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【本能寺後の光秀肉声「我等不慮儀」/細川家文書】


あけましておめでとうございます。
昨年も無事、毎日ブログ投稿が続けられました。ことしも頑張ります。
いまや、ライフワークというか、生き甲斐の領域ですね(笑)。
やはり見ていただいているみなさんがあればこそと感謝申し上げます。

で、新年第1発も、旧年中から仕掛かりの細川氏文書、明智光秀書状解析です。
どうして住宅がメインフィールドのわたしが、というところですが(笑)
家に住むのは日本人であり、その暮らし方を考えるとき、
民族性やその歴史について洞察するのは重要な部分、と考える次第。
まぁ個人的に歴史への興味が尽きないのであります(笑)。
本日はいよいよ信長殺害に及んだ光秀が、その後の政治軍事展望において
もっとも決定的な「基礎因子」と考えていたに違いない、
最側近にして娘婿としての縁者でもある細川氏父子、藤孝・忠興宛書状。
本能寺の変後7日目の日付。
細川氏というのは幕臣の有力家系であり、藤孝は入り婿になった存在だけれど、
その後も家が存続し続けつい最近も細川護熙が総理になった家系。
その長き血の存続を可能にした決断は、この藤孝の判断力に負うところが大。
代々の幕臣ながら、15代将軍・義昭から信長政権に政治転向し、
明智光秀が統合した旧幕臣を中心とする織田家畿内軍組織の中核だった。
言ってみれば織田畿内軍団・明智軍の副将格であった。
光秀にして見れば、織田家での奉公前後で常に行動を共にしてきた間柄であり
その娘を世嗣・忠興に嫁がせてもいる無二の盟友。
その細川藤孝が、本能寺の変に際し「髻を落とし」信長への服喪姿勢を示した。
さすがに幕臣家らしい出処進退の仕方なのだと思う。
政治軍事的にはかなり勇気のいる決断であり、天下への声明効果が高かった。
「おお、細川藤孝父子が髻を落とすべき事態であるのか・・・」
光秀の軍事力の基盤組織の副将が、主将を弾劾したに等しい。

光秀にして見ればまことに不意を突かれたに違いない。
「一旦我等も腹立候へ」と正直に書いている。まさか娘の婚家である
身内の(同然の強い同盟者)副将から絶縁に等しい仕打ちを受けたのだ。
まさに、まさか、という思いだったのだろうと思う。
たしかに信長の殺害という秘事はその決行まで秘中の秘として機密扱いであり
副将にも告げることをしなかったのか。・・・このあたりはどうもあやしい。
細川氏には、その秘望を伝えていた可能性もある。
事前に伝えた上で決起に及んで首尾良く信長を討ち果たしたところ、
その間深く熟慮した上で「髻を落とす」政治行為を細川氏は選択した可能性。
藤孝・忠興父子が同一の政治判断・行為に及んでいるのも計画的・・・。
わたし的にさらに興味を惹かれるのは「我等不慮儀」という光秀の肉声。
一般的理解としては、信長殺害の行為を婉曲に表現したとされる。
この細川氏の解説冊子でも、そのように現代語訳されている。
「不慮」というコトバを国語辞典で調べると〜思いがけないこと。不意。意外。
よくないことについていう。「―の災難に遭う」「―の事故」〜。
この本能寺の変直後7日目の段階でこのようなコトバを使った光秀の心理。
もっとも重要と考えた細川氏への書状において
正確を期して祐筆(書記官)に筆記させたに違いない文書において
このような表現を使っている。「殿、不慮と書くのですか?」「そうだ・・・」。
この時代、不慮というコトバに現代と相当乖離があるとも聞かない。
ある政治的行為を選択した当人が「我等不慮儀」と書けば
その正統性に疑義があると自白したに等しい、
と政局から判断される可能性が高いとは考えなかったのか?
たしかに光秀の信長殺害計画は秘中の秘であり、たまたま大軍団を移動させる
名目として主命での中国出陣があったという絶好のチャンス。
光秀として、千載一遇のチャンスを前のめりで実行したけれど、
政治的正統性確保にまで深謀は及んでいなかった、という自白ではないか。
まさに不慮、深く考えない行動であったと。
あとの文面は繰り言のようだ。いわくもう決戦も近づいているので早く出馬せよ、
望み通りの国をあてがうから頼むという哀願にも近い表現。・・・

