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【対韓国だけ「鎖国」が平和的では?】

韓国との関係が非常に難しい状況になっていますね。
当面の間は好転するようなことはないように思います。
こういう時期には、不測の軍事的衝突のようなことに慎重に注意すべきでしょう。
対中国やロシア、北朝鮮についてはさまざまな「シミュレーション」が用意され
いわば「危機管理」のひな形、定型化した対応があるそうですが、
韓国との間ではそのようなことを想定していないとされる。
<ちなみに、今この状況の中で、ノー天気に「芸術祭だ」と言って
公費を使ったイベントを仕掛けて炎上させている自治体があるようですが、
活動家的な「芸術監督」は別にしても、知事さんの感覚を疑ってしまう。>
こういう時期、とくに国家間のことなので、緊張はあり得るけれど、
そうであるほどに、注意深く「管理コントロール」する必要があるでしょう。
務めて冷静な世論になるようにキモに銘じていなければならない。

ただ、歴史を見ていると、
こういう国際情勢感覚は日本が置かれた地政学的な位置から、
ながくあり続けてきたというのは自明ですね。
江戸の「鎖国」は、東アジアにおける一種の平和戦略としても機能していたのでしょう。
東アジア世界ではながく中国との関係が基本的国際秩序であり、
朝鮮半島国家にしてみれば、日本は「夷狄」的に見えるのでしょう。
そういった国際秩序に対して、日本は「脱亜」の方法として
最低限の国際関係にしたいということで鎖国していたのではないか。
非常にすぐれた平和的外交方針だった。
幸いにして、海を隔てていることがこうした方針を可能にしたのでしょう。
最近の日本の対韓国の考え方で
「ていねいに無視する」という小野寺前防衛大臣の考え方があるけれど、
そこには江戸期の鎖国政策的な色合いが強く感じられる。
「鎖国」には対外的緊張をあおるような側面は見出しにくく、
相手側にも、基本的には平和的な姿勢は十分に伝わるのだと思われる。
国としては嫌われていることは知った上で、平和的に近隣でいるためには、
断絶ではなく、鎖国という「迷惑を掛けない」という姿勢の方がいいのでは。
「善隣友好」ではなく「善隣鎖国」という考え方。
国民間や経済の人的往来とか交流は大いに行うことは地政学的に当然で、
あくまでも政府間での関係について、ということ。
この「鎖国」的な対応の仕方というのはあくまで「対韓国」だけの考え方で、
世界との関係についてはまったくこれまで同様ということです。
心構えというか、国民感情的にヒートアップしないためですね。
乞われれば対応するけれど、けっして深入りはしないというように。
国としての対韓国外交方針として、鎖国的に対応すべきではという次第。

<写真は国立博物館で展示され撮影許諾の横山光輝さんの「三国志」原画。>

【万葉集編纂 日本語の成立・進化】

わたしの好きなBS-NHKの番組に「英雄たちの選択」があります。
日本史を題材に、歴史家の磯田道史さんがMCを勤め
歴史周辺関係のゲストたちと面白く日本民族の深層に迫ってくれる。
先週は「万葉集」についての特集でした。
万葉集の編纂は、奈良・聖武天皇の頃に開始された。
東アジア世界との活発な交流・戦争の時代であった天智天皇(大王)の時代から
白村江の敗戦を経験し、その後朝鮮半島から百済の国家的流入があって、
やがて中国の王権との平和共存が実現していって、
本格的な「国家」が樹立されていった時代なのだと思います。
天智の弟である天武がはじめて「天皇」の即位して、
中国王朝との外交を展開しそれまでの倭国から「日本」に国号を
国際的に認めさせ変更させたとされている。
たぶんこの間の戦争から国号変更に至る過程は、日本の根幹形成期。
そういう時代背景の中で万葉集は成立していった。
書き言葉はまだ漢字しかなくて、それを「万葉かな」ということで、
それまでの「やまとことば」に一音ずつ漢字を「当てて」いた。

