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【日本の「うた」 誌的表現性と音楽性】

本日は休日につき、ちょっと自由テーマ。
というか、常日頃感じている疑問がありまして、
日本社会の歴史はそれぞれの分野で解明が進んでいて楽しいけれど、
どうしても解明しにくいモノとして「音楽性」があると思います。
楽器はモノが残って、その再現音を聞けば
ある程度は、その当時の「音楽体験性」は確認できると思う。
宮中雅楽などはリアリティがあるのでしょう。
しかしどうも「詩文」のような表現、それも「音楽的」韻も踏んでいるものが、
実際にどのように発信されたのかは、解明されにくい。
現代であればさまざまな「演出」が仕掛けられイメージ性が深められる。
一般的に、日本語のリズム感は5.7.5.7.7という単音配置が多い。
イマドキの発音でも、やはり基本はこの原則に沿っていると思う。
で、そうするとそれを朗々と発音するとき、音楽性に配慮しないわけがない。
いまに残る神道での「祝詞」や、仏教での声明〜しょうみょう〜、和讃など、
独特の「聞き心地」への配慮が非常に強く感じられるので、
こうした和歌などの詩文にリズム・メロディ・ハーモニー的な要素が
なかったとは到底考えにくい。

「熟田津〜にぎたづ〜に、船乗りせむと月待てば
潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」

額田王の「歌」としてまことに有名なこの歌。
熟田津で船に乗ろうと月の出を待っていると、月が出たばかりでなく、
潮も満ちてきて、船出に具合がよくなりました。さあ、今こそ漕ぎ出しましょう。
という行動への「情動促進」を強く感じ続けています。
天智と天武の両帝と男女関係があったとされた女性だけれど、
この歌を始め多くの歌の詠み手として万葉集古代文化史を彩っている。
この「熱田津」の歌は古代日本が朝鮮白村江に百済救援の軍勢を出兵の頃。
出陣に際し、瀬戸内に面した四国道後温泉のそばの港に集結した
兵たちの前で宮廷歌人としての彼女が朗々と歌い上げて、
兵たちを鼓舞した歌だという説がある。その説に共感を持っている。
歌詞としては5/7/5/7/7(8)という和歌の仕立て。
この歌を即興でか、あるいは事前に演出を考えた上で出征イベントの
掉尾を飾るような形で、クライマックスに持ってきた「檄文的仕掛け」なのか、
いつもこの発出シーンを想像たくましく、イメージしたいと目を閉じてみる。
かがり火が盛んに焚かれた広場、この世とは思えないイベント装置のなか、
この歌は、美しい神子による檄文として兵たちの心に火を点けたのではないか。
古代における「鏡」の使い方を知れば、古代権力の祭政一致仕掛けは自然。
数万と言われる軍勢が、その陶酔感を胸に刻んで、海峡を渡っていき、
そして白村江で無惨に死んだのだろう。
いまはその「音楽性」は記憶から失われたが、朗々と彼女は「歌い上げた」と思う。
その出征イベントの「陶酔感」を知りたいと強く思っている。
額田王と言う存在は、帝の妃というよりも、
ある種、アジテーター的に「芸能」の術を身に付けた存在だったのではないか。
後の世で「かぶき者」とでも呼ばれるような存在が、日本社会には
連綿として伝統があるのではないかと夢想しているのです。

まことに「トピズレ」でありますが、
こういう「妄想」をかねてこころに抱き続けております。ヘンかなぁ(笑)。

【札幌円山「原生林」と相模原「里山林」】


昨日、ブログをアップしたら、いつもチェックしてくれるSさんからコメント。
「札幌市の円山原生林は文字通り原生林ですが、この林は
下草を刈り適当に間引いて樹間を明るくした人工林ですね。
有用樹種を選択的に植林した「木の畑」ではありませんが、
人が落ち葉を集め、間伐することで極相にならないように維持される、
いわゆる里山を再生保存したものと思います。」
という的確なご指摘をいただきました。
上の写真が「円山原生林」で下がきのう紹介した「相模原中央緑地」。
この違いを即座に言い当てるのは、なかなか鋭い。