この書状を見て細川氏はいよいよ自らの政治選択の正しさを実感したに違いない。
ただ光秀の真意は別にあったのかも知れない。
信長に「俺の目で見ている」とまで思わせるコミュニケーション能力を持つ光秀が
こういう錯誤を簡単に冒すとも思いにくいのですが・・・。

【具に候えば見る心地に候/信長の光秀「報告」評】


きのうの続篇・戦国末期の織田家中内部消息資料解析であります。
細川藤孝当主時の細川家収蔵文書からの明智光秀消息。
戦国期の消息を伝えてくれる資料にはいろいろあるでしょう。
比較的に客観的と思われる「多聞院英俊の日記」など、
今日で言えば一種のメディアとも言えるような情報記録媒体もあった。
現代のメディアでも多分にそのメディアの主観的意見も多いことを考えれば、
この時代の記録文もそれほど遜色なく信頼可能と思える。
後の世の人間にして見れば、現代のウォールストリートジャーナルと人民日報を
なんとか総合吟味して、真実の現代史を解明するのに似ているように思える。
しかしなんといっても、直接的消息を伝えてくれるのは当事者間の手紙のやり取り。
毎日戦争に明け暮れる時代、とくに織田家のように多方面作戦を展開すると
本拠地にいる信長と、各地域の担当武将との情報交換は必須だっただろう。

わたしが大きく惹かれたのが信長から光秀に宛てられた書簡のこの一節。
1574(天正2)年7月29日日付のものであります。
1582(天正10)年6月2日が本能寺の変なのでその8年前の主従関係。
この年当時すでに幕府・義昭将軍は信長に反乱を起こして鎮圧され
京都政局から放逐され幕府直臣100名以上が義昭の鞆下向に同行している。
一方で、細川藤孝ら多くの幕臣が京都に残り信長側に転じた。これらの旧幕臣は、
明智光秀の与力となり幕府の組織を引き継ぐ形で京都支配に携わることとなっていた。
すでに浅井朝倉連合軍は撃破されていたが、武田信玄上洛の動きと併せ
対本願寺一揆との泥沼戦争など戦国騒乱の最佳境段階であったと言える。
信長からの細川藤孝への文書では繰り返し「光秀とよく相談せよ」と書かれていて、
光秀は義昭将軍の空隙を埋める役割を担い、京都政局の管掌と畿内での
織田軍の全権を把握する立ち位置にあったことがわかる。
政治的には光秀はまさに旧幕府と織田家の繋ぎの中核にあったと思える。
信長自身は伊勢長島での一揆との泥沼戦争中であり、光秀の方は
大阪の本願寺勢力との「根切り」戦争の渦中にあった。
この段階で信長の光秀への信認は極点まで高まっていると思える。
「具に(つぶさに)候えば見る心地に候」という光秀の戦況報告への激賞ぶり。
まさに信長にとって「俺の目で見ている」と深く実感できる主従関係。
見方によっては、光秀は信長の家来というよりも旧幕府勢力を束ねて
信長本軍と「同盟関係」にあったと見て取ることも可能ではないか。
織田家中でもっとも早く近江坂本に居城構築を許された事実は象徴的。
きのうも触れたように天下という実質エリアが「畿内地域」というのが当時常識であり
畿内地域はほぼ全域が光秀の担当領域。朝廷対策から幕府対策まで
有識故実がメンドく腹の底の知れない権謀術策がうずまく京都=天下「政局」で
結果として織田家が幕府を滅ぼしてもなお政局の主導権を握り続けたのは
明智光秀の存在なしに成立しなかったのではないか。

こういう役割は織田家の他の重臣、たとえば柴田勝家とか丹羽長秀、
さらに木下藤吉郎などにはまったくムリな相談だったことは疑いない。
畿内情勢を占有的に織田家の立場でハンドリングできる能力者は、
織田家家中で、ただ光秀一人だったのが現実の姿だと思われる。
だから信長は、「具に(つぶさに)候えば見る心地に候」と心境を吐露した。
そう言われた光秀は深く自負するところ大だったに違いない。