明治の初め頃にも、日本はあらたな文明との遭遇から
日本語の創出をしなければならなかったけれど、
ちょうど、この万葉集編纂のころも同様の社会変革時期だったのだと。
日本ではこの時期から身分を超えて社会全体で
言の葉をつかって、万葉な多様なひとびとの感じたことなどが
残され、それを現代人でも「追体験」することができる。
日本語という独自の民族的文化基盤を獲得していった。
漢字という世界標準の言語が導入され、文章博士という存在が
日本全国に派遣されて、普及啓蒙されていくと同時に、
それを使って、この列島で暮らしていたひとびとの心象が表現されていった。
やまとことば、という文字を持たない言語が、
このように表現されるようになった。
そのことによってわれわれと同じような人間感情をもっていたことが、
明瞭に後世までそのことを感受することができる。
そこからでも1500年程度の「文化蓄積」が可能な基盤が形成された。
いまや、その存続時間は世界有数の国家社会。
基盤としての「日本語」というもののありがたさ、
そのために苦闘した多くの先人たちの営為を大いに思わされますね。

【三国志 「赤壁」戦争と「弩弓」兵器】

本日は、住宅ネタ休日。三国志世界の戦争ネタ。
悲しいかな戦争は、人類の進化と常に随伴して「発展」してきた。
他人を殺すという目的がなによりも権力獲得の最有力手段であり
その目的完遂のために、兵器は進化してきた。
中国は、人口集積・文化発展において日本にはるかに先行して
この三国時代には、人口760万人程度なのに、
その戦争スケールでは、常に十数万という多数が参加して殺し合いを行っている。
そういうなかでも「赤壁」はその後、魏・蜀・呉の3国が鼎立する
最大の契機になった揚子江を舞台とした大水上戦争としてのクライマックス。

この水上戦では、矢いくさが多様に展開したとされる。
その「花形」になっていたのが、ほぼ自動化した矢の射出装置「弩弓」。
今回の国立博物館展示でも、海上の1/4を独占して
写真上のような矢戦の様子が天井一杯に展開していた(笑)。
まことにわかりやすい展示展開。
みなさん「超弩級」というコトバは普通の形容詞になっている。
たぶん、この弩は中国大陸ではどんどん進化して
その後の鎌倉期の元寇でも主力兵器となっていたのでしょう。
弩級という言葉が根付いたのは、日本では少人数・小規模の局地戦争が多かったので
弩はあまり発展しなかったのに対して、アジア征服戦を戦っていた元軍は
このような大型射出装置が発展していたので、日本側が悩まされたと言われる。
諸葛孔明が、矢をたくさん収集するのに敵陣近くまで
草屋根にした高速船を浸入させて、屋根にたくさんの矢を射させて
高速全力で引き返して、戦利品として矢を一晩で得たという逸話がある。
いかにも大陸中国での戦争営為のスケールを大きさが
三国志世界の真骨頂なのでしょう。
しかしわたし的にはどうも戦争ばっかりやっている描写は、登場人物も多すぎて
いちいち名前を覚えて感情移入するのがメンドクなったりもした(笑)。
やっぱり戦争は、桶狭間のような電撃戦とか、
関ヶ原のような戦場以外で雌雄が決しているような政治陰謀の世界の方が
ニッポン人的には、近しい感じが否めません(笑)。

PS:
どうも「弩級」というコトバについては「弩」は関係なく、
以下のようなことがらがコトバを生んだ経緯だというご意見が寄せられました。
わたしの「意見」も添えさせていただいて、書き加えます。

Shigeru Narabe 弩級、超弩級は、1906年進水の英国の戦艦ドレッドノート
(HMS Dreadnought)から来ています。
https://ja.wikipedia.org/…/%E5%BC%A9%E7%B4%9A%E6%88%A6…

三木 奎吾
Shigeru Narabeさん,その通りのようですね。ただ、どうも自分的には
「弩」の方のイメージが強かった。司馬遼太郎の記述でも、兵器としての「弩」は
かなり日本人と鎌倉武士たちに強烈な体験を残したと書かれていた記憶がある。
この戦艦が登場したときに、ドレッドノートのアタマの「ド」に対して日本語として
漢字の「弩」を当てたのにはどういった整合性、必然性があったのか。
そこが知りたいと思っています・・・。
〜以上。

