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【コロナに負けるな。元気溌剌カレー作り】

きのうから8月に突入。
ちょっと早めのお盆のお勤めとして、お坊さんに来ていただきました。
で、その後これも早々とお墓参りをいたしました。
こんなに早く、お勤めするのはまったくはじめてでしたが、
それでも墓地では数軒、欠かさずに墓参しているのか、
いくつかのお墓でお花が確認されていましたし、また墓参の様子も
幾家族かで確認されていました。
お坊さんのお話では、新型コロナの影響でお葬式などでも
「密を避ける」ということで、規模が大幅に縮小されたり、
そもそも葬式をしないとか、年忌の法要なども家族だけで親族も呼ばない、
などなど、日本人のライフスタイルの根源部分でも
大きく様変わりが迫られているとのこと。
そういった会話も、お互いにマスク越しと、お位牌のあちら側の
親やご先祖様たちも、世相の混乱ぶりに驚いているかも知れません。
きのうの札幌は本格的な夏の暑さでしたが、そのなかで
クルマの中など4人程度でマスクしながら行動するのも熱中症っぽくもなる。
本当に厄介な人類の敵でありますが、コブシを振り上げても相手は見えない。
しかしお墓でわたしの母親が好きだったユリの切り花を水に生けたら、
お祈りを捧げた後に、さっそくに開花していたりして、
ちいさなホッコリ感も味わうことができました。

で、先週末にはコロナ禍で出勤してくれているスタッフに
久しぶりに「社長食堂」きままなゲリラ的出没(笑)。
木曜日にも、肉じゃがで6−7人程度の「出社」スタッフにふるまっていたのです。
で、金曜日にも予告付きで、カレーのふるまい。
わざわざ、テレワーク日程を縫って出社して食べてくれるスタッフもいました。
これには、新設の「IH調理器」の本格的使用実験的な要素も。
写真ではイマイチわかりにくいかもですが、大型の「寸堂鍋」で
このIHがどの程度の性能発揮してくれるか、という興味。
炒めから煮つめ、長時間加熱と調理器としてはフル稼働のカレー料理。
わたしの場合、いろいろな野菜系を実験して入れたくなるタイプで
今回はオレンジの皮を短冊状に切って煮込んでみたりしました。
十分に煮込んでいるのですが、それでもオレンジは口に入れると酸味が広がる。
まぁスパイス感を狙ってみた次第ですが、
食べてくれたスタッフは一様に「オレンジが」と言ってくれていた。
毎日食べるとなればどうか、ですが、たまに食べるカレーでは
それはそれなりの味覚効果が発揮されたようでした。

ホント厄介な新型コロナの蔓延ですが、
元気と笑顔を蓄えて、乗り越えていきたいものですね。

【複数地域に「住む」シアワセの新体験】

仕事上での「コミュニケーション」が停滞状況から全国規模で再開するにつれ、
現状での住宅の「課題」などが浮き彫りにもなってきている。
コロナ以降のテーマへの気付きが手掘りされてくるという最近の実感です。
ここのところ、国交省の「世帯数と住宅政策」の公理的把握について
久しぶりに、いわば「呪文」的にそれを聞いて、受け止めている実感との乖離があり、
いろいろなポイントで再考し始めております。
一昨日WEBで聴講させていただいたリクルート社住宅誌・池本編集長の講演でも
「複数居住」について触れられた箇所があり、興味が深まりました。
その発表では、現状「2地点居住」実践者は1.4%で希望者で15%という数字。
ただ、コロナ禍関連のSUUMO-WEB検索状況分析がバックデータのようで、
いまわたしの考えていることとは少しニュアンスが異なっていると感じられた。

たぶん、国交省の公的な「住宅施策」では戦前期からの
「戸主」感覚が抜けがたく存在し、いわば家は世帯のイレモノ、という感覚かと。
そのように考えると、戸主がいま存在しない住宅は、
「空き家」という捉え方になるのではないか。
それはそれでひとつの捉え方ではあるけれど、
このあたり「居住概念」自体どのような公的定義なのか、不勉強で不明。
一方、世界の住文化でロシアのダーチャ、ドイツのクラインガルテンなどの
「住」形態は、日本の現状の住宅政策の中で位置付けがあるのか、ないのか?
どうも「別荘」という概念とはかなり落差があると思う。もっと庶民的存在。
現代的少子高齢化社会では違った意味で多地域居住形態があると思う。
そうですね、テレワーク・リモートワークの進展というファクター。
ダーチャは自給食糧確保が目的だけれど、仕事対応が目的の多地域居住。
こういう「生き方の変化」は既成の「住宅政策」視点ではスルーされる可能性。