この主従関係の時点から8年後、
本能寺の変は勃発する。信長は本能寺を襲った軍が明智光秀と告げられたとき
「是非に及ばず」と語ったという伝承がある。
光秀が襲ってきたのであれば、用意万端、自分の死は絶対免れないと悟ったと。
信長と光秀、この関係には強く興味を惹かれるものがある。・・・

【細川家文書から「麒麟がくる」を推理する】

図は元総理の細川護熙氏の細川家が公開している美術館、
「永青文庫」の季刊誌の最新号から。
ことしは「麒麟がくる」が放送されたので、明智光秀の素性を探る意味で
盟友にして織田政権下での配下・細川藤孝の細川家が所蔵する資料は
いろいろな意味で注目されていた。
そしてそのことは細川護熙氏の自筆原稿からも窺われ、
NHK側に氏から再三「明智光秀を取り上げるべきだ」と働きかけていたとのこと。
永青文庫では満を持して、細川家に伝わる信長からの書状など、
明智光秀の実像に迫る一級資料の公開が行われる「ハズ」だった。
しかしこれもまた、明智光秀の日本史への意趣返し的報復なのか、
世情を混乱させるコロナ禍が社会を覆い、
永青文庫が企画した「新・明智光秀論〜細川と明智 信長を支えた武将たち」展は
当初の4/25−6/21の予定が中止されざるを得なかった。
それがようやく2020年11月21日(土)~2021年1月31日(日) 開催された。
まことに光秀の怨霊の祟りか、と日本史好きとしては慄くばかり・・・。
この季刊誌自体、発行は4/25となっている。
で、興味深くその内容を吟味させていただいております。

わたし的にはこの情報開示を見て、いわゆる畿内地域の当時の政治社会動向と
織田家がそれを制圧していく過程で明智光秀の果たした役割の生々しさを再認識。
畿内地域こそが「天下」だという当時の社会常識からして、
信長の「天下布武」という政治軍事スローガンと、
その実現のために大車輪の活躍をした明智光秀像が垣間見えた。
細川家収蔵資料から浮かび上がってくるのは、信長がいかに光秀を信頼し
その情報把握能力の高さ、カミソリのような切れ味を信認していかかが伝わる。
考えてみれば織田家政治軍事組織中で、複雑極まりない京都と畿内を
制圧できる戦略戦術を企画立案できるような人材は皆無だった。
戦乱により衰微していたとはいえ、曲がりなりにも「政局」の中心であり
朝廷権力と室町幕府政権もそこに存在する中で、
すべての関係性を整理整頓して、織田家の政治目的を完遂させるには、
相当の状況把握力、政治コントロール能力が不可欠だっただろうことは明らか。
新興の政治軍事勢力であった織田家が、それまでの阿波・三好氏とは違って
本当に天下布武を実現できたことの根拠をよく考える必要がある。
織田家はそのような「道案内」「先導的指導者」として光秀を得たことが、
いかに巨大な利益になっていたことかが、マジマジと実感される。

そしてその明智光秀が信長を殺した後、
なぜ細川藤孝が光秀からの勧誘に応じなかったのか、
その決定的書簡文書も今回の展示会では公開されていた。
明智と細川はなぜたもとを分かったのか、細川氏的には一族の帰趨を決する局面で
なぜそういう決断に至ったのかという消息がうかがえる。
・・・それにしても、最初の会期が中断され、
また今次の開催も時間を同じくしてコロナ禍が猖獗している。
本能寺の変と明智光秀の怨霊・・・闇は深いと驚かされる思いであります。

【ニッポンの正月 注連飾りアラカルト】




お正月まであと2日。いよいよ押し迫ってきた年末時期、いかがお過ごしでしょうか?
ことしもコロナウィルス禍の最中ではありましたが、なんとか年中無休でブログ書き。
まぁ、一回書くのを休むとクセになるので継続し続けております。
誰のためと言うよりも、いまや書くこと自体が習慣化。
そのためには健康にも留意しなければならないことから、
自分自身の「長生き」のための大きな手段にもなっている(笑)。
現実的な実利に繋がっているようにも思えております。
書くためには、考える作業が前提になるので頭の体操としても有益。
で、ことしはワケあって複数箇所で年末に大掃除+片付け作業。
片方はようやく一段落が付いて、明日からわが家の方も着手する予定。