【1800年前中国三国志時代「穀倉丸抱え」住宅】


日本文化の深層変化を見る意味で東京上野の国立博物館企画展は
東京出張時、時間を見てチェックするのですが、最近の展示では
中国にちなんだ、というか、政治的に改善傾向を謳っている日中関係に配慮した
そういった企画展が相次いでいますね。
中国政府側の「微笑外交」米中貿易戦争の副作用ということがあきらかで、
日本側としては付き合っている程度で、あまり実質的とは思えないけれど。
顔真卿の書の展示であるとか、訪日中国人が好きそうな展示が目立つ。
今回も「三国志」についての展示ということで、
日本人来場者以上に中国人訪問者が多い印象。さらに全展示写真撮影許諾。
だいたい、国立博物館展示では主要な展示を除いて撮影許諾はありますが、
さすがに全展示OKというのは珍しかった。
中国ではいわゆる「国宝」的な位置付けになるものは「1級文物」と
呼ばれるそうですが、そういうものもさまざまに展示されていた。
中国国内ではこのあたり、どうなのかは事情を知りませんが
中国のみなさんはさかんにスマホでシャッターを切っていた。
まぁいろいろの文物でしたが、やはり住宅とか建築にはつい興味が強く湧く。

この三国志時代というのは西暦では2世紀に相当する。
日本では魏志倭人伝・卑弥呼の時代です。
中国での人口規模は263年ころで767万人。寒冷化の影響で
人口減少期に相当していたことから、社会不安が沸き起こっていた。
だいたい中国王朝は易姓革命であって、不安定期になると農民暴動が多発する。
この時期は漢も末期で、各地で「黄巾の乱」という民衆蜂起が繰り返されていた。
その結集軸として中国ではしばしば宗教が媒介になる。
現代共産党独裁中国でも、同様に宗教的な集会などには権力側は
非常に敏感になっているとされている。
こういう社会では、政治も経済も国家もなにより食べ物に帰趨していただろう。
ただでさえ、農民が食えなくなっている時代なのだから、
その収奪者たちの最大関心事は、まさに食料へのこだわり。
そのように見ていて、こうした時代の地域の支配者たちの住形式をあらわす展示。
写真は、上は「三連穀倉楼」と名付けられた1級文物で住宅ミニチュア造形。
下は「五層穀倉楼」というものでした。
どちらも穀倉を下層階に抱きかかえて、その上部に住居施設を作っている。
食糧危機に際して、まことにわかりやすく食べ物を大量に抱きかかえるという
「設計趣旨」のきわめて明瞭な住宅建築だと思います。すごい中国的(!)。
この文物自体は住宅のミニチュアですから、元のモデルになった住宅の
素材自体はわからないのですが、穀倉サイロ部分は土を焼成させたレンガと推定。
そのなかに周辺の農民から搾取した食料を一杯に貯め込んでいる。
その上の住居部分はたぶん木造で軽く建てられているのだろうと想像。
下の写真の方がより大型。魏を建国した曹操の息子で帝位を譲って退隠した
「献帝」の終の住み処というようなアナロジーが書かれていました。
しかし、個人的には上の写真のデザインセンスに軍配。
3つの穀倉と、その上の3階部分の平屋的な部分の対比がいい。
屋根はかなり軒が長く伸びていて、全体のバランスが取られている。
なんとなく「ツリーハウス」も連想させてなかなかいい雰囲気の家だなぁと、
勝手に「すみごこち」を妄想していました(笑)。

【国と北海道の住宅施策審議「交流」キックオフ】

きのうは「住宅・建築生産性向上促進事業」検討会議に参加。
そのなかで「2次インスペクション」という聞き慣れない概念について
そのガイドライン化検討委員というような役割でした。
わたしは、北海道で「北海道R住宅」という地域独自の住宅施策の
制度設計から立ち上げ、スタートアップ、組織作りなどに
関与した経緯があって、その「北海道R住宅」の施策の「先導性」が
国レベルでは評価されているそうで、そういった経緯からの要請のようでした。