里山林は、人里から近接していて、
長い年月、ひとびとの薪などを供給するバイオマス資源地域。
多くの場合、「入会地」という権利形態が取られて
江戸期までの社会では「ムラ社会」の公共利用地域として
独特の管理形態で維持されてきた存在だと思います。
人間社会との関係性が非常に深く、その管理が長い年月継続されている。
それに対して上の写真の北海道札幌中心部で保護された「円山原生林」。
こちらは、まさに人間の管理が及ばなかった自然であり、
その価値感を深く認識した明治開拓期のアメリカ北東部の開拓技官たちが
明治の開拓使に建言して原始のままに保存させた存在。
もちろん円山原生林も現在では人間の散策路などが整理されて
遊歩木道などもしつらえられているので、
完全な原生林ではなく、いわば最低限の社会適合をさせた自然林。
写真で見るように、上の円山では真ん中に「カツラ」の自然木が
自然のままのすさまじい変異が樹木に対し与えている様が見て取れる。
一方の相模原では、適度に木々は資源管理されて「間引き」されたり、
下草もきれいに整えられている様子がわかる。

わたし的には、このどちらもが「貴重」だと思われる。
たしかに原始のままの樹相を垣間見せてくれる円山原生林の価値は
まことに北海道らしく誇らしいと思える。
このような明治以来の人々の思いをしっかりと後世に残したいと強く思う。
一方で、下の写真、ほんのいっとき訪問させていただいた
関東の樹林が見せてくれる「歴史的経緯」にも深くうたれる。
そこには日本社会が育んできた「公共心」というものが見えると思う。
日本人の基本的生存形態だったムラ社会の「掟」というものが
持っていた人倫観の大きな価値感がまざまざと迫ってくるのだ。
たぶん列島社会で農耕生産形態が永く存続してくる中で
自然発生的にひとびとが涵養してきた「倫理観」の中心に
このような「里山林」の存在があって、公共心を普遍化させてきたのだ。
いわば草の根的な公共心の発露であり、存続形態であると。
今日「日本人の民度」が話題に供されるけれど、その根源かとも思える。

そうした中身までは知らないまでも、日々こうした森とふれあうことで
地域の子どもたちには、伝わっていくなにかがあると信じたい。

【江戸期に「不毛の地」だった森林緑地】

関東を走っていると、突然そこそこの緑地を発見することができる。
北海道のような広大な大自然の中では意識することはないけれど、
一円住宅やビル群が密集している地域では、こういった「自然林」のありがたさが
突然響き渡る「自然の呼び声」として印象に残る。
そういうオドロキを感じさせられた森のひとつが以前行ったことがある
神奈川県相模原市の「こもれびの森」、正式には相模原中央緑地です。
たまたま用事があって周辺を訪れたのですが、迷宮のような緑地に
思わず吸引されてしまった。別に北海道にはたっくさんあるっしょ、ですが(笑)。

周辺は住宅地や大学病院などがあるのですが、
市街地の中に忽然と出現する様は、なんともミステリーゾーン。
で、思わず周辺の駐車場を探して、クルマから降りて歩いてみた次第。
わたしは札幌にいるときには円山自然林を毎朝散歩しているので
どうもこういうのに出会うと、身体的に反応してしまう。
歩いてみると、クヌギとかコナラなどの広葉樹主体の森。
まことに多様な樹種があって、北海道札幌の森とはまったく違う森林。
また足下には多様な微生物や虫たちの存在感が感じられる。
下草の類も多種多様密生という感じで、「武蔵野」という一般地名は、
こういう樹林のことを言っているのだろうかと、頓悟させられる。
しかし、あまりにも迷宮的で駐車場に戻ってくることは難しそうだったので
あんまり深入りせずに、じっと深呼吸しておりました。