写真は日本各地の注連飾りのあれこれが展示されていたもの。
ことしは注連縄についても、いろいろ探究させてもらいました。
いつも見ている北海道神宮の注連縄にふと気付いて、その造形に驚き
しかも古い写真を整理していたら、津軽の岩木山神社の注連縄がクリソツだった。
おいおい、と思い起こして、その北海道神宮の注連縄を作っている
富良野神社社中を訪れたりもしました。
想像したとおり、富良野の周辺には津軽からの移住者が多く、
そのかれらの伝承の注連縄づくりが北海道での最古参級ということで、
晴れて北海道神宮に奉納されるようになったのだという。
米作が民族に根がらみになっている日本人として、
この注連縄、注連飾りというものはルーツを表現するDNA伝承なのでしょう。
いくつものデザインの注連飾りに、その地域固有のアイデンティティが込められている。

現代では、ほぼ一様な注連飾りが大型スーパー、AEONなどに
所狭しと並べられてますが、
上の写真のような個性表現の方が深く染みわたるように思われてなりません。

【古民家でみつけた「蓄熱囲炉裏」工夫】


写真は江戸期に建てられた宿館建築パブリックスペースの囲炉裏。
旅宿者は、広い土間に面したこの囲炉裏で迎えられる。
囲炉裏は周囲が土間に開放された板敷きスペース境界にある。
土間からそのまま板敷きに腰を掛けるようにもできる。
いかにも融通無碍な接遇装置と言えるでしょう。
こういった囲炉裏の切り方はけっこうたくさん見てきたけれど、
こちらで意表を突かれたのは、その基壇として石が積み上げられていること。

ご存知のように石には「蓄熱性」があることが知られている。
自然素材だけで建築が作られていた時代、石の効用についても
先人の知恵は現代人と遜色ないレベルだったと思われるので、
この「設備仕様」はかなりの「温熱環境的工夫」なのではないかと思える。
たぶんこの建築の目的性格から言って、この囲炉裏はほぼ常時焚かれていた。
いつ何時来客があっても「あたたかく迎える」ということが求められた。
その目的に対して先人はこのような建築仕様を用意したと思える。
常時火が熾されていれば、基壇分の石に常時熱供給されて
それが持っている蓄熱性から、石基壇全体から輻射熱が放散された。
それがWELCOME装置としてこの宿館の決定的差別化になったのではないか。
もちろん断熱性や気密性のレベルの低さはやむを得ないけれど、
なぜか日本では普及しなかった「オンドル」「ペチカ」のような知恵の
端緒的な形態をそこに見ることができると思われる。
今日の「高断熱高気密住宅」でも壁面・床・天井などの面からの輻射は
住宅の温熱環境で決定的な意味を持つ。
直接的な囲炉裏火の放射熱に加えて、床面からジワジワとくる輻射熱。
旅人にしてみれば、このような建築仕様は
「あの旅宿はなにより、あたたかいわ」という評判に繋がったのではないか。
加えて言えば蓄熱と放散は除湿にも繋がったはずでそういう便益もあった。

実際に囲炉裏に火が点けられていたわけではないので
実証性は確認できませんでしたが、
これは結構な温熱・除湿効果があったのではないか。
そう見ると板敷きの床面に基壇部分接続部分で熱変形とおぼしき形跡も。
たとえて言えばレンガで作る「ペチカ」にも似た温熱工夫だったと思える。
このような他事例も研究発掘してみたいと考えておりますが、
みなさんのご意見はいかがでしょうか?

English version⬇

[Ingenuity of “heat storage hearth” found in an old folk house]
The photo shows the hearth of an inn building public space built in the Edo period.
Guests are greeted in this hearth facing the large dirt floor.
The hearth is located at the boundary of the boarded space, which is open to the soil.
You can also sit on the board as it is from the dirt floor.
It can be said that it is a very flexible reception device.
I’ve seen quite a lot of ways to cut the hearth like this,
What surprised me here was that the stones were piled up as the foundation.