昨日がそのスタートアップということで、
関係する委員・参加者のみなさん、名刺交換させていただいた方が26名。
その他、旧知の方が6名と言うことでした。
事務局は一般社団法人・住宅瑕疵担保責任保険協会、という組織。
ほとんど初めて知り合うみなさんとの会議ということで、
まずはどんな状況と問題意識であるのか、情報収集からと考えていたのですが、
途中から、わたしの名前が司会者の方から出るとか、
旧知のみなさんからの表情でのメッセージ伝達なども飛び出してきて
徐々に北海道R住宅での体験を踏まえた意見発出などをさせていただきました。
会議は4時間ほどに及び、さらに席を変えて参加者の旧知の方と
懇親しながら、全国の住宅業界情報を交換させていただけました。
今回会議をキックオフとして、岐阜・札幌と場所を変えて
12月まで、意見交換・ガイドライン化作業が続いていくことになります。
本州地域と北海道の住宅施策の交流というような側面も強く、
手探りながら、有意義な会議になりそうな予感がしております。

なんですが、ことしは東北出張が多く、東京は久しぶり。
多分2度目か3度目くらいですが、この時期、日中の暑さはやはりハンパない(笑)。
とはいえ、会議参加者のみなさんからは前日の札幌の暑さ(36度)を
混ぜっ返されたりもしていた(笑)。
でもまぁ、やっぱりまったく暑さの質が違いますね。
空気感の軽さと重さのコントラストが激しいというか・・・。
写真は浜松町のホテル近く、お酒が入っての帰路に撮影したもの。
大都会の眠らない光環境と木々、そして空気の「重たさ」が
一種、幻想的なたたずまいで迫ってきておりました。
大量の「資料類」で荷物が重くもなっていまして(笑)、
その精査などに踏まえて、お役に立てるようにしたいと思っています。
ふ〜〜。あっついなぁ・・・。

【東山魁夷 唐招提寺御影堂障壁画展】

最近は日本画がブームということなのでしょうか。
西洋絵画をみることがめっきりと減ってきています。
っていうか、あまりにも生活文化背景に違いがありすぎて、
作品への内的な「同意」がなかなかおぼつかなくなっている。
やはり日本人として、感受性の共有に敏感になってくるのでしょうか。
ということで、日本画では「国民作家」といわれる
東山魁夷さんの展覧会が札幌の北海道近代美術館で先週日曜日まで
「唐招提寺御影堂障壁画展」が開かれていましたので、
カミさんから久しぶりのお誘いをいただき、大喜びで参観。

この展覧会は、全国で巡回的に展示会を開催していたようです。
唐招提寺が東山魁夷さんに、その開祖である鑑真和上さんの事跡に即して
御影堂を飾る障壁画を依頼し、10年を超える時間を掛け完成させた大作。
日本画の大きな特徴として、いわゆる「壁画」というものではなく、
建具としての引き戸に描かれることが一般的。
したがって、カンバスは建築的な柱梁架構によって縁取られることになる。
西洋絵画が主にカンバスに描かれ、作品単独性が強いのに対して
日本では建築との一体性がさらに強いように思われます。
本来であれば、やはり年に3日ほどしかないという「ご開帳」時に
奈良の唐招提寺で拝観するしかないのですが、逆に言えば、
建具であることで、このように移動展示することも可能だと言うこと。
日本らしい、ということはそんなことからも感じられる。
鑑真和上さんは世界文化としての仏教を導入した青年国家ニッポンを思い、
仏教の魂を移植するという宗教者としての使命感に殉じた人物。
日本の聖武天皇のころ、奥州で黄金が出土し
東大寺大仏、全国に国分寺・国分尼寺が建設されていった、
鎮護国家思想の最興隆期にあった時代。
日本側から繰り返された「招請懇願」を受け中国仏教界の指導者たる
鑑真和上さんが、何度も困難に遭遇し失明までしながら、
来日し、この地に骨を埋めてくれた故事に由来する。
奈良のこの時代は、日本の経済発展期に相当するそうで、
人口の拡大と奥州での産金によって、空前の国家プロジェクトが推進された時代。

