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【古代赤米から作る清酒「伊根満開」いいね!】

先日書いた「京都・伊根」の舟屋の記事へのコメントで重要情報。
どうやら伊根に格別の思い入れのある方からのようで
添付写真にはお酒を持ってニコニコされている様子がうかがえる。
どうも「伊根の地酒」についての情報提供のようなのです。
きっとときどき検索で「伊根」と入力して最新情報をゲットされているのか?
わたしも伊根の舟屋を取材していたときに「あ、酒蔵あるんだ」とは思っていた。
でも、それほどの酒好きでもないので、スルーしていたのです。
しかしその酒蔵・向井酒造さんでは非常にオモシロい清酒を製造しているという。
なんと、清酒なのに赤いじゃありませんか(笑)。おお。なんでも
【丹後の赤米に古代ロマンの思いをのせた女性杜氏が仕上げた日本酒】
という一品だそうで、ビジュアル系のわたしとしてはひと目でゾッコン。
<あ、深い意味はなく、第一印象で美系に弱いという意味です。>
これは贈答用に数本仕入れようかどうしようかと、思案中。
でもまぁ、一見の取材先地域であり縁はそう深くはない。
いかにも軽薄かなぁというブレーキも掛かって思案投げ首中。
でもあの伊根の景観は深くこころに刻まれて「住宅と環境の聖地」感も持つ。
また年とともに、会食時などのお酒は赤ワインが定番化してきつつあり、
還暦を過ぎたこととは別に関係ありませんが、赤い色にはどうも反応する(笑)。
<京丹後 伊根町の地酒
鮮やかなロゼワインのような赤い色で
果実のような甘酸っぱさと米の風味を感じる赤米酒です。
常温、ぬる燗、オンザロックで>
という宣伝文句をこの休日土日の間、HPで見続けることでしょう。


一方、今週はアース21の例会に参加したので、帰りに
スタッフと久しぶりの外食ということに。
で、札幌市内でクルマで行動してそこそこ駐車に問題がない店、
なお帰り道すがらの2店の馴染みのラーメン店を訪ね歩いたら、
なんと、どちらも閉店休業してしまっているではありませんか(泣)。
新型コロナ禍、恐るべき影響力と再認識させられました。
っていうことでランチジプシー寸前になって「あそこなら・・・」と
立ち寄った札幌中央市場近辺の馴染みのお寿司屋さん。
こちらも数ヶ月ぶりと言うことに気づかされた・・・。
でも店主も元気に握り続けてくれていて、ようやく安心できた次第。
写真は若いスタッフだったので「大盛り」1人前、全12カン。
お寿司は最近はずっと自分で握り続けているので
伺うときには必ず店主の握り行動をこまかくチェックさせていただきます。
「おお、そうか、なるほど・・・」
さすがの職人技で、見ていてそのあざやかさにいつも見とれてしまう。
こういう職人技を見せられるので謹んで指でつまんで食させていただく。
う〜む、つまみごこちのほどよさに深く感動。
ネタにわずかに醬油をつけて、全16回その行動を反復する。
まことにリズミカルでかつ、美感とおいしさのハーモニーが素晴らしい。
やはりたまには、こういう職人技を勉強させていただくのは新鮮感動。

伊根満開で寿司をつまむ、う〜む、いいかも(笑)。

【人口減少へ処方箋提言も/北総研・研究報告会】


一昨日の地域工務店グループ・アース21のリアル例会と打って変わり
昨日はWEBセミナー形式の北総研・研究成果報告会。
北総研というのは略称で正しくは「北海道立総合研究機構 建築研究本部」。
ただ住宅建築の世界では長く「北総研」の名前で知られてきた。
地方独立行政法人としてつくばの「国総研」とほぼ同じ領域の研究を行ってきた。
国総研が主に温暖地から準寒冷地までの住宅研究をするのに対し
いかにも「開拓使」以来のDNAが残る北海道として寒冷地の住宅・建築について
国の研究機関とはまた別に独自研究開発を続けてきたシンクタンク。
一地方が住宅・建築について独自研究機関を持っているのは北海道のみ。
独特の寒冷地域性から、いかに住宅研究が死活的かをあらわしています。
年に一度、研究成果報告会を公開しているけれど、
ことしは旭川市の本部建物会場のほか、新型コロナ対応でWEBでも同時発信。
わたしは他用もあったので、基本的にWEBで内容を聞かせていただきました。
内容についてはスクリーンショットも「遠慮ください」ということだったので、
写真は、同時に情報発信されているyoutube動画の表紙カットです。