As you know, stones are known to have “heat storage”.
In the era when architecture was made only from natural materials, the utility of stones
It seems that the wisdom of the ancestors was at a level that should be dismissed, so
It seems that this “equipment specification” is a considerable “thermal environment device”.
Perhaps because of the purpose of this building, this hearth was almost always burned.
It was required to “welcome warmly” no matter when and when there were visitors.
It seems that the ancestors prepared such architectural specifications for that purpose.
If the fire is constantly burning, heat will always be supplied to the stones on the base.
Due to its heat storage, radiant heat was dissipated from the entire stone platform.
That may have been the decisive differentiation of this inn as a WELCOME device.
Of course, the low level of heat insulation and airtightness is unavoidable, but
For some reason, wisdom such as “Ondol” and “Petika” that did not spread in Japan
It seems that the introductory form can be seen there.
Even in today’s “highly insulated and airtight houses”, radiation from surfaces such as walls, floors, and ceilings
It has a decisive meaning in the thermal environment of a house.
In addition to the direct radiant heat of the hearth fire, the radiant heat that comes from the floor surface.
For travelers, such architectural specifications
It may have led to the reputation that “that lodging is warmer than anything else”.
In addition, heat storage and dissipation should have led to dehumidification, and there was such a benefit.

Because the hearth was not actually lit
Demonstration could not be confirmed, but
I think this had a good heat and dehumidifying effect.
If you look at it that way, there are signs of thermal deformation at the base connection on the wooden floor.
It seems that it was a thermal device similar to “Petika” made of bricks.
I would like to research and discover other cases like this,
What are your opinions?

【美神のプロポーション/日本人のいい家⑮】


建物というのはあらゆる人に分け隔てなく素性をさらす。
その姿カタチで、本然を伝えてくれるものだと思います。
同時に、その内部には「機能」を実現する空間を持っている。
その両方でわたしたちのために役立つものでしょう。

写真はよく見学に訪れている日本民家園に収められている
「蚕影山祠堂」(コカゲサンシドウ)であります。
わたし的にこのお堂、ひと目見たときからときめかせていただいている(笑)。
不思議な感じで、まるで「ひとめぼれ」そのもの。
祠堂という名付けの通り、蚕の紡ぎ出すふしぎにリスペクトした建築。
ということで建築の「施主」はいのちのありがたさ、そのものであるのかも。
そういった由縁が見る者のなにかを刺激するのかも知れません。
しかし造形する立場からして見て、巧みに丸、三角、四角が絶妙バランス。
そして造形素材は自然に帰る木、萱だけで構成されて
まるでいのちそのままで訴えかけてくる。
この建物は「入れ子」構造で内部にも、本体の小型建築が仕舞い込まれている。

川崎市教育委員会の簡要な説明が公開されています。
〜養蚕の神「蚕影大権現」を祀る宮殿と、それを安置する覆殿より構成される。
もと川崎市麻生区岡上の東光院境内に祀られ、人々の信仰を集めていたが、
養蚕の衰退とともにお堂の維持が困難になったため、岡上の養蚕講中より
昭和44年に川崎市に寄贈された。翌45年、祠堂を日本民家園に移築し、
それを機に覆殿は復原修理された。〜というのが来歴。
〜棟札によると、宮殿は文久3年(1863)に再興されたことが判明し、
造営には岡上村講中のもの38人が助力した。大工(番匠)の名は
字が掠れて読めないが、4字のうち2字目は「海」であり、
岡上の大工鳥海氏の先祖ではないかと推察される。〜
この建築年代は横浜の開港による外国交易の活発化で
日本は「生糸」の生産輸出で盛り上がった時期に相当し、
横浜にいちばん近い川崎市の当該地域では、盛んに生産されたとされる。
その経緯を伝えるように養蚕講中(女人講中)38人が助力して造立された。
蚕を飼って糸を生産するのは、女性たち主体の経済行為。
祀られているのが蚕の精霊とでもいえる金色姫という女神なので、
わたしのひとめぼれには大いにワケがあるのかも知れない(笑)。
ちなみに金色姫というのは、インドの女神で4度の苦難を乗り越えて
蚕となって女神になったとされる養蚕のシンボル。
したがって、そのような来歴、施主たちの思いを踏まえて大工鳥海氏は
命がけで、美神を建築表現したに違いない。