東山魁夷さんは、依頼を受けて都合6つの作品を奉呈している。
写真は購入した「図録」ですが、この表紙に描かれた作品は「濤声」。
展示では最初のコーナーで、実際の唐招提寺での展示と同様な
柱梁による空間が再現され、その障壁を飾った様子が再現されている。
東山さんは、この絵を描くに当たって日本海側の日本の海を何度もスケッチ旅行し、
そのモチーフで鑑真和上さんが乗り越えてきた万里の波濤を表現した。
その端には砂浜が描かれて、この列島への上陸を暗示する構成になっている。
そして御影堂の「上段の間」の床の間から周囲の障壁に描かれた「山雲」。
このふたつを鑑真さんの来日をテーマとした初期奉呈作品とされ、
その後後期の作品として鑑真さんの中国での様子をモチーフに3作品作成。
そして最後のワンピースとして、鑑真さんの座像を収めた厨子絵までも
かれが苦難の末にたどりついた鹿児島上陸の絵で締めくくっている。
個人的にはやはり床の間を飾る大作「山雲」に圧倒されました。
なぜか、みなさん素通りされていたので、たっぷりゆったり拝観できました。
やはり日本画はわかりやすく、親近感を持てて素晴らしい。しっかり堪能。

さて本日は東京出張。建築の「2次インスペクション」というテーマの審議会参加。
北海道では住宅の審議会、参加機会は多いのですが国の審議会は初めて。
どんな状況になっているか、しっかりウォッチしてきたいと思います。
ユーザーの立場ということで、ご報告可能であれば様子もお知らせします。

【盛夏さっぽろ「ヒグマ2頭」公園侵入事件】

盛夏を迎えて、札幌でもわたしの散歩はどんどん距離延長。
早朝6時前くらいに出掛けて、だいたい1時間半程度、
歩数にして1万歩を超えるのですが、
おおむね札幌市の西部、山の手から西野を流れる発寒川流域を歩いております。
おおむね人工の手が入った公園緑地を歩くので
自然との対話といっても、ヒグマさんにまで遭遇することはない(笑)。
ただ年によってはこの散歩地域でもヒグマの遭遇ニュースが流れることはある。

そんな北海道札幌の南部地域には国営・滝野公園があります。
国営なので、整備がハンパなく素晴らしくて、わが家もこどもが小さいときには
よく利用させていただいた公園で、クルマで市中心部から30分程度。
この公園でヒグマの目撃情報があって、しばらく閉鎖されていた。
写真は国営滝野公園からの提供写真でWEBで拡散発信されていたもの。
で、発信されたヒグマ情報では、浸入はこの2頭の個体だったそうです。
この2頭は母子のヒグマだそうで、高さ3mの有刺鉄線柵を母親は乗り越えて
子熊は小さな隙間をもぐって公園内部に侵入したとの調査発表。
しかも、さすがに自然公園管理者らしく、
この2頭の「侵入動機」についてまで発表されていたことに驚いた。
この時期は活発な子孫繁殖活動、オスによるメスへの求愛が活発化する。
オスは目をつけたメスを追って、なんとか盲目的な愛を遂げようと執拗に狙う。
オスはそうやってメスをゲットした後、子熊を殺す行動に出るのだそうです。
まぁ、自然界の掟なので人間倫理の及ばぬこと。善悪の論評のしようはない。
そういうオスヒグマの強迫から、このメスは子どもを必死に守るべく逃げ回った。
この止むにやまれぬ動機から、人間に管理された公園に危険を顧みず逃げ込んだ。
これはわたしの想像ですが、親子はまず、境界柵の小さな裂け目を発見し、
そこなら子熊は逃げられると判断し、子熊を先に入れさせた。
人間世界ということで怖がる子熊を叱咤し、お尻を押したのかも知れない。
そのあと、自らは決死の覚悟で3mの高さの柵を「乗り越えた」。
頂部には母熊の毛の残留が確認されていたそうです。
恐怖に満ちた人間界への「脱出」という飛躍を母クマは運命選択した。
きっと痛かっただろうし、軽い裂傷などのケガも負ったには違いないと思われる。
・・・以上のような情報が、発表されていたのであります。
たしかに遭遇すれば危険この上ないヒグマではありますが、
その生態をしっかりと観察して、ドキュメントにまで高められたニュース発信。
自然公園側の、北海道の自然への愛情あふれる理解と情報拡散。
そしてなにより、母子熊たちの命を賭けた行動。
さらに子孫繁殖のためにメスを狙ったオスのヒグマの繁殖行動まで、
まさに「愛」がテーマの記録だなぁと、感慨が深い。
さらに、この2頭の母子ヒグマたちは、無事に公園を退去したことが確実と
その証拠も発表されていた。

