次第。
分解してチェックしていたようで、結果2枚目の写真のように
内蔵されている本体温水タンクと、電熱加熱部分を交換することになりました。
途中、いったんは水を落とす必要があるので、
他の階のトイレも水が流せなくなったりというアラートもありましたが、
無事に交換完了いたしました。
トイレ側面側から少量、水漏れ事象も認められたのですが、
それは本体のプラスチック製タンク隅角部のわずかな部分からのもの。
プラスティック製品というのもけっして寿命は長くはない。
ものというのは、やがて痛み壊れていくのが必然の定めなのだと思います。
そういうものをしっかりとコントロールし続けられるよう、
人間のアタマと体の方も、しっかりケアしてメンテを欠かさないように。
少しでも人に迷惑を掛けずにピンピンコロリ人生を心がけたいと思います。

PS
ただいま5:30に1時間半掛けた除雪作業を終えた、ふ〜。
膝までの軽い雪でした。はやくに片付けるとふわふわなので、雪かきがラク。
まずは自宅周辺をおおまかに雪処理した後、
ちょっと位置が離れて借りている駐車場からクルマも2台救出。
こちらも軽い雪質なので雪にハンドルを取られることもなく脱出。
借りている駐車場の方は、貸主側の除雪態勢に任せます。ふ〜〜。
コロナに寒波、大雪ですが、みなさん頑張りましょう! 明けない夜はない。

【北海道神宮本殿・屋根谷端部で氷柱発生(泣)】


この冬、わたしは朝散歩ずっと継続してきております。
例年は寒波厳しくなってくる、だいたい12月の声を聞くと
「もう寒いし・・・」とめげて弱音のままに散歩を休止していたのですが、
コロナ禍での健康維持作戦と考え、逆張り的なやる気が出たのか、
毎日朝早く、6時前に家を出て北海道神宮まで参拝がてら続いております。
さて、いつまでかなぁと思いつつ、距離的には毎日10,000歩程度。
で、気温は昨日朝6時過ぎでごらんの通り。

つい最近、年末ギリギリにはマイナス14度まで下がっていましたが、
このところはマイナス10度前後で推移しております。
これくらいまで低下すると、寒さというか、服装の厚みを直に感じる。
もちろん外皮側は、ダウンの上下なんですが、
輻射的に体温が奪われていく感じが強くて毛糸のセーター1枚では
やはり保温が心許ない。
アタマも毛糸の帽子では全然用を足さなくなって、ダウンのフードが必須。
コロナ禍でのマスクもこういう状況では、防寒の一種に変貌する。
ただ、10,000歩近く歩くとさすがに息でビショビショ。
こういう防寒対策と寒さの容赦無さでかえって雑念は消え失せて
ひたすら歩くことに集中できるのであります。
一種の行者の心境、無念無想に近い心理でほぼ考えることはしない。

北海道神宮社殿は日本古来の神社建築なので、
屋根なども、雪や寒さに対しては防備があまり考えられていない。
落雪が前提の三角屋根が基本でそのために落雪用スペースは考えられている。
しかし神社として「無落雪屋根」デザインというわけにはいかない。
北国住宅の歴史では三角屋根が合流する地点、
いわゆる「谷部」については、非常に悩ましい問題としてきた。
できればそういうデザインは避けるべきである、という考えが北海道住宅の常識。
三角屋根であれば、きれいな切妻が望ましいとされてきた。
雪が滑落していくときに、どうしても谷部に集中して
それが一気に全部落ちればいいけれど、どうしても滞留して
日中の気温上昇でそれが融雪し、谷部端部軒先で氷柱になりやすい。
それが通行人に危害を加えたり、どんどん成長して巨大化することもある。
そういう残念な事態が、ちょうどいま、北海道神宮の本殿で起こってしまっている。
まぁ、そのうちに巨大化する前に、参拝者の危険にならないよう、
氷柱は除去されると思いますが、建築的には神社建築のフォルムを優先すると
なかなか解決困難な事態であるのです。
まぁ、方向としては、参拝者にまっすぐ向いているのではなく、
空地も確保している場所なので、危険性は少なくはありますが、
もし一般住宅でこういった氷柱ができて、それが歩道に面していれば
万一の危険、その責任の所在追及ということも免れない。
北海道神宮ではほかにも数カ所、氷柱や屋根融雪水の処理の仕方で
考えさせられる部位も散見される箇所があります。
日本古来の伝統建築デザインを、この気候風土でどう合致させるのか、
北国的常識をいかに普遍化させるかは、まだまだ道半ばといえるでしょうね。