●入れ子の中身の宮殿は、間口2尺、奥行3.28尺、隅木入りの春日造形式の
小規模な社殿で、向拝の正面に軒唐破風を付ける。総欅の素木造り。
両側面の板壁と腰壁に嵌め込まれた立体的な浮き彫り彫刻では
蚕神である金色姫の物語を表わしている。
●覆<サヤ>殿は桁行15尺、梁間9尺で、正面に入母屋造・茅葺の妻をみせた
妻入建物であり、背面を寄棟造にする。簡素な建物のなかにも
意匠を凝らしているのが窺える。建立年代は宮殿とほぼ同時期と推定。
建物の絶妙なプロポーションに強く惹かれて
その素性にも探究を迫って見たけれど、時間を越えて
はるかに魅了されるような小建築だと思い続けている次第です。

【コロナ禍、北海道はやや沈静傾向?】

さて北海道はきびしい冬に向かって相当猛威がと身構えているのですが
グラフのように「新規感染者」の傾向としてはやや減少に転じている。
やや意外とも思える傾向を示している次第です。
一方で下のグラフは東京都の様子で、こちらはまだ山場が見えない。
インフルエンザの一種とされるので、条件的には
北海道の方が気温や冬季の湿度低下などを勘案すれば
絶対に大きく山場が来るハズと思っていたのに、やや意外な展開。
これは北海道の人が行動抑制してきている結果であるのか、
よくわかりませんし、こういった情報については予断も許されないのでしょう。
これから年末年始の休暇期間が始まるけれど、
行動抑制的なアナウンスが繰り返されてきたことが、
どういう結果として表れてくるか、固唾を飲んで見守るということでしょう。
家族も今年は帰省しないとも言ってきている。
アメリカではワクチンの投与が始まってきている。
ただ、異例のスピード認可ということで不安もという指摘もある。
なんとか早く集団免疫が達成されていくことを願うばかり。

昨日でわが社も多くのスタッフは年末年始休暇に突入であります。
ことしはまったく1年、コロナコロナで振り回されたワケですが、
これはもう割り切って対応して行くしかない。
マイナス面は限りないけれど、対応の仕方でプラスの面も開拓はできた。
いちばん大きかったプラス面は、非接触型のZoomなどの
コミュニケーション手段が一般化することで、
ITに早くから取り組んできた企業には有利な条件が広がってきたことでしょう。
わが社の場合、DTPという領域企業ということで、
デジタル化は大きく進捗している。
その環境が多くの企業にも共有されることで、コミュニケーションの広がりが
より広がってきたということができるのだと思います。
たぶん、このデジタル化のさらなる進展という傾向はより顕著になるのでしょう。
こういう「新環境」にいち早く適応して、そのなかで生きる道を探すしかない。
年末、来年に向けて戦略戦術を練り直していく期間にしたいと思います。

あ、最近おかしいFacebookの表示。
掲載する写真ビジュアルがなぜか、1日遅れで表示されております(笑)。
なぜなのか、わたしのような1ユーザーには理解不能な事態。
もしきょうも不具合でしたら、それはお許しください。・・・

【共同体「普請」と現代住宅/日本人のいい家⑮】



以下は以前取材した「日本民家園(川崎市)」展示記録からの要旨抜粋。
<近世民家にかかる工事は広く「普請」〜ふしん〜と呼ばれる。
家の新築を始め、増改築・屋根葺き替えも普請という範疇。
普請の語源は仏教語で「功徳をあまねく請い願うこと。
禅の修行者が総出で働くこと」を意味した。
そこでは専門の職人の仕事と村共同体社会の人々の
相互扶助による仕事とが組み合わされていた。
屋根吹き替えでは村人たちは材料や品物を持ち寄り、その普請作業に参加した。
普請は一軒の家を村共同体でつくり、祝う共同作業であり「付き合い」でもあった。>
<民家の「普請帳」は江戸時代から残っている。そこには家普請にかかった
実際的な経費ばかりでなく、援助や協力を受けた人々の名前、提供された労力や
物品などが詳しく記されている。
普請の援助協力は近世の生活共同体ではひとつの「付き合い」であったが、
反面それは労働交換の性格を持っていた。家主は後の「お返し」に備えて
事細かく、援助協力の内容を記録した。>