きのうの発表で強く興味を持ったテーマは、
むしろ住宅建築からはやや拡張的な「人口減少時代の地域づくり」領域。
建築の学問研究には「まちづくり」という計画系の領域も大きく存在するので
それについて「トークセッション」が企画されていたのです。
先日のブログ記事でも触れたのですが、これは今の日本最大のテーマ。
人口減少が加速してきているいまの局面で、本来は国を挙げて
このテーマから逃げずに日夜論議が戦わされるべきだと強く思います。
人口増基調だった時代が終わり、社会構造も思考法も変わらざるを得ない。
人類全体としても先進国はみなこの共通問題に直面している。
資本主義とは市場の拡大を予測前提とした経済システムだと思う。
人口増は市場拡大を提供するけれど人口減は市場収縮につながる。
資本主義社会を支える企業にとってこの環境の中で生き残るために
どうしたらいいのか、日々苦悩が深まっているというのが現実。
であれば社会としてどう対応するか、それこそ「身を切る」改革が避けられない。
当面は規制改革や既得権益の打破などが必須の課題になることは自明。
国民から負託を受けてこのテーマを真剣論議しない政治は危機意識が薄い。
さらには既得権益構造に見える日本学術会議って・・・とも思う。
今の歴史局面でこれ以上の提言必須テーマがあるとは思えない。
・・・っていうテーマに対し、日本国土の北の果ての地方独立行政法人が
地域の最大課題として取り組み、さまざまな具体的提言も行っていた。

北海道は「課題の最先端地域」と自嘲気味に自己規定している。
地方にとって人口減少は危機そのもの。それへの戦い方はまさに死活問題。
人口予測ではかなりのスピードで減少が予測される。国土交通省からは
「2015年に約538万人であった北海道の人口は、2045年には
約400万人になる(25.7%減)。日本の総人口に占める北海道の人口割合は、
2015年の4.2%から2045年は3.8%に低下する。」というアナウンス。
この25年先には市場規模3/4の現実がやってくるし、その先もさらに厳しい。
そもそも経済規模でも社会の「厚み」でも脆弱な基盤しかない北海道が、
人口400万人で、どうやったら活力を維持し続けられるのか、
まさに地域社会にとって喫緊の大テーマだといえるでしょう。

レジュメとかの配布もなく、スクショの撮影・引用発表も不可だったことで、
この内容を確認しつつ文章でまとめるのは時間が掛かると思われます。
本日は取り急ぎ、昨日のテーマについてのお知らせ報道と言うことで、
今後、いくつかのテーマに分節してこの内容を考えたいと思います。

【コロナ「自閉」打破のリアル情報交換/アース21例会】


北海道では全国を先導するカタチで住宅性能の研究と実践が
歴史的に活発に展開してきましたが、その特徴は「官学民」の交流連携。
まずはあたたかい家を希求するユーザー密着の地域工務店活動があり、
開拓使由来の殖民推進DNAを感じる行政側の施策があり、
それらと連動するカタチで研究者の開発努力が積み重なっている。
こうした、いわば地域総体の「コンセンサス」が基礎にあって、
住宅の性能向上は道内各層を串刺しする意思として共通言語化されていた。
それには活発な「情報交流」活動が強い推進力だった。
今回の新型コロナ禍は、こういった北海道地域の交流活動にも影を落とし、
年6回ほど開催と活発だった地域工務店グループアース21の例会も
ほぼ8カ月間休止せざるを得ず、情報交換機会が毀損させられていた。

その危機に当たって、WEBを活用した情報交換も模索されてきたが、
やはり情報機器・手段活用の面では、個人差がありすぎて、
ツッコんだ意見交換が進みにくい、というのが正直なところ。
それはそうだろう、リアル意見交換なら日本語コミュニケーションさえできれば
自然に自分の意見を発信できるし、他者のホンネも聴ける。
それに対してWEB利用では、まずPC、スマホの使い方から始まって
Zoomの使い方、画面共有の技術差などなど、それぞれクリアは容易とはいえ、
どうしてもスキルに個人格差があって、論議する中身に集中しにくい。
そしてそのスキルは必ずしも各人の情報把握力とは相関もしていない。
また、発表者以外の参加者の「反応」なども大きな情報ファクターだけれど、
WEB環境だけではまったくわからないし、伝わりにくい。
どうしてもリアルとWEBにはコミュニケーションレベルに「ズレ」があることが否めない。
このあたりには「恥の文化」の日本人の悪い面が表出してしまう。
自分の意見発出に当たっても、どうしても制約的になってしまうのが日本人。
1対1ならば、人間的信頼関係があればホンネが言えるけれど、
多数相手にWEBを通してホンネで対話するのは日本人メンタルに似合わない。
WEBセミナーに至っては、ただただ発表者の一方的発表を聴くだけで
参加者の主体的関与が保証されない。ただ聞くだけの時間は耐えられない。
そのうちに予約時間すら忘れるようになって、ほとんど意義を失う可能性がある。