さらに、わたしの年代(昭和中期出生)では、自分が建てた家と夫婦それぞれの
親の家2軒、合計3軒を「所有して管理している」という人も多い。
その上、かれらの子どもさんたちは東京などで賃貸で単身生活していて
そことの「往来」も活発にある、というケースがある。
こういうのも現代ニッポン的なダーチャ、クラインガルテンの一変種なのかも。
もちろん食料生産拠点ではないけれど、「居住」の拡大・複数化とは思える。
「世帯」という考え方と、「居住」という考え方の両方が「揺らいでいる」。
家族数の劇的な減少傾向は今後とも続いていく可能性が高いので
必然的にこのような傾向は高まっていくことが予測される。いわば2極分化の進展。
平均的4人核家族に1軒という「住宅政策」と現実は大きく乖離していく。
むしろ複数地点「居住」ということがもっと広範なテーマとして拡大すると思われ、
そういうデータは公的に収集把握されていないのではないか。
新たな「居住」のシアワセのありかがそこにあるようで興味深いのです。
基本的な世帯数と住居数とが正比例するという関係性の視点と、
同時にこうした「複数居住」という視点の両方で「住環境」を考えると、
まるで「人生二毛作」みたいな新発見があり得る。
生き方・暮らし方の豊かさを考えるとき、非常にオモシロい領域。
日本人の暮らし方に多様性が大きく広がっていくのではないでしょうか?

【米DGP過去最悪32.9%減。4−6月期経済状況】

図は先日紹介した大手ハウスメーカー系の「住団連」発出の資料から。
これは1−3月期までの日本のGDPと民間住宅投資の指標データですが、
この4−6月期のGDPの落ち込みは、たぶん記録的なレベルが予想されている。
緊急事態宣言があって、経済に徹底的な冷水が浴びせられた現実が
この8月初旬に一気に発表されていくことになるのでしょう。
それが「底」を形成して、それからかなりの角度で回復するという一般的予測。
「緊急事態宣言」以降の状況の中で、底の数字がどういうインパクトをもたらすか?

一方7月も終盤になって、徐々に各企業単位の数値が発表されてきている。
象徴的な企業指標として、東京ディズニーランド運営のオリエンタルランド
〜30日発表4~6月期連結決算、売上高前年同期比94・9%減の61億円、
最終利益が248億円の赤字(前年同期は229億円の黒字)だった。
東京ディズニーランドと東京ディズニーシーは新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、
2月29日から約4か月間、臨時休園していた。(読売報道)〜
まぁこれだけ巨額の赤字でもビクともしない企業というのもすごいけれど、
共同電では、仏ルノー、過去最悪の赤字 1~6月期、新型コロナでとのニュース。
〜 【ロンドン共同】フランス自動車大手ルノーが30日発表した
2020年1~6月期決算は、純損益が72億9200万ユーロ(約9千億円)の赤字。
ルノーによると1~6月期が赤字となるのは09年以来11年ぶりで、過去最悪。〜
ということで、世界の基幹産業である自動車産業も危機的な数字が予測される。
日本政府の用意している10兆円の「経済対策予備費」は大手企業の万一の事態に
資本注入するための原資の確保とささやかれている。
たしかにそういう用途ですと公表することはリスク管理としてあり得ない。
一時期、日産の経営権を中国が狙っているなどというニュースが流れたけれど
企業というのは資本主義社会の基盤的な「資産」だと思う。
雇用を生み出し、経済の実質をほぼ担っている存在。
深刻な経営数字毀損に対応することは、各国政府にとって最大防衛ライン。
これから8月にかけて日本のGDPの4-6月期発表がどの程度になるのか、
身構えているというのがいまの空気感といえる。