【「おくどさま」と土間/日本人のいい家⑯-4】



すっかり奈良の古商家にハマった年の初めであります。
間取り様式として日本民家では伝統的・普遍的だけれど、
現代住宅からはほぼ失われた「土間」という空間への想像力が湧き出す。
この奈良の街道筋の商家では平屋住宅28坪中20坪ほどが
広大な土間空間になっている。ここでは手工場として
生業のための生産活動が行われてきたことは昨日触れた。

土間と座敷が、相互に融通無碍に連なっている。
むしろ土間の方が生業にとってははるかに重要であり、
その中核的装置として加熱装置「おくどさま」が家の中心に鎮座している。
ハレの場としての主要居室「ダイドコロ」と床の間付き座敷も
この「おくどさま」に対して全開放されている。
生活と生業が一体化して、いつ何時でも「おくどさま」に奉仕する態勢が
住宅全体の空気感を引き締めているともいえる。
日本の町家はいろいろな生業でその町の経済構造を支えてきた存在。
たとえば城下町であれば、その武家たちが必要とする必需品を
そのすぐ近くで提供し、関連する情報も提供するのが社会的役割。
門前町では、さまざまな宗教的物品需要に対し役割を担ってきた。
先日わが家に流れ着いてくれた北海道の寺院を飾った軒の「頬杖」木彫刻品は
浄土真宗の盛んな富山門前町の木製品生産の町家で造られたとわかった。
ようするに町家とはそのような商業者の生業の場。
生業においては、土間空間は決定的な「その家」らしさを表す。
この奈良の家ではまさにそうした生業シンボルとして「おくどさま」がある。
写真のように装飾されて、まことに凜とした存在感が場を支配する。

対面して、いわゆる上座的に床の間座敷・ダイドコロがあるけれど、
インテリア的な存在感ではまったく太刀打ちできないほどの凜々しさ。
現代住宅のこぎれいなファッションとは隔絶した神々しさすら感じられる。
こういう室内風景に揺籃されて育った子どもたちには、
なにか一本芯がスッキリと通るような気がする。

たしかに武家住宅では床の間に日本刀が飾られたりして、
それで武士の魂とか言われるが、こういう生業の力強さにはまったく及ばない。
社会の中でそれで身を立てる生業感には深くリスペクトさせられる。
翻って、今日のわたしたちの建てる住宅には
このような空間性はあり得るのだろうか?
たしかにこのような町家の、生きることに必死な生業というものは、
現代社会では希薄化してきていると言わざるを得ない。
その分、ひとの生き方というものもずいぶんと没個性化してきているかも知れない。
・・・ふと、この土間の「突き固め」ぶりが気になった。
日本民家園ではこうした土間空間を持つ家々が多く移築されている。
もともとは専業者が請け負った工事ではなく民同士の相互補助で
土間を突き固める作業は共同体の「結」として行われただろうけれど、
まだ、丹精な土間づくりも日本建築の手法として実現可能なようだ。
現代住宅でもこういった土間を再利用する住デザイン革命を志向する
そういった作り手が現れてこないものだろうか?
自然素材だとか、いろいろ言われるけれどその土地の土を利用するというのは
究極的な「自然志向」なのではないか。
なにより土間のぬくもりがひとの感受性を豊かに育むと思われてならない。
またなによりアクティブな生活動線を生み出す魅力、可能性が高い。
その土地の土を見つめ、肌で感じる暮らし・・・。
断熱気密という点からはたぶん問題はない。基礎断熱であればむしろ適している。
土壌という自然「素材」はまったく新たな住の可能性を広げる。
そういう現代新築住宅を見てみたい思いに駆られる。・・・

English version⬇

[“Okudo-sama” and Doma / Japanese good house ⑯-4]
It was the beginning of the year when I was completely addicted to an old merchant house in Nara.
Although it is traditional and universal in Japanese folk houses as a floor plan,
The imagination of the space called “Doma”, which has been almost lost from modern houses, springs up.
About 20 tsubo out of 28 tsubo is a one-story house in this merchant house on the Nara highway.
It is a vast earthen space. Here as a hand factory
I mentioned yesterday that production activities for livelihoods have been carried out.