以上、真夏の北海道から、ちょっとコワいけど、
なんかカワイイ、ヒグマさんの話題。非常に「人間的」だと思えたので、
住宅テーマがブログ趣旨ではありますが、情報拡散させていただきます。

【節水型トイレと配管「詰まり」の微妙な関係】

先週わが社2階のトイレで排水が流れにくくなった問題。
トイレのメーカーメンテでも解決せず、配管業者さんに来てもらった。
それで一件落着かと思ったのですが、
なんと2日後、ふたたび「トイレが詰まっています」という知らせ。
う〜〜む、であります。
で、再度業者さんに来てもらって、トイレを取り外して配管関係を
徹底的に調査してもらうことにしました。
「これでもしダメだったら、トイレを外してチェックする以外ない。」という
業者さんの言葉を聞いていたワケなのです。
幸い、土日に掛かっていたので、会社スタッフは休日。
土曜日朝から、チェックしてもらうことにしました。
トイレの配管自体は75mm寸法のパイプ管で、宅内で複数箇所の曲がりとか、
複数トイレでの合流地点とかがある。
チェックの結果、最初の「合流地点」、件のトイレから約1mほどの箇所から
トイレ直前までの数十センチ間が詰まっていることが把握できた。
詰まっている原因として想定できるのは
トイレを通り抜けてしまった鉛筆とかボールペン状の棒状物質が配管内で
着床してしまって、そこにトイレットペーパーなどが積層してしまった?
もしそうだとすれば、その箇所の詰まりを「破砕」したとしても
また別の箇所に着床して、あらたな箇所で詰まることもあり得る。
しかしとはいえ、まずは詰まり箇所は破砕するしかない。
ということで、専用道具を使って破砕させた。
万が一のことを考えて写真のように外部汚水管マンホール箇所で
網をしかけて、着床物質をキャプチャーする作戦も立てた。
破砕させた結果、配管詰まりは解消され、たくさんのペーパーが流れ落ちていった。
しかし、棒状物質は発見できなかった。
その後、全館のトイレからペーパーなどの排出試験チェックを行ったが、
異常は再現されなかった。

異物混入による配管内着床障害ではないようだ。
とすると、既存配管はこれまでなんの問題もなく機能していたけれど、
最近、なんらかの事情で問題が発現したということになる。
・・・と考えると、リフォーム工事での「節水型トイレ」採用に思いが至る。
これまでの大量に水を流すタイプのトイレでは問題が発生しなかったものが、
節水型トイレでは、曲がりや合流というこれまでの環境に適合しない、
という可能性が浮かび上がってきてしまう。
水量と水圧、利用人数の変化などの原因で、詰まりやすくなるのではないか。
それではトイレの側で、予防的に水量を上げる方法があるのでは?
と聞いたが、そういう操作機能はないと業者さんからは断言された。
節水型トイレは「詰まりやすい」とは言いきれないとは思うけれど、
とくにリフォームの場合には、配管の曲がりなどの既存環境に適合しない場合が
あり得るのかもしれない。
どうも、今後とも要注意ということのようです。
さてユーザー側としては、どういった対応方法があるのかと。
とりあえずは、使用前に一回、流水させて「詰まり」を予防してから使用する、
みたいな対応を考えてはいますが、さてどうなるか?
何か情報をお持ちの方、教えていただけることを期待します。