景気というのは、「気」という文字を使うことから、
人心のありようを映し出すモノでもある。
V字回復を願いつつ、しかしいま再度の「感染拡大」が襲ってきているなか、
もう少し長期的に影響が強まっていく可能性も高い。
一方でいまの「感染拡大」状況では、無症状・軽症の若年層感染が多い。
重症者の発生は比較的に抑えられているのも現実とされている。
行きつ戻りつ、踊り場のような局面が続くようにも思われます。いずれにせよ、要注目。
・・・とここまで書いていたら、日経の速報メールで以下の発表。
速報:米GDP、コロナで過去最悪の32.9%減 4〜6月期年率。・・・う〜む。

【GoToと「住む」 進化する人生充足環境】

きのう書いたテーマは、ちょっと「あぶない」テーマだったかも(笑)。
国の「住宅政策」というものには、社会ニーズの変化を反映させるべきだ、
ということですが、縦割り行政機構では得てして狭い視点から、
人間のシアワセと建物のシアワセとの優先順位があべこべになる。
どうも、国交省的「論議」の枠組みでは「人間優先的」とは言えないと思う次第。
現代人の「よき暮らし方」と「住宅政策」には若干ズレがある。

よき暮らし方を考えるとき、その大きな領域として「移動の自由」がある。
それが制約された現在の状況で、その価値の重みを深く思い知らされる。
毀損してはじめてその「大きな価値」に気付くということか。
人類史で考えると、現生人類がかくも全世界に拡散を成功させたのは、
人間のシアワセが、必ずしも定住とその環境づくりに限定できるのではなく、
移動して世界を「見て、刺激され、啓発される」ということが、
かなり大きな「進化要因」ではなかったのかということに、気付かされる。
きのうのテーマとからんで言えば、移動の自由の拡大で「住」の「複数化」が
今後大きなファクターになっていくのではと直感させられています。
当然ですが住宅というのは、その土地に根付いて存在する。
人間はその住宅の中で、社会から隔絶された「自由な世界」を構築できる。
そこでは個人なり家族なりの「好適」な環境が自由に追求される。
住宅雑誌・メディアの基本的な探究テーマであろうと思います。
ただし、一方で人間の体の寸法は「立って半畳・寝て一畳」と
基本要件ではほぼ共有化できることも事実。
その意味で、「共有できる快適性」の普遍化というものも可能。
ホテルのような存在は、アメニティの共通言語化で可能になっている。
それをもう一歩進めると、セカンドハウス的な環境の構築も、
「移動の自由」の拡大深化によって、大きく可能性が膨らむ。
新型コロナ禍以前、世界的にLCによる移動の活発化が顕著になって、
国内移動についてもそのコストは劇的に下がり続けている。
その移動路線では、首都圏と各地域という路線のコスト減が大きい。
住が複数化したとき、どちらをメイン、サブと考えるかは両方とも考えられる。
移動の自由と居住の快適化という、従来思考では相反しそうなテーマが
究極的に「止揚」される環境が整ってきたように思える。

新型コロナ禍からいま、テレワークの進展という現実がある。
大都市中枢に集中することでの仕事上のメリットが逆にデメリットしてきた。
仕事の環境の自由度が高まってきて、どこにいてもある程度可能になってきた。
完全に自由というわけではないけれど、個性的ライフスタイルとの調和を図ることが
かなり両立可能になってきたといえる。
暮らしのテイストまで充足できる家と、社会的活動を担保する「拠点」住環境という
複数箇所に「住む」選択肢もかなり具体的になってきたのではないか。
人類ライフスタイル経験として特異的な「船乗り」の人生充足に近いものが、
かなり普遍性をもって実現されてくる可能性があると思うのです。
まぁ湊々に○○あり、という少し悩ましい問題もありますが(笑)。

このような生き方の選択肢の大きな広がり・進化について、
いわゆる「世帯」と「住宅数」という国交省的な数値基準では掬いきれない。
現代人の人生投資では新たな「アメニティ」に注目する必要がある。
そんな思いが、非常に強くなってきております。