WEBで調べてみると、この森は「水利」が悪くて、江戸期までは
農耕作地に適さない「ヤマ」、周辺農民の「入会地」として
炭焼きに利用されるような場所だったようなのです。
たぶん農地に適していないのだろうなという直感的判断をしていたのですが
正解だった。
司馬遼太郎さんの著作では、日本はなんとか台とか、丘陵地などの
なんとかが丘というような土地は無価値としてきたとされる。
幕末明治になって、西洋人が横浜や神戸などに住むようになって
かれらが好んで「高台」に住む様子を見て奇異の念を抱いていたとされる。
日本人がそれまで好んでいた「土地」とは、なんとかが谷とか、なんとか田という
水利の良い河川周辺地域、多くは低地だったとされている。
米作農業、田んぼが最高の定住地域である生活文化からは
高台とか、水利の良くない土地などは、どんなに人口集積地でも
歴史的にそれほど利用されなかったと言うわけです。
そういうことの結果、現代に至るまでこのような森林緑地が保全されてきた。
同様の地形ポイントである千葉県印西市に行った経験もありますが、
あちらもつい最近20年ほどで都市計画が始められた地域だそうですが、
地形的に丘陵地で、江戸期までは「狩り場」として軍事演習林だった。
水利がなく井戸を掘ってもなかなか水が出なかったようなのですね。

そういった緑地が現代に至るまで保全されてきて
今度はエコロジー循環環境のような場所として子どもたちの環境教育に
大いに利用されてきているということです。
人間社会と自然環境の有為転変、輪廻転生を思うとオモシロい。

【コロナ以後、住宅「間取り」は変化するか?】


先日のブログで住宅デザインの「国風化」はいつ始まるか、みたいなことを
書いたら、知人の方からお知らせをいただいた。
そもそも北海道はそういう問題意識とはどうも少し違うというご意見。以下要旨。
〜「国風化」というと、「外国文化」対「日本文化」のように見えたりもしますが、
実は「西洋の輸入品の仕組を理解し改良・改造しようとする気風が生まれる」ことかと。
とすれば、北海道の住宅史では大正時代なのかも。
改良・改造に関する気風として、北海道特有の注目点は、対外国だけでなく
日本の風習まで「実用本位、合理化、簡素化」を追求するところ。
良く知られている会員制の結婚式。ヴァーチャル門松の門松カードに抵抗がなく、
葬式ではヴァーチャル供花の供花紙を使い市役所で購入できてしまう。
アフターコロナの「新しい生活様式」にもかぶって見えます。〜というご意見。
まぁ北海道では住宅デザイン変化よりも「暮らし方」の「課題の先進性」が強く
もっとも合理的に対応する結果、変化が劇的に早いのではということ。
写真は伝統的な和風の「続き間」ですが、
こういった「格式化」された間取りの日本住宅は厳しい気候風土で
ただちに存立意義を喪失し居間中心・暖房全室一体化の「間取り」に変わった。
高断熱高気密という当然の「いごこち進化」が達成されて、
全館暖房に進化し、間取りは伝統を無造作に捨てたのですね。
むしろ日本人は合理精神の方が伝統よりもはるかに優越しているのではないか。
その合理主義がもっとも激烈に発揮されるのが北海道なのかも知れません。

そういう流れの中で、今回の新型コロナ禍。
圧倒的な感染経路としては「接触と飛沫」ということから、
抱擁握手という欧米的コミュニケーションよりも非接触型お辞儀文化的な
「ソーシャルディスタンス」が行動変容と推奨されている。
それ自体はむしろ世界が日本化に舵を切ってきているともみえる。
「空気感染」はエアロゾル感染が危惧されるけれど、
それは3密条件が揃う空間でスプレッダーが存在する環境で
限定的に発生するとされている。
対応としては「換気」の必要性が指摘されているけれど、
だからといって、家の中に感染者家族がいて共生することを前提にしての
「間取りでの個室化」「換気経路での下手側への隔離」などは、
今後の住宅建築で「一般化」するかどうか、きわめて疑わしい。
まずは「寒さと暑さ」からの防御性能が基本。人間の健康環境では最優先。
コロナ禍の「接触と飛沫」への対応に相当するとも思える。
隈研吾さんの先日のNHKでの発信を意図的に曲解して、
気密を敵視しスカスカの「通風性重視」型住宅のほうがいいなどと
吹聴する傾向には、大いに注意すべきだと思います。
新型コロナ対応で、「接触と飛沫」防止を最優先して、
3密空間では換気に十分に配慮すべきことをアナロジーすれば、
今後の住宅づくりに当たって、高断熱「高気密」は絶対の条件だと思います。
その上で計画的に換気していくことが基本。
人間の健康を守る基本に忠実に、合理的に対応すべきでしょう。