The dirt floor and the tatami room are connected to each other in a flexible manner.
Rather, Doma is far more important to livelihood,
As its core device, the heating device “Okudosama” sits in the center of the house.
The main living room “Daidokoro” as a place for hare and the alcove with a tokonoma
It is fully open to this “Okudo-sama”.
Life and livelihood are integrated, and we are ready to serve “Okudo-sama” at any time.
It can be said that the atmosphere of the entire house is tightened.
Machiya in Japan have supported the economic structure of the town through various livelihoods.
For example, in a castle town, the necessities that the samurai need
It is a social role to provide relevant information in the immediate vicinity.
In Monzen-cho, it has played a role in meeting the demand for various religious goods.
The “cheek cane” wood sculpture of the eaves that decorated the temple in Hokkaido that arrived at my house the other day
It turned out that it was built in a townhouse that produces wood products in Toriimaecho, where the Jodo Shinshu sect is flourishing.
Machiya is a place of business for such a commercial person.
In the livelihood, the dirt floor space represents the decisive “house” character.
At this Nara house, there is “Okudo-sama” as a symbol of such a livelihood.
Decorated as shown in the photo, the place is dominated by its dignified presence.

Face-to-face, there is a so-called Kamiza-like alcove and Daidokoro,
The dignity is so dignified that it cannot be compared with the interior presence.
You can even feel the godliness that is isolated from the neat fashion of modern houses.
For children who grew up being shaken by such an indoor landscape,
I feel that one core passes through clearly.

Certainly, in the samurai residence, Japanese swords are displayed between the floors.
That is why it is said to be the soul of a samurai, but it is far from the strength of such a livelihood.
I am deeply respected by the sense of livelihood that makes me stand up in society.
On the contrary, in the houses we build today
Is this kind of spatiality possible?
Certainly, the desperate livelihood of such a townhouse is
It must be said that it is becoming diluted in modern society.
By that amount, the way of life of a person may have become much more individualized.
… Suddenly, I was worried about the “tampering” of this dirt floor.
Many houses with such a dirt floor space have been relocated in the Japanese folk house garden.
Originally, it was not a construction contracted by a specialist, but a mutual aid between the people.
The work of squeezing the dirt floor would have been done as a “conclusion” of the community,
Still, it seems that elaborate soil construction can be realized as a method of Japanese architecture.
Aiming for a housing design revolution that reuses such dirt floors even in modern houses
Isn’t such a creator appearing?
It is said that it is a natural material, but using the soil of the land is
Isn’t it the ultimate “nature-oriented”?
Above all, the warmth of the soil should not be considered to foster human sensitivity.
Above all, there is a high possibility that it will create an active line of activity.
Living by looking at the soil of the land and feeling it with your skin.
Probably not a problem in terms of heat insulation and airtightness. Basic insulation is rather suitable.
The natural “material” of soil opens up completely new possibilities for living.
I am motivated to see such a modern new house.・ ・ ・

【江戸期商家「工場」土間空間/日本人のいい家⑯-3】


日本の「商家」という系譜は、
1 都市住宅「町家」であること。
2 商いという生きざまは当然、販売品の生産にも関わった生業であること。
3 日本の資本主義・家内制手工業の原風景であること。
などの特徴的な住宅原型であると思います。
現代住宅の原型とはなにか、という設問があるけれど、
江戸期の中下級武家住宅にその形態的類縁性を見出すこともある。
たしかに「生業」の要素の少ない給与所得者という意味合いでは
まさにハマっているのかも知れないが、人口比で考えれば
武家というのは特殊な存在であり、また経済という
生身の生きざまという存在感はそこにはまったく感じられない。
都市集住と経済活動への関与度を考えれば、このような商家建築は
民族の生きざまをそのまま表現しているようで、DNA的即物感を持つ。
この奈良の街道筋に町家として建てられた商家は、
その時代の街割りの基本である間口が狭く、奥行きが長いという
社会的制約に沿っており、今日の街割り規制に即応した敷地条件と
通底した遵法的な「家づくり」の考え方と思える。
現代住宅とは要するに街割りなど法規に準拠した町家の変形だと思うのです。
若干条件は違いがあるけれど、今日の中小零細企業の建築的ありようと
この商家は非常に近似性が高いと思われるのであります。
街道筋という敷地条件を選ぶこと自体、経済活動自立を前提としており、
いかにも個人主義的生存選択として、現代的だと思われる。
社会の基盤としての原風景的「資本主義」的建築・生存形態。
居住と仕事環境がまったく違う大企業・公務員層以外の職住一体型現代庶民には
生きざまとして、非常に似通っていると思われる。