今日わたしたちは、資本主義社会で暮らしている。
生活共同体に近似してはいるが全然違う会社企業という「稼ぎ」組織に所属し
そしてその存在基盤とはほぼ無縁な「住宅地」に暮らしている。
とも働き夫婦ですら、別々の「稼ぎ」組織に所属して生きている。
その距離間を「通勤」というカタチで移動しているという暮らし方。
近世までの「民家」とはまったく性格の違うウツワにわたしたちは住んでいる。
いわば共同体とは「無縁」な社会を生きていると言えるのでしょう。
で、わたしたちはいま住宅を得るとき、無縁に住宅「会社」を選択する。
建築工事はその会社企業組織のシステムに沿って運営されていく。
依頼者は、ほぼそれまでの生き方からは無縁の地域の土地を取得して
ある機縁でたまたま知った会社に巨費の資金を用意して依頼する。
たぶん「普請」で掛かった費用とは隔絶する巨費になっていると推定できる。
資本主義的「商品」として交易されているのが現代住宅なのでしょう。

在宅ワーク、テレワークというまた新たな「環境変化」が不可避に始まって
さてこういった現代の住宅建築総体に変化が生まれてくるのかどうか、
きわめて興味深い社会段階をわれわれは生きているように思います。
かつての「職住一体」という意味合いとはまた違う住環境。
現代的な会社組織への通勤という要素が減衰して
一方で住宅にまた違う側面、機能がプラスされていくのでしょう。
どういった「変化のタネ」が見えてくるかと予断しながら、
注意深く考えていきたいと思いますね。

English Version⬇

[Community “Public-Architecture” and modern housing / Japanese good house ⑮]

The following is an excerpt from the exhibition record of “Japanese Folk House Garden (Kawasaki City)” that I interviewed before.
Starting with new construction of a house, extension / renovation and roofing replacement are also in the category of general contract.
The etymology of Fukon is a Buddhist word, “to pray for merit.
It means that Zen practitioners work as a whole. ”
There, the work of professional craftsmen and the people of the village community
It was combined with work by mutual aid.
In the roof re-blow, the villagers brought in materials and goods and participated in the construction work.
Fukon was a collaborative work and a “dating” to build and celebrate a house in a village community. >
<The “general contract book” of a private house has remained since the Edo period. It took a house contract there
Not only the actual expenses, but also the names of the people who received assistance and cooperation, the effort provided
Goods etc. are described in detail.
Aid cooperation of the general contract was one “association” in the modern life community,
On the other hand, it had the character of labor exchange. The landlord prepares for a later “return”
The details of the assistance and cooperation were recorded. >

Today we live in a capitalist society.
Belonging to a “earning” organization called a company that is similar to a living community but completely different
And he lives in a “residential area” that has almost nothing to do with its existence base.
Even working couples live in separate “earnings” organizations.
A way of life in which people move between the distances in the form of “commuting.”
We live in Utsuwa, which has a completely different personality from the “private houses” of the early modern period.
It can be said that we are living in a society that is “unrelated” to the community.
So, when we get a house now, we choose a house “company” unrelated.
The construction work will be operated according to the system of the company’s corporate organization.
The client acquires land in an area that is almost unrelated to the way he lived until then.
I ask a company that I happened to know about a certain opportunity to prepare a huge amount of money.
It can be presumed that it is a huge cost that is isolated from the cost of “general contract”.
It is probably modern housing that is traded as a capitalist “commodity”.

New “environmental changes” such as home work and telework have inevitably started.
Now, whether or not there will be a change in the overall modern residential architecture.
I think we are living in a very interesting social stage.
A living environment that is different from the former meaning of “integrated work and housing.”
The element of commuting to a modern corporate organization has diminished
On the other hand, different aspects and functions will be added to the housing.
While predicting what kind of “seed of change” will come into view
I would like to think carefully.

【富山の薬売り・商文化/日本人のいい家⑬-2】



さて富山の薬売りおじさんのよすがを訪ねる探索その2.
越中反魂丹の池田屋さんの店舗風景であります。
全国への訪問販売が主な営業スタイルだけれどその本拠の様子。
上の写真は、昭和29年撮影の写真だそうで、柳行李を担いで店を出発する
2人の行商人を撮影したもの。
時代的にはわたしが話を聞いていた富山の薬売りおじさんの時期と
たぶん2−3年の相違しかないと思われます。
その下の写真は昭和20年の大空襲で店舗も全焼したけれど、
すぐ翌年にはこの写真のように再建築されたのだという記録。
その下には最近2014年段階の正面外観。
どうも、昭和21年にほっそりと植えられた街路樹が、成長しているようにも見える。
70年近い歳月が経過しているので、そうであるかも知れない。
そんなふうに写真記録を見ていると、いちばん上の写真の右側人物は
ひょっとしてわが家に来てくれていたおじさんかもと、想像が燃え上がる(笑)。