その上で、一方ではテレワークへの住宅側での対応は不可欠でしょう。
テレワーク可能な「個室」は必要性が高まるけれど、
さりとて完全な個室というよりは防音性の高い「書斎」的空間が求められる。
増え続けている夫婦共働きの場合、それが複数必要になる。
さらにその全体間取りの中での空間配置も要検討要素。
メリハリの効いた空間作りが求められるので、
全体の空間規模は大きくなることが予測できると思われる。
さらにそういうテレワーク空間を取り込んだ上で、住宅全体のデザインも
再度、大きく変容していくことが考えられますね。
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【ポケットWifi残データ量とにらめっこ出張ライフ】

さてようやく「他都府県との往来フリー化」で出張に出ております。
出張というと欠かせないのがポケットWifiであります。
とくに長期の出張になってくると、面談先でパソコンをWEB接続したり
常時、データ通信やり取りがあるし、なんといっても自社車両移動では
最近はGoogleMapでのスマホカーナビ利用が多用される。
とにかく地図道路情報更新がすごいので設置型のカーナビよりわたし的にはいい。
ただし、先般首都高の「山手トンネル」ではあっけなく討ち死に(笑)。
だいたいあの異常な地下トンネルの長さではムリもないとは思うのですが、
とくに首都高のような場所では、ほぼカーナビに頼り切りになるので
思わず絶望させられた(泣)。
でもまぁ、弱点はそれくらいなので長大トンネルでは気をつけて、
おおむねの降り口ポイントを把握しておくように考えをシフトチェンジ。
ということで、それほどの問題はないと思っていたのですが、
・・・その分、データ通信量はうなぎ上りにならざるを得ない。

最近auさんと契約内容の見直しを行いまして
各端末ごとのデータ通信量をさまざまに設定変更することにしました。
で、わたしの契約しているiPhoneとポケットWifiの契約で悩んでいます。
新型コロナでの行動抑制前後では非常に出張が増えている。
行動抑制期間では低レベル量だったのが、
現在は激しく悩ましい状況になっております。
とくにiPhoneはまったく契約量が不足して、月の20日前にほぼ残量ゼロ。
来月には大幅増量するのですが、一方のポケットWifiがもっと考えどころ。
事実上10GBか20GBかの2択で悩んでおります。
まぁ「最適化」というのはさっさと諦めて、余裕を持ったギガ数で
なにも考えずに使いまくるしかないのかも知れませんが、
人生の年数が長くなってくると、最適化のフレーズに惹かれるようになる(笑)。
なにごとも過ぎたるは及ばざるがごとし、とか「足るを知る」みたいな
人生警句が日々アタマのなかにコダマするようになるのですね。
でも警句を残した先人さんはデータ通信という概念もなかった時代を生きたわけで
われわれはまぁあまり深く考えても仕方ないかと思う一方、
しかしこういう時代に中高年齢者としてまだ現役でビジネス参加しているのだから
少しでも若い人の役に立つには、年の功痕跡も残してみたいと思う。

先日テスト的にギガ数を計ったら、1日で通常使いで1.44GB使った。
で、その使いようを慎重に考え適度にオフにしたりしてみたけれど
どういう状況で減り方が激しいのかわからない、まだ検証プロセス中。
auの方にも悩み相談に付き合ってもらっていますが、
こういう行動データ検証って、各人で違いすぎるので一般化しにくい。
ただ、いろいろ検証してきてわかったことは各キャリア会社の
「契約内容」って、相当なビッグデータに基づいた料金体系であることはわかった。
まるで最初期の「生命保険」考案者たちのように精緻な「計算」をしている。
なので、ギリギリのところでは非常に悩ましい料金体系になっている。
・・・まぁビジネスですから当たり前ですね(笑)。
ユーザーとしては少なくとも賢く対応したいと頭を捻り続けております。
ムダな抵抗かなぁ?