で、建築としては家内制手工業を支える空間として
町家であるのに、広大な土間空間が内部に広がっている。
この家では28坪の平屋のうち、20坪程度が土間で占められている。
農家住宅でも大型の庄屋階層の住宅では広大な土間がある。
そういう大農家では小作人たちがその土間で作業していたと想像できる。
大規模農業者による小作たちの使役労働スペース。
たしかに「生業」ではあるけれど、非常に階級格差を感じさせられる。
それに対して商家+家内制手工場では、少数の手代・丁稚などは
想定できるけれど、基本的には個人の生き方が垣間見える。
この奈良の商家でも350年ほど前の創建時、
「油屋」としての生産作業がこの広大な土間空間で行われた様子がわかる。
もちろん油製品化のためにどんな作業労働があったのか、
詳細は不明だけれど、「おくどさま」と呼ばれる煮炊き装置に、
まるで祈りを捧げるような飾り付けが行われている。
油生産にこのような加熱工程があって、それが決定的な構成要素だと知れる。
また、高い天井高が確保されているけれど、それはこの生業にとって
必要欠くべからざるものだったに違いない。加熱の程度がハンパなかったのか?
その成否に家運が掛かっているような必死さがあり、
神頼みする一所懸命さがヒシヒシと伝わってくる。
経済は生き物であり、こうした生業がどれほどの安定経営だったかわからない。
武家のように家禄が安定した状況ではなく、船板1枚下は大波という
そういった環境の厳しさが、この土間空間から感じられる思いがする。
この家では、350年前の創建時から約170-180年前頃には
油屋から線香屋さんに商売替えもしているとの情報。
この広大な土間で、日々営々と努力する光景が伝わってくるかのよう。

ちょっと感情移入しすぎかなぁ(笑)。
コロナ禍のなか、全国の中小零細企業は先の見えにくい環境の中、
資本主義社会の基礎・基盤として雇用を守り続けている。
その労苦と、この古い商家建築が重なり合って見えてくる。

【奈良古商家・天井裏「萱束」の意味/日本人のいい家⑯-2】



きのうの続きであります。
実は写真を取っているときにはまったく気付かなかったのですが、
この奈良の街道筋の約300年前の商家の主居室「ダイドコロ」は、
大きな土間空間に面していて、しかも小屋部分が高い構造部分でして
天井には天井板が張られ、その上に萱束が敷き込まれているのです。
たまたまこういった構造だから、それが露わに見えるということで、
一般的に古民家建築で天井裏に萱束が敷き込まれる例があるのか、
それともこの奈良の商家が独特にこうした手法を行っているのか、
ちょっと判断がつかずに非常に悩ましく思っております。
アナロジーとしては、グラスウールが天井裏に「充填」されるように
居室部分をまるで「ふとんでくるむ」ように断熱する意図を持っていたのかも・・・
という妄想を捨てきれずにおります。
もちろん単に萱束を上げただけでは効果はそれほど期待できないだろうけれど、
底冷えのする寒さに対して、なにがしかの効果は期待したのか。

現場撮影時には暗くて天井裏になにかあるとは気付けなかった。
写真を整理していたら、この萱束の存在に気付いたということなのです。
写真の明度を上げたり、水平垂直を微修正するPhotoshop作業中に。
この建物は造作細部は精緻であり、地域の大工棟梁が手掛けた建物と思いますが、
そういう大工棟梁の「工夫」のひとつとして、
こういった考え方が根付いていた可能性もあるかと妄想したのです。
とくにこの建物の場合屋根はこのダイドコロ部分で最高の高さになり、
天井裏部分がどうしても大きく空洞を形成する。
それはたぶん視線手前側の「土間」部分での油の製造過程で
空間の高さを必要としたことから必然化したのだろうと思われる。
その結果、居室部分の天井裏が断面的に切り取られて露出することになった。
居室ダイドコロからすると、広大な土間部分に全開放されている。
油を扱う商家建築として、そういった建築構造にならざるを得なかったので、
まだしも「保温」の可能な手法として天井裏に着目して
「屋根に萱を葺くとそこそこ断熱効果があるし、いっちょやってみるか」
というような工夫で萱束を天井裏に敷き込んでみた可能性がある。
この建物は江戸期の商家建築であり、間口が狭く奥行きの長い「町家」。