【社会の価値感変容を直視しない住宅政策の危機】

きのうは久しぶりに東北フォーラムのWEBセミナーで情報交換。
テーマが「既存住宅流通における住宅履歴情報の大切さ」ということ。
やむを得ない事由から接触交流制約が長引いてきているので
久しぶりに交わされている情報のコトバひとつひとつがむしろ新鮮な疑問を
感じさせてくれるモノでした。
テーマ論議とはまったく別に、国交省的な情報発信データで
日本は新築マーケット中心で先進国一般に対し既存流通が格段に「遅れている」。
だから、その「流通を促進」させることで現状の新築偏重のマーケット構造から
長期的な業界構造を樹立させる、という「強迫観念」的な受け止め方で語られる。
国交省は固くこのように信じていることが、遠い過去のことのように聞こえていた。

新型コロナ禍で、情報の分断化が進んでいるけれど、
ひるがえって、じっくりと「再検討」するのには良い機会だとも思えています。
わたし的に、上述のようなこれまでの「業界常識」から距離が取れたことで
逆に新鮮な「疑問」がふつふつと湧き上がってきていたのであります。
新型コロナ禍が暴き出した世界構造、国連などは第2次世界大戦の戦勝国が
未来永劫その位置に留まり続けるのに好都合なように機能してきたこと。
端的な例として、そのひとつの組織WHOが「背乗り簒奪の五大国」中国によって
好き放題に組織を換骨奪胎されて来ている実態が誰に目にも明らかになった。
これまでの世界観「常識」が本当にそうであるのか、疑問を持たねばならない。
先述の新築と既存流通への考え方もまた、一度精査すべきではないか。
また「すでに日本の住宅総数は総世帯数を超えている」という「刷り込み」も
それを久しぶりに声で聞いてみて、大きな違和感を感じてしまっていた。
総世帯数:住宅数について、日本では単身世帯が非常に増えてきているので、
必ずしも世帯数が住宅の必要数を表す指標とはカンタンには言えないだろう。
いわゆる「世帯」とはかけ離れる「単身生活者」がさまざまな社会趨勢から
非常な勢いで若年層〜高齢層まで加速度的に増えている実態がある。
今後考えなければならないのは、この「世帯概念」がどうなっていくかが
実は最優先で論議されなければならないのではないか、と疑問を持った。
原因分析を行わないで結果としての数量把握だけで政策対応するのは、愚策。
いま進行の高齢化社会では、2地点居住などの需要も生み出す可能性も高い。
世帯数とひとくくりで、いわば「標準的家族形態」を想定するのは危険だと思う。
いまやひとつの世帯だけれど、北海道に本宅があり子どもは関西にいて
東京にも行動拠点がある、すなわち数軒の「住宅」利用という「平均値」感覚も必要。
伝統的な「世帯数」指標だけによるマクロ政策立案行為それ自体が
どうも現実と相当の乖離を産んでいるのではないだろうか。

新築と既築更新の住宅需要についても、
そもそも欧米の「個人主義」の長い伝統に対して、
日本は伝統的な社会価値感はそれとは相違する「ムラ社会」型であって、
そこに戦後以降急速に、個人主義的な「個人資産」型住宅価値が拡散された。
社会変容の中身の論議もなく、集中豪雨的に住宅が都市部で大量生産された。
欧米の強固な個人主義に基づく「長期優良住宅」概念が確立するまでには
日本はまだ長い経験値を必要としているように思えてならない。
日本社会の長期優良住宅は全国の有力農家住宅として厳然と存在し続けた。
それはムラ中心型社会形態に最適化された「長期優良住宅」だった。
健全な個人主義思想に基づく「よき住宅」概念はまだ日本では未成立。
従って「あるべき家族形態」も、まだはるか遠い霞のなかにある・・・。
むしろそう考えるべきではないかと、論議とは違うテーマが大きな渦になって
アタマを巡っておりました。う〜む、テーマを整理整頓しなければ・・・。