【神社建築 唐破風と注連縄のぎょろ目デザイン】


わたしは札幌にいるときにはなるべく北海道神宮に朝、参詣します。
イマドキですと「コロナ退散」が願に加わるのですが、
ふつうは一般的な願い、家内安全・商売繁盛と大盛りのお願いで
たぶん全国の神さまから、欲の深いヤツとブラック認定されているかも(笑)。
北海道内ではあんまり神社建築は多くはないということもあって、
日本全国あちこち出没して近隣の神社を参詣する。
上の写真は東京町田、というかJR駅町田は神奈川県相模原市近接で
この「鹿島神社」はそこに鎮座している神さま。境目の神さま。
名前が鹿島神宮と同様で、分霊されている「末社」と思われます。
こちらは建築の創建は江戸期とされているようです。
日本の建築は「屋根」の組み合わせが基本のデザイン要素。
入母屋・平入りでそこに唐破風が顔を覗かせている。
で、その下に注連縄が「好一対」という感じで「ぎょろ目」を構成している。
私のこのブログではちょうど1年ちょっと前に山形市中心部の日枝神社で
その下の写真のような外観デザインと遭遇したことを書いた。
どうも建築デザインとしての「狙い」は同じようだと知れる。
きっと社寺建築の基本パターンとして定式化されているのでしょう。

唐破風という名前から、てっきり中国からの伝来の工法かと思いきや
これはまったくのジャパンデザインとされます。
一方の注連縄という文化もこれは真正のジャパンオリジナル。なので
この視覚的デザイン取り合わせは、世界にまったく存在しない
建築デザインとしてまさに日本独特と言えるのでしょう。
わたしは寡聞にして他の国でこういう建築デザインを聞いたことはありません。
注連縄は建築的装置とは言い切れないけれど、
基盤的な農耕文化を表象する結界的精神装置といえる。
さらに日本の伝統的家屋では屋根材として萱が使われてきたことを
考え合わせてみると、同じ繊維系素材である注連縄が
かくも存在感強くあり得るのは、民族的自己主張アイコンとも思える。
逆にデザインで見れば、注連縄の形を逆転させたのが唐破風とも言える。
普通常識からすれば、重たい屋根瓦をわざわざ重力に逆らって
上向き傾向に形状化させることは考えにくいのではないか。
注連縄との対称デザインの思惑が先に存在して唐破風が産まれたのかも。
こういった取り合わせが神社建築で合一していることはオモシロい。
日本が自らを「和の国」と呼んできたことも類推が働く。

きのう、ある建築デザインの方と話し合っていて、
明治以来の住宅の「欧風化」基調が、現代のいったいどの時点で
「国風化」が開始していくのか、という論議になって
どうもわたし的には、この神社建築群のことが無性に思い出された次第。

【市場パラドクス:工業化へ自然素材の反抗】

既報の「自然木の《防火》外壁」について、そこそこの反響のようです。
北総研でもかなり広く反響があると聞いております。
即座に出てきた反応は「ツーバイフォー工法、枠組み工法でも可能に!」の声。
北海道ではこの工法の普及率が非常に高いので大いに期待したいところですが、
大臣認定審査には申請者側の費用負担問題があり、
その費用負担と予想される「市場規模」を重ね合わせると
「とりあえず在来工法での認定取得を」となる趨勢は避けられない。
北総研側としても、「大いに声を上げて市場を動かして欲しい」というスタンス。
基本的には付加断熱の標準的施工で使用する断熱材メーカー団体が
申請主体となって「壁構造工法認定」を取得する流れなので、
市場側、作り手側からの「声の大きさ」が成否を左右することになる。