屋根は防火を目的とした瓦葺きが必須とされる「地域協定」。
大工棟梁たちにしてみれば、瓦葺きと萱葺きでは断熱性能的には
萱葺きが優れているという判断力はあったのではないだろうか、
そこで類推的な手法として、このような内側断熱的詳細に向かっていった・・・。

この建物は川崎の日本民家園に移築保存されているのですが、
今度機会があれば、このあたりを詳細に「取材」してみたいと企図しています。
日本の「充填断熱」事始めなのかも。・・・
もし、このブログをお読みいただいた方から情報をお伺いできれば幸いです。

【商家の知恵 in奈良街道筋/日本人のいい家⑯-1】




本日からは「日本人のいい家」シリーズ2021年始動。
わたしは商家住宅というのが大好きです。
家系伝承で江戸期を通じて瀬戸内海地域での商家という言い伝えがあり
「英賀屋」という屋号。そのDNA的「呼び声」が心に響くと、同時に
大前提として「コンパクト」志向と強い合理主義を感じ現代的だと強く感じる。

この住宅は川崎の「日本民家園」に移築されたもの。
建築年代は1600年代末から1700年代初頭。ざっと300〜350年前。
江戸時代中期、奈良の「柳生街道」に面して建てられていたとのこと。
「油屋与兵衛」という屋号だったことから古くは油商売だったようですが、
幕末期に至って入り婿さんを取った結果、線香屋さんに商売替えという変遷。
柳生街道というのは300年前頃に柳生心影流が全国的に活況を呈し
「柳生の剣」を求める武士が街道を通って柳生の里へと足を運んだと言われる。
またそれ以前には仏教伝来期からの独特の文化圏を形成していたとも。
街道沿いという往来のにぎわいを立地に選んだ商家。
現在復元された建物は本屋だけで、奥に中庭を囲むように風呂・便所、
さらに奥に日常生活空間として2間の座敷をもつ居住棟もあった。
それらはいわば「ケ」の空間で、再現されたのは「ハレ」の空間か。
本屋の間口は約4.5間。ほぼ真ん中に入口があって、そこから
「通り土間」から広い「ニワ」と呼ばれる土間空間が広がっている。
本屋は総面積28坪ほどですが、おおむね半分が土間。
手前側に板の間の「ミセ」空間が2室あって、奥に向かって2間がある。
ニワに面したダイドコロが仏間などもある中心空間。その奥には床の間座敷。

本日の写真は正面外観とミセの部分。
外観左手がショーウィンドウの役割の街道に面した縁側空間。
その奥に商取引を行う「ミセ」空間がしつらえられている。
入口の扉は天井に蹴上げられていて、明治期にはガラス入り扉もあり、
この商家300年以上、開放され続けていたようです。

油屋時代の様子をしのぶ情報は残されていないとのことで、
線香屋時代には、主要な取引先は地域の有力仏閣であり、
その行き帰りの往来客をこのミセ空間で待ち構えていた店舗。
おおむね3mのタテ格子ショーウィンドウで客に訴求すべく工夫を凝らしたのでしょう。
また、正面右手の「シモミセ」で製造現場の様子も見せていたようです。
このあたり、日本的商家の基本的訴求ポイントを見る思い。
現代にまで連なってくる世間とのコミュニケーションの基本が見える。
入口を入ってもずっと土間が続くので、来客は気兼ねなく入っていくことができる。
いわゆる「通り土間」という意味合いがよくわかります。

これら「オモテ」のコミュニケーションと同時に製造的部分が
広大な土間空間で展開されている。そちらはあした公開です。
日本的ビジネスが空間的に保存されている、興味を惹く典型例だと思います。

【にぎり寿司+おせち 家族で正月料理】



ちょっと食べすぎかなぁ(笑)。
元日は娘夫婦と合計4人でしずかな正月料理。
娘は腕によりを掛けて毎年おせち料理を作って持参してくれます。
ひとつひとつ、料理の仕方を教えてくれながら、食べられる楽しさ。
「お、この煮しめ、ニンジンの煮しめ具合がいいね」
「このから煎りの干し魚はなに?」
という具合に、作る楽しみ、食べる楽しみで盛り上がる。たまに
「この昆布巻き、おいしいね」「それは買って切っただけ(笑)」
というようなことですが、
わたしのにぎり寿司を楽しみにしてきてくれました。