【出窓は寒冷地ニッポンの縁側ミニチュア?】



先般、出窓についてのわたし自身のノスタルジー空間記憶を書いたのですが、
そうしたところ、ブログ読者の方からコメントがあり、同時に
住宅関連の「専門家」2名の方からも反応が寄せられた。
専門家の1人は北海道内の住宅研究者であり、もう1人は東京の専門家。
どちらも古建築から現代建築まで幅広い知見をお持ちの方。
最初のブログ読者の方からコメントは以下のよう。
「どうも出窓は、縁側と雨戸を意匠としてレリック的に残したのかとも思います」
という直感的印象、ご意見をいただいたのですね。
<注)レリックとは、①遺物②残存種という意味。>
わたし自身はそのような印象は強く持ってはいなかったのですが、
しかし、そう言われてみると確かに2番目写真の出窓には、
日本建築の粋ともいえる「縁側」のミニチュア的な雰囲気が見て取れる。
見ているうちにそのご意見に、身体的に奥深く刺激されるモノがあった。
「そうか、出窓の意匠は縁側と景色の切り取りをワンセット化させたもの・・・」
という強い形態記憶がその根本にあるのではないかというもの。
まことに魅力的な推論で、深くとらわれてしまった次第。

明治の開拓期、防寒に優れた洋式建築の導入が一貫して追及されたけれど、
洋式建築での「出窓」はいわゆる「ボウ・ウインドウ」的なものであり、
1枚目の写真の明治帝迎賓施設「清華亭」の写真のようなタイプが主流。
札幌に残る同時期の洋式建築・時計台にも豊平館にも開拓使本庁舎にもない。
明治初期の開拓使建築では、この清華亭で唯一建築されている。
しかし、これはその後の「出窓」とはデザインの系統が異なっていると思われる。
床まで窓の下の壁面が届いており、床が「張り出している」というタイプ。
どちらかといえばバルコニーの室内版とでもいえるもの。
それに対して、その後の北海道で特徴的な「出窓」写真である2枚目では
かなり「出自の違い」が直感できるのです。窓は腰までくらいしか開口せず、
その窓の張り出し部分平面にはまるで「縁側の踏み板」状デザイン。
わが家でもこのようだったのですが、他家ではここに刀を納める例もあったという。
これは感覚的には、縁側を中空に浮かせることでレリック的に残したに近い。
そう考えると、寒冷地木造建築で「和」のデザインが独自に変容した、
という寒冷地ニッポンでの民族DNA的創意とも考えられるのです。
3枚目の写真は清華亭の和室と外周の「縁」ですが、
外気との間にはガラス障子建具が「透明な壁」になっている。
このような和風住宅の縁側空間は、北海道の寒冷気候では採用できなかった。
しかしそういったデザインへの民族的ノスタルジーは根深くて止みがたく、
作り手の大工棟梁たちが、ガラスを嵌め込んだ窓に対して、
それを見立て上の「景色を切り取る縁〜出窓」という空間創造力を発揮し
いかにも、和の住空間を象徴するデザインとして形象化させたのでは・・・。
そして、寒冷地でのニッポン的「中間領域」継承を創意工夫した。

こうしたひとつの可能性が浮かんできて、それについて、
いろいろ意見交換を始めている次第です。まだプロセスではあるのですが、
もしそのような経緯で出窓が独自進化したものであれば、
北海道住宅はいきなりニッポンを放棄して無国籍化したのではなく、
その過程で、出窓というもので和のデザインを
変容させて取り込ませようとした痕跡といえるのではないか。
本州地区の専門家からも、同時代に本州地区建築での「出窓」は
その存在をほとんど記憶していないという意見もいただきました。
ただ、戦後の一時期の住宅面積規制時に出窓は面積参入されないことで
ブーム化し、メーカーは全国市場に大量出荷した経緯もあったとされる。
出窓の出自について、ひとつの大きな可能性が膨らんできた次第。
ちょっと北海道住宅建築探偵団(笑)を緊急出動させたいと思い始めております。

【新型コロナ禍影響調査・住宅業界アンケート】


先日一般社団法人「エコハウス研究会」さんから会員企業向けに
アンケートが実施されていました。
この会は建築家・丸谷博男さんが中心的存在で、「そらどまの家」を提唱する
太陽光利用系の研究団体。会員企業はどちらかといえば温暖地域企業が多数派。