で、この「自然木の《防火》外壁」というパラドックスとも思える「革新」、
わたしとしては、市場マーケティングの問題としても非常に興味深い。
というのは、人間の衣食住の社会発展は基本は自然由来ではあるけれど、
「進歩発展」は規格大量生産、工業化が「すじみち」であるという
近代・現代「文明」社会への刷り込みにも似た思いがある。
そういう「常識」からは、むしろ逆回転のような自然回帰型の「進歩」と思える。
防火性能という独自性を手にし、それこそワンイッシューで市場をほぼ独占した
「サイディング外壁材」という化学素材に対して、ルネッサンス的に
自然素材・木材が素手で反抗的に立ち向かう、という感覚を持ってしまう。
市場独占がサイディングに可能だったその「根拠」は
はたして本当に「防火性能」だけであったのか、
その「市場の結論」を再度、検証せねばならないというようにも思える。
ユーザーは合理的選択として自然木からサイディングに移行したのではないのか?
そうではなく建築の法的規制に素直に従っただけで、
「好み・嗜好」で選択したものではないと言えるのか、試される局面。
サイディングはその進化の過程で激烈な「競争」を経てきており、
その結果としての「市場独占」でユーザー「愛着」のようなモノがあるかどうか、
いわば住宅の「外壁市場」そのものが問い直されるのではないかと
そういった強い興味が湧き上がってきております。

建材価格的には、いまサイディングと自然木とで大きな価格差はないとされる。
建築側が「価格的に、どちらでも選べますよ」とユーザーに問いかけたとき、
はたしてユーザーはどのように選択するのか、興味深い。
「メンテナンスは?」
「長期的安定性は?」
「デザイン性は?」など、さまざまなマーケティング的条件変化が起こる。
どうも市場・マーケティング的な変化の方が深く根源的なのかも。
いま感じている「作り手側」の反応では「木外壁」に非常に肯定的だけれど、
はたしてどのように推移するのでしょうか?

【新型コロナ社会収縮からの復元へ】


6月19日を持って北海道では2月末以来継続してきていた
「非常事態」体制がようやく終わり、他地域との往来も「慎重に」進められる。
丸4ヶ月ほどの「社会収縮」を経験させられた。
いまだに北海道でも1日に3人程度の新規感染者発表があり、
東京では35人レベル。けっして「終息した」とは言えない段階ですが、
しかし経済を回していかなければ、感染症以上の社会の損傷が避けられない。

ということで徐々に活動を始めて行きたいと思っています。
きのうは、区切りとしてスタッフたちと「社長食堂・BBQ篇」として
これまでの「ガマン」への「ご苦労さん」会を開催。
ただ、近隣のみなさんにも気を使って事前にご挨拶も。
社長食堂としてはBBQなので、素材系の段取り仕事が中心。
まずは集まってくれた20数人分の「おにぎり」づくり。
これが50数個なので、お米2升炊いての用意。
握っている時間が2時間ほどという根気作業であります。
明太子、カツオ節、サケ、梅干しで適当に複数中身での握り合わせ。
それと肉中心なのでいつも作る「ポテトサラダ」を付け合わせで添えた。
あとは、牛肉、生ラム、鶏モモ、大エビなどのメイン食材。
焼き野菜多数、というようなメニュー構成でした。
しかしBBQはコンロの遠赤外線燃焼の「炭火」が主役。
あの焼きごこちは舌にも、カラダ全体にもここちよく染みわたってくる。
炭も、備長炭の立派なヤツもそろえたので、火勢は目にも心地よさげ。

北海道らしからぬ「梅雨」のような天候で、夕方から始めて
途中数回、傘を差さなければならないような日和でした。
一気にスカッと回復というようにはいかないようです、この新型コロナ禍。
それでも、食事が終わってもBBQコンロの暖を囲んで、
みんなで炎を囲みながら、これからの「復元」にむけて英気を養った次第。
<新型コロナからの慎重な復元ということで、写真は公表を避けました。>

【防火の「木外壁」を可能にする「高断熱」】




さて、あちこち「寄り道」の北総研取材行脚。16日に旭川まで出張して参りました。
取材の内容自体についてはReplanWEBマガジン「リプランくんが行く」で
わかりやすくお知らせしたいと思っております。
このシリーズでは、ユーザー目線の「リプランくん」がもつ素朴なギモンから
わかりやすく住宅技術のことを「解説・紹介」します。ご期待ください。