【北海道の品種改良努力、味も住まいも】

完熟であります。
こういう完熟メロン「きょう食べてくださいね」というヤツが
ふつうの大きさで800円程度、大玉でも1,000円くらいで購入できる。
WEBでの通販を見ていると、大玉では3,500円くらいの値段が付いている。
特秀とか、秀品とかいろいろ区分けしているようですが、
ほとんど意味はないように思います。
メロンはどうして北海道がおいしいのか?
よくわかりませんが、わからなくても美味しいモノはおいしい。
すっかり有名になった「夕張」のほかにも富良野産とか、
ITメロンとか、ブランド花盛りで競っております。
品種の改良については日々いろいろな戦いが繰り広げられているのでしょう。
先日、北海道のシンクタンクの方と話していましたが、
食の北海道ブランドを発展させていくための戦いは
日々たゆまぬ研究開発努力がきわめて重要というお話しでした。
そういった努力での品種改良でもひとつの結実が見られるのは
10年がかりということになる。

住宅の高断熱高気密技術も、このような
シンクタンクが大いに関わってきた領域だと思います。
住宅もまた官民挙げて「品種改良」を積み重ねてきたということはできる。
夕張メロンのように、全国に出荷されて製品としてのブランド価値をもてるものとは
また違う意味合いで、地域戦略に大いに関わってくる。
「味」と「住みごこち」という違いが、マーケティング戦略的にどう表現されるのか、
知恵と工夫が大いに試される部分だろうと考えられますね。
しかしどちらも、感受性に大いに訴求するという意味で、同質性は高い。

【人間生活文化の中心軸と「都市計画」】

先日、日本の建築をリードしている某研究者と懇談していました。
話題はよもやまになっていったのですが、
普段から非常に気になっていることとして「都市計画」の話題に。
わたしは、雑誌・情報の世界で住宅建築に深く関わって生きてきましたが、
自分自身は建築を学んだ人間ではありません。
あと学問的に建築という領域と接点を持ってきた一般人であります。
そういう意味では一般の人間感覚として建築に関わってきた。
そういうなかでいつも素朴に疑問を持っていたのが、
「都市計画」という領域についての疑問です。
建築研究の世界では、この都市計画は最上位に位置すると聞いています。

たしかに個別の住宅がどんなに進化しようが、
その立地する地域、都市それ自体が衰退し、過疎化すれば、
人間の「住む魅力」というものは大きく減衰してしまう。
都市というモノは、そこに住み続けたいと思えるサスティナビリティが不可欠。
その中心軸として「公共空間という磁場」が大きいと思える。
で、わたしは一般人、それもふつうの文系人間として、
むしろ歴史とかに学ぶ部分の方がはるかに優越している。
そのように考えると現代の「都市計画」よりも、もっと前の時代の都市計画に
むしろ妥当性を強く感じ続けています。
札幌では人口膨張に伴って多くの「ニュータウン」が
都市計画家たちの旗振りで造成されたけれど、いまその存続が不安視されている。
公共交通利便性だけで構想された街は、住み続ける中心軸が不在、もしくは希薄。
写真はGoogleの札幌航空写真マップ。
札幌は自然豊かな北海道と言われる割には緑地面積は少ないと言われる。
その数少ない緑地としては円山自然林・北海道神宮が、特徴的。
札幌は京都のような「碁盤の目」状の街割り計画で、
そういう意味では東アジア的な都市計画が基本であって、
その中心的な「鎮守の森」として北海道神宮境内地・円山山麓地を措定した。
そこに日本的な公共空間の中心を定めたのだと。
それにアメリカ東部からのお雇い外国人たちが、円山全山を自然保護して
日本の都市の成り立ちの中心的「静寂性」の基本をつくったと思える。
航空写真で見ても、この中心緑地はたいへん有益な公共性を堅持している。
神社や仏閣という存在は、「宗教」的とは言えるかも知れないけれど、
もっと平易で自然なこころで見れば、それが果たしている都市計画的な中心性、
日本人的生活サイクル的な「公共性」は十分に担保されていると感じる。

どうも「宗教色が完全に排除された公共」という、無いものねだりが、
近代的・現代的な都市計画の致命的至らなさの根源ではないのか。
無宗教ということにこだわるあまり、地域の成り立ちの根源をよく見ないまま、
人間生活の中心軸を見ずに、いわば宙を彷徨っているように思える。
こういうふうに感じているのはわたしだけでしょうか?