で、7月17日発出で会員企業向けに新型コロナの事業への影響調査を実施。
そのアンケート結果が1週間後の7月24日に発表されていました。
拡散許諾を得たので、ご紹介します。
<アンケート前文〜新型コロナウイルス感染拡大防止のため、2020年4月7日に
緊急事態宣言が発令され、5月25日解除されました。
現在、再び検査数の増加と共に感染者が増え始めています。
会員のみなさんの現在状況を把握させていただくために、
緊急のアンケートを実施させていただきます。
どうぞ、積極的にご意見いただければと思います。>
という要旨で、質問内容とその回答は上に図表として提示しました。
回答者属性では回答総数53人に対し工務店は17人32%、設計事務所29人55%。
その他7人13%、という分布になります。
アンケート結果からの「傾向」を見てみると
●受注状況、仕事状況では
「変化はない」という答が多いと言えるでしょう。
そしてむしろ緊急事態宣言解除後、受注が増える傾向が見て取れています。
これは先に発表した「大手ハウスメーカー」の傾向とも相似する。
●仕事の視点の変化では、
「変わった」という回答が58%と、主流を占めています。
この質問に対しての回答で、建築現場との距離に比例して
その他86%、設計事務所59%、工務店47%となっている点が興味深い。
ミクロの工事現場では世間の状況とはやや距離感があり、
いちばん世間そのものの心理状況と接している「その他」企業側が
視点が「変わっている」と答える傾向にある。
●将来受注について
これは押し並べて一様に不安を感じているのが趨勢。
このことには各業態的な相違は大きく見られない。
コロナ禍という目に見えない災禍なので、不安が先行するのはやむを得ない。
しかし、住宅業界というのは作り出すものが時間のかかるモノであり、
世間状況が即座に反映するという業種ではなく、現に製造工程のなかにあるモノも
多数抱えて進行管理させているビジネスなので近視的な「影響」は
出にくい業種ではあるように思われます。 しかし、より長期的な設問、
●在宅ワーク対応、コロナ対応を聞く設問では、
どちらも72%、75%とかなりの高率で「必要」と考えている状況。
それが実際的にはどのような「要素技術」であるのかについては
「必要」と感じつつ、「わからない」というのがそれぞれ4割強の回答。
これもコロナ禍の趨勢、可視化がまだプロセスにあるので、
明確化できないというのが正直なところなのでしょう。
たぶん、在宅ワークの方がより具体的で、それぞれの家族で
共働きの場合では個室を2つ以上作るとか、
その個室の配置計画、トイレの複数化など主に「プラン」側での対応が
ユーザーから迫られているのが実情ではないかと推察できました。

住宅業界の対応策は今後、換気の可視化、データの詳細把握提示など、
幅広く対応が求められることになると思われますが、
いま現在の認識状況を垣間見ることが出来た次第です。

<取材協力:一般社団法人エコハウス研究会
東京都国立市富士見台2-12-32 tel 080-5643-0005  http://ecohouse.ac/>

【IHヒーター部経年劣化故障➡交換】


わが家のキッチン加熱調理器具はIHヒーター採用。
かれこれ20年ほどの使用状況でしたが、
最近、加熱時に「煙・ニオイ」の兆候を感知しておりました。
どうやら、ほぼ密着していると判断していた調理台平面とIHヒーター接合部ですが、
どうしても「すき間」ができてしまって、そこに空気対流が発生して
ほんのわずかな空間に「油分」が浸入して長い年月わずかずつ積層し、
それが「油墨」となってしまっていた。それがヒーター加熱時にその熱で
ニオイを発生させて、徐々に「わずかな煙」まで引き起こしていた。
調理台平面は毎日清掃していたのは当然なのですが、
やはりミクロの単位のスペースでは、掃除も行き届かない。
そしてその「加熱時」の「熱漏れ」はやはりヒーターの劣化が原因。
毎日加熱調理に使い続ける機器では、やはり劣化は避けられない。
そのニオイの中に、ヒーター本体の疑いを感じるものも発生したので
IHヒーター本体の「交換」をお願いした次第。
万が一、それが火災原因になることも最悪考えられたので、予防的回避。

もう20年近い使用状況ですが、
JISなんかで寸法などの「規格」は定められているので、サイズ的には
以前のものとまったく同様でした。
ニッポンの平均的家庭の使用状況を平均化して、そこから加熱調理の
共通規格をずっと維持し続けている様子がわかります。
こういう部分では「メーカーの独自規格」などは迷惑の元。
それが一方では諸外国からの「市場参入障壁」にはなるけれど、
体格寸法基準などは、東西では違いがあっても自然でしょう。
ユーザー側としては、故障とか交換の必要がないに越したことはないけれど、
やはり経年劣化を考えたとき、このような規格的バックアップが
しっかり機能していることは、安心感につながる。