ふだん「社長食堂」でよく握っていますが、
今回は仕入れられたネタで、それなりに楽しく握りました。
でも、ツブとミズダコを忘れてしまっていた(泣)。
正月の大量買い込みで冷蔵庫・冷凍庫に詰め込むと
つい忘れてしまうことになってしまうのですね。
冷凍からの解凍は自然解凍なので、忘れると間に合いません。
握れたネタはマグロが2種類、本マグロとメバチマグロ。
ホタテに生サケ、サバ、真鯛、ホッキであります。
ホッキは残念ながら、魚屋さんで生は仕入れられなかった。
シャリは全部で6合ほど炊いた。これにツブとミズダコで
だいたいシャリとネタの量は釣り合いが取れたハズなんですが(笑)。
1合くらいシャリが残ってしまいました。
まぁ作り終わってから、この2品は別に娘夫婦に持たせました。
「家で刺身で食べて」という次第。ツブの肉身取り出し方を口頭説明。
さて、うまく食べられたかどうか、心配ではあります。
にぎりは数えてみると全部で77カン。4人で割ると20カン弱。
なんですが、主に食べるのは若いふたり。
わたしは5−6カンつまむ程度なので、12-3カン残った分は
娘夫婦に持ち帰ってもらいました。
カミさんからはとにかくシャリを「小さく」というリクエスト。
どうしても男の手は大きめなので、量を多く作ってしまう。
自分としては「え、こんだけ?」と思うくらいでちょうど良い、ということなのですね。

ということで、静かな年の初めのスタート。
ことしも住宅ネタが中心ですが、多様な分野でも発信を心がけたいと思います。

【本能寺後の光秀肉声「我等不慮儀」/細川家文書】


あけましておめでとうございます。
昨年も無事、毎日ブログ投稿が続けられました。ことしも頑張ります。
いまや、ライフワークというか、生き甲斐の領域ですね(笑)。
やはり見ていただいているみなさんがあればこそと感謝申し上げます。

で、新年第1発も、旧年中から仕掛かりの細川氏文書、明智光秀書状解析です。
どうして住宅がメインフィールドのわたしが、というところですが(笑)
家に住むのは日本人であり、その暮らし方を考えるとき、
民族性やその歴史について洞察するのは重要な部分、と考える次第。
まぁ個人的に歴史への興味が尽きないのであります(笑)。
本日はいよいよ信長殺害に及んだ光秀が、その後の政治軍事展望において
もっとも決定的な「基礎因子」と考えていたに違いない、
最側近にして娘婿としての縁者でもある細川氏父子、藤孝・忠興宛書状。
本能寺の変後7日目の日付。
細川氏というのは幕臣の有力家系であり、藤孝は入り婿になった存在だけれど、
その後も家が存続し続けつい最近も細川護熙が総理になった家系。
その長き血の存続を可能にした決断は、この藤孝の判断力に負うところが大。
代々の幕臣ながら、15代将軍・義昭から信長政権に政治転向し、
明智光秀が統合した旧幕臣を中心とする織田家畿内軍組織の中核だった。
言ってみれば織田畿内軍団・明智軍の副将格であった。
光秀にして見れば、織田家での奉公前後で常に行動を共にしてきた間柄であり
その娘を世嗣・忠興に嫁がせてもいる無二の盟友。
その細川藤孝が、本能寺の変に際し「髻を落とし」信長への服喪姿勢を示した。
さすがに幕臣家らしい出処進退の仕方なのだと思う。
政治軍事的にはかなり勇気のいる決断であり、天下への声明効果が高かった。
「おお、細川藤孝父子が髻を落とすべき事態であるのか・・・」
光秀の軍事力の基盤組織の副将が、主将を弾劾したに等しい。