配置売薬の歴史について、「もうひとつの学芸員室」というWEBサイトから要旨抜粋。
〜元禄三年(1690)に遡る。加賀100万石の前田家から分封した富山10万石
2代目藩主・前田正甫(まさとし)公が江戸城に登城した折、
岩代三春藩の藩主・秋田輝季公が激しい腹痛を訴えて倒れた。
正甫公が持参していた「反魂丹」を与えると、たちどころに腹痛は治まった。
なみいる諸大名がその偉効に感服し、自分の領内での販売を望んだ。
正甫公の命で諸国に行商させたのが富山売薬のはじまりで、
やがて配置売薬にかわっていった。文久年間には
売上げ20万両、行商2,200人に達し、昭和9年行商人14,160人がピークという。
「反魂丹」は古くから中国にその処方はあったが、室町時代に泉州堺浦の
万代掃部助が唐人から教えてもらったのが一子相伝で伝わった。
3代目万代主計は備前国益原村(岡山)に移り住み医者となり万代常閑と名を改めた。
富山藩はその常閑から反魂丹の処方を譲り受け、松井屋源右衛門に命じて
製造・販売させるとともに、反魂丹役所を設けて奉行をおき管理させた。〜
とありました。なにやら「麒麟がくる」での「お駒さん」のビジネスと被ってくる(笑)。

店内に掲げられていた古い看板の類から、
売薬と日本人の暮らしの空気感が伝わってくる。
いまどきの大型ショッピング化したクスリ店よりもなんとも風情があるし、
なによりひとに頼もしげに、やわらかく感じられるのは、気のせいでしょうか(笑)。

【越中富山の薬店舗/日本人のいい家⑬-1】


北海道には北前船交易による江戸期からの移植文化が根付いている。
なかでも、北陸越中や越前、近江商人などの影響が大きい。
札幌の地元デパート・丸井今井さんは北陸出自とされていて、
そういった歴史的余韻が冷めやらず存在している。
彼の地の越中富山の「薬売り」という日本の「訪問販売ビジネス」は興味深い。
薬売りさんたちにして見れば、北前船で渡れる北海道は、
案外、行きやすい販売エリアであったのかも知れない。

わたしの子どもの時期、いまから60年も前になるけれど、
富山から来てくれる薬売りのおじさんは、2枚目の写真のように、
紙の風船をこどもたちに配って、子どもたちは大喜びでWELCOMEしていた。
まったくたわいのないギミックだけれど、
娯楽の少ない時代、こんな紙風船でも子どもは純真にだまされていた(笑)。
クスリというのはいまのようにたくさんの大型ショップがある時代ではなく、
しかし、在庫保存可能なものであったので、
年に1〜2回程度、定期的に訪問販売すれば、用が足りていた。
風邪クスリ、おなかのクスリ、軟膏類などの日曜薬品を定期訪問して
補充販売するというビジネススタイル。
オヤジやおふくろは、そんな薬屋さんを心待ちにしていたように思う。
それは得がたい「情報屋」さんの側面を持っていて、
本州、北陸地域の生きた情報を聞いて、たのしい歓談機会としていた。
わたしは、そういう歓談の様子を末っ子として臨席して聞いていた。
なぜかそういうヒアリングが好きだったし、オヤジも自然に同席させていた。
情報源としてそういう話を聞くことで想像力の羽根を広げていたのではないか。
いまはそんな気付きがしている。

そういういわば一方通行だったコミュニケーションが、
一度訪れた富山で双方向に広がる機縁を思い知らされた。
はじめて訪れたけれど、紙風船のような媒介ツールを通して、
情報のシンクロがお店の空気のなかで駆け巡っていたように思います。
「そうか、あのおじさんはこういう店舗から派遣されてきたのか(笑)」と。

きっと日本の「情報流通」はこういった人々を介して
全国での噂話のようなカタチで流布されていったに違いない。
ビジネスと人間情報の深い関わりがこだまのようにリフレインしてくる・・・。