ということで、入れ替え工事ってどれくらい時間もかかるかと
身構えていたのですが、ものの30分ほどで終了。
ただし、20年の時間経過は「使い勝手」の部分で大きく変化している。
コントロールパネル、操作パネルがまったく様相を変えていた。
っていうか、以前の物はIH導入初期のもので、
たいへんシンプルな操作方法でしたが、今回のものは
調理の仕方でも「通常加熱・揚げ物・鉄板焼き」みたいに分かれている。
そのそれぞれでコントロール方法が細かく設定可能。
しかもそれらを「音声案内」で知らせてくれるようになっている。
「・・・うるさいなぁ」って言う感想は、へそ曲がり中高年オヤジだけのものか(笑)。
まぁ設定で音量を小さくも出来るし、無音にも出来るということですが、
さてその「方法を忘れたら」というこれもへそ曲がりの内語が響き渡る。
どうにも模範的消費者ではなく、研究探査型の感想を持つタイプ。
メーカーにはあんまり歓迎されないタイプなのでしょうね(笑)。
とりあえず、簡単な使い方で考えすぎずに扱いたいと思います。ふ〜〜。

【北海道木造住宅「出窓」デザインの歴史系譜】

北海道で一時期、戦前期から昭和20年代の木造住宅で、
写真のような「出窓」が重要なデザインコードであったことはあまり触れられない。
わたしの不勉強であることは間違いないのですが、気になっている。
わたしの3歳からの札幌生活スタートの最初の家は
この出窓が特徴的な木造住宅だった。
いまの札幌市中央区北3条西11丁目、北大植物園に東側が面した建物。
その植物園に向かって、その緑を取り入れるように大きな開口が開けられ、
この写真のような出窓が風景を切り取ってくれていた。
どういう設計意図でか、この出窓の手前側は「土間」であり、
ちょうど屋根のある「縁側」状で、手前側の居室に一段段差がついていた。
開口部としてまことに印象的な仕上げであり、
子供心に、その空間の「魅力的な佇まい」がこころに強く印象されていた。
であるけれど、親からは建築自体は当時の「建売住宅」だったと聞かされ
購入先の不動産業「木下藤吉」という人を食った命名会社の記録とともに
いまもわたしの探究を逃れナゾのママに放置されている(泣)。
しかしあきらかに注文建築ではなく、建売であることはわかったので、
そうするとこの「出窓」デザインというのは建築当時(戦前期から昭和20年代推定)の
札幌市内での一般的建売住宅に普遍的な、いわば「流行」のスタイルと思える。
いまとなっては、その空間性を確かめる術はないけれど、
その「流行ぶり」はこの写真の「北海道開拓の村」に、数軒こうした「出窓」を持つ
住宅空間が保存されていることからも容易に類推できる。
わたしは建築史の専門学究ではない、ただの住宅ジャーナリストなので、
事実そのように「流行」していたかどうかの特定はどなたかに譲るけれど
なぜこのような「出窓」がポピュラリティを持ったか、強く興味がある。

で、ここからは個人的な類推でしかないのだけれど、
1 欧米の木外壁下見板張り住宅デザインでは「陰影感」が重視されたか?
2 開口部の「結露被害」は容易に想像できるのでそれへのなんらかの「対応」か?
という大まかには2つの可能性を想像しております。
そのどちらにも蓋然性があるように思っている。
下見板張り住宅はそれ自体、陰影感があるけれど、それをさらに強調して
「いかにも、モダニズム」という印象を人に惹起させるデザインとして
みた目重視の建売住宅顧客層に「お、なかなかいいね」と思わせる象徴として
効果的な外観位置にこの出窓を配置して、「見せびらかした」可能性。
一方は、当然のように多発する冬期の「窓面結氷」に対して
室内生活環境への否定的波及を抑制する意味合いで「張り出させた」可能性。
このように張り出させれば、結氷が溶解したときの水分処理が
より容易かった可能性が想像できるのですね。
窓辺の「カーテン被覆」も毎日濡れないで済む効用もあったか?
と考えると、その後の窓ガラスの複層化、耐候性向上進化方向の初見、
その最初期段階であったという想像も出来るのでは、と。
そしてその両方の要因が絡み合うように「ブーム化」したのか?
さらに、本州地域のこの時期同種住宅デザイン傾向はいったいどうであるのか、
北海道のオリジナルな「寒冷地デザイン」の初見ではないのか?
などなど、湧き上がる妄想はふくらんで止まないのであります(笑)。
おまけに建売不動産業者で「木下藤吉」屋号もまた、いかにも北海道的(笑)。
こういう業者の跳梁跋扈もきわめて興味深い北海道的特殊性の初見ではないのか。
新型コロナ禍で、このような寒冷地デザイン論議も進まないので、
ひとり勝手に妄想と疑問を膨らませ続けている次第。
再度、好事家(?)の反応・ご指摘を期待(笑)。