で、わたしは取材して感じたことを、書いてみます。
わたし的にはPDFなどで「防火構造」の大臣認定取得説明を見ていて
「え、これはどこがポイントなんだろう」とギモンでした。
なぜなら特段の特別仕様ではなく、北海道ではごく一般的な
「付加断熱」仕様の壁構造にしか見えなかったからであります。
ひととおりの「説明」を伺った後で、この素朴な感想から迫って見た。
「そうなんです、北海道でふつうの高断熱仕様であれば、防火構造が可能です」
というあっけないほどの「説明」です。
そもそも「防火構造」の認定基準とは、使っている建材が延焼してから、
「もちこたえる」時間が30分を越えることが基準とされている。
防火とは住む人の命を守れるかどうか、がポイントなんですね。

そこそこの「難燃姓」を保持した現代技術の「断熱建材」を組み合わせた
北海道ではごく一般的に施工されている「付加断熱」仕様ならば
おおむねこの「30分条件」はクリア可能とのこと。
ただし、防火構造の「大臣認定」は当然ながらいくつかの認定テストがある。
それをクリアさせるのにはそれなりの「申請料」もかかる。
まぁ端的に「試験」を通すにはそれなりの「金額負担」が避けられない。
それを、そのためだけに個別建築会社が費用負担するのも難しい。
必然的に企業間連携的な「制度システム的手法」が不可欠。
標準化されたシステム仕様ごと防火認定されることで市場性が広がる。
そういった企業社会制度形成で「触媒的機能」を北総研が果たすことで
今回の画期的な「木を張った外壁構造」での「防火認定」が可能になったのです。
具体的には、付加断熱材のメーカー団体ごとに「仕様変更」バージョンとして
3パターンの仕様を用意し、順次認定プロセスに入っている。
とりあえず今の段階では「フェノールフォーム」断熱材の仕様タイプが
大臣認定を取得できたのです。
追ってより一般的なグラスウール仕様のものなども認定申請許諾予定。

お話を伺っていると、北海道が地域として開発してきた
「高断熱高気密住宅技術」そのものが存立基盤をつくったことで、
「木の外壁の家が防火認定」という住宅の世界での革命的なことが、
比較的簡単に実現してしまった、と言えるでしょう。
むしろここからは「マーケティング的」なアプローチの問題ではないかと。
付加断熱は寒冷地ではごく当たり前に実現しているけれど、
近年急速に普及が進み始めた本州、関東以南地域では
相当に先進的な作り手しか取り組んではいないのが現実。なんですが、
逆に言えばそういう「先進的な作り手」にとってまたとないチャンス到来ともいえる。
これまで手掛けてきた付加断熱構造で、木の外壁をアピールポイントにできる。
壁厚が若干厚くなるけれど、そのご褒美としてデザイン性豊かな外観意匠性を
ユーザーに強くアピールできるといえるのですね。
根強く存在する「木の外壁」の意匠性への憧れが、そのまま
高断熱住宅のセールスポイントに利用できると考えられる。
まぁ、関東以南地域では「外壁の厚さ」というのは、可能な限り「薄くしたい」
というのもリアルな現実ではあるけれど、
「選択のバリエーション」として、ユーザーには受け取られるのではないか。
「木の外壁」が持つ自然そのものの「風合い」は強いインパクトを市場に与える。
で、これからは防火外壁建材としてほぼ数十年間市場独占してきた
サイディング外壁の市場での立場、ユーザー支持の度合いが
露わになってくるように思われます。
費用コスト的には、サイディング対自然木でほとんど金額差はない。
付加断熱・性能要件と豊かな意匠性が結びついて、どういう変化が生まれるか?
非常に興味深い局面が広がっていくように思われます。