光秀にして見ればまことに不意を突かれたに違いない。
「一旦我等も腹立候へ」と正直に書いている。まさか娘の婚家である
身内の(同然の強い同盟者)副将から絶縁に等しい仕打ちを受けたのだ。
まさに、まさか、という思いだったのだろうと思う。
たしかに信長の殺害という秘事はその決行まで秘中の秘として機密扱いであり
副将にも告げることをしなかったのか。・・・このあたりはどうもあやしい。
細川氏には、その秘望を伝えていた可能性もある。
事前に伝えた上で決起に及んで首尾良く信長を討ち果たしたところ、
その間深く熟慮した上で「髻を落とす」政治行為を細川氏は選択した可能性。
藤孝・忠興父子が同一の政治判断・行為に及んでいるのも計画的・・・。
わたし的にさらに興味を惹かれるのは「我等不慮儀」という光秀の肉声。
一般的理解としては、信長殺害の行為を婉曲に表現したとされる。
この細川氏の解説冊子でも、そのように現代語訳されている。
「不慮」というコトバを国語辞典で調べると〜思いがけないこと。不意。意外。
よくないことについていう。「―の災難に遭う」「―の事故」〜。
この本能寺の変直後7日目の段階でこのようなコトバを使った光秀の心理。
もっとも重要と考えた細川氏への書状において
正確を期して祐筆(書記官)に筆記させたに違いない文書において
このような表現を使っている。「殿、不慮と書くのですか?」「そうだ・・・」。
この時代、不慮というコトバに現代と相当乖離があるとも聞かない。
ある政治的行為を選択した当人が「我等不慮儀」と書けば
その正統性に疑義があると自白したに等しい、
と政局から判断される可能性が高いとは考えなかったのか?
たしかに光秀の信長殺害計画は秘中の秘であり、たまたま大軍団を移動させる
名目として主命での中国出陣があったという絶好のチャンス。
光秀として、千載一遇のチャンスを前のめりで実行したけれど、
政治的正統性確保にまで深謀は及んでいなかった、という自白ではないか。
まさに不慮、深く考えない行動であったと。
あとの文面は繰り言のようだ。いわくもう決戦も近づいているので早く出馬せよ、
望み通りの国をあてがうから頼むという哀願にも近い表現。・・・

この書状を見て細川氏はいよいよ自らの政治選択の正しさを実感したに違いない。
ただ光秀の真意は別にあったのかも知れない。
信長に「俺の目で見ている」とまで思わせるコミュニケーション能力を持つ光秀が
こういう錯誤を簡単に冒すとも思いにくいのですが・・・。

【具に候えば見る心地に候/信長の光秀「報告」評】


きのうの続篇・戦国末期の織田家中内部消息資料解析であります。
細川藤孝当主時の細川家収蔵文書からの明智光秀消息。
戦国期の消息を伝えてくれる資料にはいろいろあるでしょう。
比較的に客観的と思われる「多聞院英俊の日記」など、
今日で言えば一種のメディアとも言えるような情報記録媒体もあった。
現代のメディアでも多分にそのメディアの主観的意見も多いことを考えれば、
この時代の記録文もそれほど遜色なく信頼可能と思える。
後の世の人間にして見れば、現代のウォールストリートジャーナルと人民日報を
なんとか総合吟味して、真実の現代史を解明するのに似ているように思える。
しかしなんといっても、直接的消息を伝えてくれるのは当事者間の手紙のやり取り。
毎日戦争に明け暮れる時代、とくに織田家のように多方面作戦を展開すると
本拠地にいる信長と、各地域の担当武将との情報交換は必須だっただろう。

わたしが大きく惹かれたのが信長から光秀に宛てられた書簡のこの一節。
1574(天正2)年7月29日日付のものであります。
1582(天正10)年6月2日が本能寺の変なのでその8年前の主従関係。
この年当時すでに幕府・義昭将軍は信長に反乱を起こして鎮圧され
京都政局から放逐され幕府直臣100名以上が義昭の鞆下向に同行している。
一方で、細川藤孝ら多くの幕臣が京都に残り信長側に転じた。これらの旧幕臣は、
明智光秀の与力となり幕府の組織を引き継ぐ形で京都支配に携わることとなっていた。
すでに浅井朝倉連合軍は撃破されていたが、武田信玄上洛の動きと併せ
対本願寺一揆との泥沼戦争など戦国騒乱の最佳境段階であったと言える。
信長からの細川藤孝への文書では繰り返し「光秀とよく相談せよ」と書かれていて、
光秀は義昭将軍の空隙を埋める役割を担い、京都政局の管掌と畿内での
織田軍の全権を把握する立ち位置にあったことがわかる。
政治的には光秀はまさに旧幕府と織田家の繋ぎの中核にあったと思える。
信長自身は伊勢長島での一揆との泥沼戦争中であり、光秀の方は
大阪の本願寺勢力との「根切り」戦争の渦中にあった。
この段階で信長の光秀への信認は極点まで高まっていると思える。
「具に(つぶさに)候えば見る心地に候」という光秀の戦況報告への激賞ぶり。
まさに信長にとって「俺の目で見ている」と深く実感できる主従関係。
見方によっては、光秀は信長の家来というよりも旧幕府勢力を束ねて
信長本軍と「同盟関係」にあったと見て取ることも可能ではないか。
織田家中でもっとも早く近江坂本に居城構築を許された事実は象徴的。
きのうも触れたように天下という実質エリアが「畿内地域」というのが当時常識であり
畿内地域はほぼ全域が光秀の担当領域。朝廷対策から幕府対策まで
有識故実がメンドく腹の底の知れない権謀術策がうずまく京都=天下「政局」で
結果として織田家が幕府を滅ぼしてもなお政局の主導権を握り続けたのは
明智光秀の存在なしに成立しなかったのではないか。