【北海道神宮:岩木山神社ほぼ同じ注連縄(笑)】


わたしの孤独のグルメ、ではない、孤独の神社注連縄探究。
ついにオモシロい発見に出会うことが出来ました。
上が北海道神宮の注連縄で、下が青森県津軽の「岩木山神社」注連縄であります。
おお、そっくり(笑)。
先日のブログでも書きましたが、神社の注連縄ってほとんど姿カタチを
記憶しているっていうことの少ないもの。
「ああ、あるよな」で済まされて、そのデザイン系譜をたどることはほぼない。
ちなみにWEBで検索してもはかばかしい進捗はない。
たぶんそんなことに興味を持つのは奇人変人の類だけなのか(笑)。悲しい。
なんですが、宗教建築というカテゴリーは建築の出自からの
営々と永続的なテーマであり続けてきている。
そして現実に全国の神社にはそれぞれ独特の注連縄がオリジナリティを
主張するように建築の表層を彩っている。
このデザイン的意味合いは、なにもないというようには言えないと思われる。

その全国の注連縄の中でも、北海道神宮のそれはかなり特徴があって
なんといっても注連縄上部に米俵が乗っかっている。
また、柱に巻き付けられた細い端部は「組紐」のように編み上げられている。
わたしは知らなかったのですが、これは「フラヌイ注連縄」と言われて、
富良野の人々からの「奉納物」であるとのこと。
奉納物であるので、神社側にはそのデザインを云々する意図は存在せず、
奉納者のデザイン意図だけが存在するというのです。
・・・っていうのは、いつもブログを激励してくれている方のご意見。
しかし、であるならば奉納者が代わるとデザインも変わるのかどうか、
また古来からの、たとえばきわめて特徴的な出雲の重厚な注連縄は、
いかにも、燦然とオリジナリティを放っていることはどう説明できるのか。
まことに奥行きが深いので全国の神社にアンケート調査する必要があるかも。
ところが、ひょんなことから写真の岩木山神社の注連縄を再発見。
わたしも2回くらいお詣りさせていただいているはずなのに
この注連縄はまったく初見の印象。
で、デザインがまったく北海道神宮とニアヒア。
ここまで似ていると、やはりデザインコードとして奉納者には意図があったのでしょう。
まぁ岩木山神社には本州社会の最北端の著名神社としての伝統もあるでしょう。
北海道神宮は、その流れからいわば「北のデザイン」として継承したのか。
ただよく見ると、米俵が3俵が2俵になっていたり、
注連縄の「ねじれ具合」が北海道神宮の方がより少ない。
また、端部の組紐状部分も、45度角度が傾斜しているなど、
ディテールでは違いが演出されてもいる。
さらに、北海道神宮は明治天皇との関係の方がはるかに強く、
明治神宮との同一性を追求させるべきという気もする。
で、明治神宮では神木を繋ぐような注連縄では、細めの出雲大社という
そういった印象のデザインがほどこされている。

このように検証してくると、この岩木山と北海道神宮の注連縄の酷似は
やはり奉納者にその意図を確認するしかないようですね。
とくにわざわざ「フラヌイ注連縄」とアイヌ語感の命名をなぜしたのか、
探究すべきテーマは沸き起こってきて止まないのであります。眠れない。
このテーマ、もし情報をお持ちの方はなにとぞよろしくお願いします。う〜む。