【隈研吾「コロナ後建築」を語る/6.16NHKニュース】

「隈研吾が気密性の高い建物を否定的に語った?・・・」
・・・という論議必至の印象が知人のFacebookに書かれていた。
「番組として断片的で、誤解を生むのではないか」
という不安感に満ちあふれた感じで書かれていて、
わたしのようなメディア人としては、「おお隈研吾がついに・・・」
という「ことあれかし」野次馬精神が正直、盛り上がっておりました(笑)。
ただ、それは出張でのクルマ長距離(往復300km)移動中。
データ通信量が今月使用分から「最適化」させたばかりだったので、
どんどんそれを消費するスマホでの情報取得は難しかった。
それと目の前の取材を最優先させる必要もあったので
当然、順番は後回しになって、ようやく昨日17日午後、時間が出来た次第。
「見逃し番組」を見逃さない「NHK+」にユーザー登録して、
放送された6.16朝7時のNHKニュースをチェックいたしました。
これって便利。見逃さない機能がテレビに付くのはいいWEB活用。〜これ横道。

で、全文書き起こしも可能な状態にはなったのですが、
それは今後の展開次第ということで、本日は論評的紹介であります。
隈研吾さんとしては、非常に現代的な感受力で新型コロナ禍を受け止め、
そしてそこから得られた「気付き」に基づいて
アフターコロナの建築について「直感的方向性」を語っている。
それが「ハコからの脱却」というコンセプト。
アンカーの女性アナがインタビュー後の感想を話していましたが、
「隈さん自身、外出自粛で勝手が狂って体調を崩した。で、身の回りを散歩し、
そこでいままで目を向けられなかった、細い路地とかなどに
ハッとするほど気持ちのいい空間があることに気付いた」とのこと。
そこから、現代建築は「効率性の高い」空間を求めて、コンクリートやガラスで
ひたすら機能集約型の「気密性の高い」空間に人間を押し込めてきたのではと
反省の気持ちが強く浮かび上がってきたのだという。
〜たぶん、知人的にはこの「気密性」という単語に違和感を持ったのでしょう。
そういう危惧を抱くこと自体は理解出来ます。
とくに番組編集で「ハコとは気密性の高い建物」とエッジが効いてもいた。
しかし隈さんの意図は少し違いがあると思われた。
「効率性が高いハコ空間に人間を押し込めることが、
仕事効率も高いと信じていたが、
実はそれはまったく人をシアワセにはしていないのではないか」
というのが、キーワードだと思う。
「ハコにいれば効率よく仕事できるというのは勘違いで、
むしろ詰め込まれることでの非効率、非人間性に気付かされた。
便利、効率ということへの集中が人間をどんどん不幸にしている」という直感。

そこから、アフターコロナの建築の方向性として
「地面を歩く人間目線で都市空間を考えることを始めたい」
その流れから、京町家のような「人間環境」に思いが向いていると。
あのような「ウチとソトが一体化した人間環境空間」を
現代の技術で再度構築していくことに、ファイトを感じる、という。
ここでも「気密性の否定」というような危惧を抱かせるとは思えるけれど、
このあたりは、高断熱高気密技術発展のただなかに居続けた
圓山彬雄さんなど北海道の建築家たちが以前から発言し実践してきている
建築的「中間領域の魅力化」と、ほぼ同じ内容だと受け止められた。
むしろキーワードは「現代の技術を使って」の部分で、
高断熱高気密に進化した技術を活用して京町家的な魅力的都市空間を
どうやったら現代に構築できるのか、がお話のキモだと思った次第。
その意味ではまったく「隈研吾さん素晴らしい。その通り」。
さらに都市が取り残してしまった「不活用の空間」にも視点が及び、
IT活用のテレワーク環境で、いまは眠っている無数の空間資産を
人間にとって魅力的なものとして活かす都市リノベへの思いも語っていた。

建築は「人間をシアワセにする」空間を作る営為。
そのための技術の発展はそれをフルに活用しながら、
しかしやはり「人間目線」で常に捉え直していく必要がある、
そのための大きな気付きのきっかけが今回のコロナウィルスなのだ、ということ。
隈研吾さん、番組を視聴して間接的・便乗的に「取材」できた次第。
見逃し番組チェック機能は、有益と深く感心であります。