こういう役割は織田家の他の重臣、たとえば柴田勝家とか丹羽長秀、
さらに木下藤吉郎などにはまったくムリな相談だったことは疑いない。
畿内情勢を占有的に織田家の立場でハンドリングできる能力者は、
織田家家中で、ただ光秀一人だったのが現実の姿だと思われる。
だから信長は、「具に(つぶさに)候えば見る心地に候」と心境を吐露した。
そう言われた光秀は深く自負するところ大だったに違いない。

この主従関係の時点から8年後、
本能寺の変は勃発する。信長は本能寺を襲った軍が明智光秀と告げられたとき
「是非に及ばず」と語ったという伝承がある。
光秀が襲ってきたのであれば、用意万端、自分の死は絶対免れないと悟ったと。
信長と光秀、この関係には強く興味を惹かれるものがある。・・・

【細川家文書から「麒麟がくる」を推理する】

図は元総理の細川護熙氏の細川家が公開している美術館、
「永青文庫」の季刊誌の最新号から。
ことしは「麒麟がくる」が放送されたので、明智光秀の素性を探る意味で
盟友にして織田政権下での配下・細川藤孝の細川家が所蔵する資料は
いろいろな意味で注目されていた。
そしてそのことは細川護熙氏の自筆原稿からも窺われ、
NHK側に氏から再三「明智光秀を取り上げるべきだ」と働きかけていたとのこと。
永青文庫では満を持して、細川家に伝わる信長からの書状など、
明智光秀の実像に迫る一級資料の公開が行われる「ハズ」だった。
しかしこれもまた、明智光秀の日本史への意趣返し的報復なのか、
世情を混乱させるコロナ禍が社会を覆い、
永青文庫が企画した「新・明智光秀論〜細川と明智 信長を支えた武将たち」展は
当初の4/25−6/21の予定が中止されざるを得なかった。
それがようやく2020年11月21日(土)~2021年1月31日(日) 開催された。
まことに光秀の怨霊の祟りか、と日本史好きとしては慄くばかり・・・。
この季刊誌自体、発行は4/25となっている。
で、興味深くその内容を吟味させていただいております。

わたし的にはこの情報開示を見て、いわゆる畿内地域の当時の政治社会動向と
織田家がそれを制圧していく過程で明智光秀の果たした役割の生々しさを再認識。
畿内地域こそが「天下」だという当時の社会常識からして、
信長の「天下布武」という政治軍事スローガンと、
その実現のために大車輪の活躍をした明智光秀像が垣間見えた。
細川家収蔵資料から浮かび上がってくるのは、信長がいかに光秀を信頼し
その情報把握能力の高さ、カミソリのような切れ味を信認していかかが伝わる。
考えてみれば織田家政治軍事組織中で、複雑極まりない京都と畿内を
制圧できる戦略戦術を企画立案できるような人材は皆無だった。
戦乱により衰微していたとはいえ、曲がりなりにも「政局」の中心であり
朝廷権力と室町幕府政権もそこに存在する中で、
すべての関係性を整理整頓して、織田家の政治目的を完遂させるには、
相当の状況把握力、政治コントロール能力が不可欠だっただろうことは明らか。
新興の政治軍事勢力であった織田家が、それまでの阿波・三好氏とは違って
本当に天下布武を実現できたことの根拠をよく考える必要がある。
織田家はそのような「道案内」「先導的指導者」として光秀を得たことが、
いかに巨大な利益になっていたことかが、マジマジと実感される。

そしてその明智光秀が信長を殺した後、
なぜ細川藤孝が光秀からの勧誘に応じなかったのか、
その決定的書簡文書も今回の展示会では公開されていた。
明智と細川はなぜたもとを分かったのか、細川氏的には一族の帰趨を決する局面で
なぜそういう決断に至ったのかという消息がうかがえる。
・・・それにしても、最初の会期が中断され、
また今次の開催も時間を同じくしてコロナ禍が猖獗している。
本能寺の変と明智光秀の怨霊・・・闇は深いと驚かされる思いであります。