で、今回久しぶりにリアルでの会合機会が実行された。
たしかに通常の例会と比べて出席率は約7割と落ち込んでいたけれど、
やはり人間の表情と声音、そして公式的対話と「ここだけ」会話とが
融通無碍にシンクロするコミュニケーションはまことにストレスがない。
・・・わたし自身もそうだけれど、最近のWEB会話環境では
「表現意欲・パフォーマンス能力」が減衰していることに覚醒させられた。
今回とっさに発言を促されたとき、ふだんなら可能な応答レベルに達しなかった。
知らず知らずものすごく抑制的・自閉的になっていることに驚ろく。
要するに、ひとに自己表現で考えを伝える行為から遠ざかっていたことに気づいた。
無意識のうちに自分のなかで制御が作動していてそこから復元するのに
ある心理の「乗り越え」が必要になっていたと思われるのです。
自分でも「あれ、なんか脳ミソ働きが鈍っているのでは・・・」というもどかしさ。
リアル会話では相手の受け取り方がストレートに「見える」のに、
WEB会話では「ヘンな顔はできないしなぁ」という自制心が強く働いて
その無表情対応が、思考・表現力に悪影響を与えるのではないかと自己分析。

やはりリアルとバーチャルは両輪があってお互いが生きてくる。
コロナ局面ではリアルの情報感度が鈍磨しないよう意識して維持する必要がある。
そういった気付きを得られた、久しぶりのリアル情報交換でした。

【会津45万石「行政庁舎」家老屋敷/日本人のいい家⑥】



「いい家」シリーズで日本人の住空間を考えてきています。
一応テーマは、環境適合とくらしのありよう、みたいなことであります。
環境適合とは地球各地の自然条件のなかで人間が家によって生き延びてきた
そういう側面から住環境を考える視点。
とくに寒冷地北海道を開拓し、殖民を進めたことで日本は
ちょうど西洋文明の全的摂取に国を挙げて取り組んでいた時代と同期して
北海道はまさに「実験的」大地として、住宅も進化させた。
そういう環境適合の視点から、現代住宅の方向性を考えていくもの。
で、もう一方は、人間の生き方とか暮らし方を掘り起こしていく視点。
いわゆる伝統的な文化、様式や格式といった社会性とか、
個人主義が根付いてきて以降の「個性表現」、ライフスタイル表現などが
住宅にどのような足跡を刻印するのかを探るというもの。
とくに新型コロナ禍以降、生き方的な視点に強い関心が出てきていると思います。
その両方の視点を行きつ戻りつ、浮き彫りしてみたいということです。


この写真の建物は住宅、というよりも社宅とか、政庁と分類すべきかも知れない。
会津藩家老屋敷。オモテの石高23万石、実質45万石の藩の
政務一切を取り仕切る家老の政庁であり、居宅でもあった。
ちなみに江戸時代が終わった段階で全国の石高は3,000万石。
日本全体のGDPの1.5%相当の政治経済を運営する政庁。
いまの日本のGDPは540兆円。この時代は商業への税支配は強いとも言えないが
現代に換算すると単純には8兆円、たぶん4−5兆円くらいの財政規模で発生する
いろいろな「公務」がこの役宅で予算組みから決済、管理されていた。
って考えると、この建築の存在理由は自ずと知れる。
家老の個人生活領域も一定の確保はされているけれど、
さりとてそれは「殿様」のようなそれではなく、あくまでも「高級社宅」。
間取りを見ると、事務所的な個室群が多数展開して、
たぶん増築に次ぐ増築で床面積が拡大していったのではないかと想像できる。
このくらいの財政規模で各種の「公共事業」について
起案し、公儀決済のための書類作成し、運用していく作業は
事務所も必要であり各種陳情受付、打合せ対応のための応接も不可欠。
江戸時代のそういうやり取りは、密室での「◎◎屋、おぬしもワルよのう、ぬふふ」
ばかりではなかっただろうことは明らか(笑)。
基本的には江戸時代の「行政庁舎建築」というのが実質なのでしょう。
いまの時代で言えば、各地方での中核的行政庁舎、県庁・都庁などか。
武士という階級がどんなふうにこの時代を運営していたか、
その痕跡を残してくれている建築と考えると面白みが深まってくる。

【囲炉裏の配置/日本人のいい家⑤】


囲炉裏は日本人がながくDNAに刷り込んできた暖房装置。
日本ではこの囲炉裏端が「食遊空間」でもあり続けた。
「家族」という繋がりは人類が進化プロセスのごく初期に選択した
種の維持文化とされるけれど、囲炉裏はそこに根がらみしている。
たぶん夜になって暖を取らなければ休息を取れない熱環境で、
人間の生命が永らえてきた炎への記憶が住空間に存続したのが囲炉裏。
同時にそれは、生命維持のための食にも深く関係してきた。
座卓文化の日本では卓を共有しての食事よりも膳に各人の食器に
食材を盛り付けて食事するという風習が一般的だった。
この囲炉裏を囲んで、各人の膳に盛られた食事を食べるスタイル。
あるいは、囲炉裏の周囲の仕切り木材が膳の代わりにもなっていた。

写真は会津若松の城下「家老屋敷」の台所土間と
板の間の中間に切られた囲炉裏。
囲炉裏はそれぞれの住宅・建物でその配置が工夫されているけれど、
このように土間から連続して、板の間との段差を活かした配置もよく見られる。
ちょうど縁側が簡易な「応接」として家人側が板の間に座り、
客側が土間などから腰だけを板の間にかけて対話する場面とも近似する。
家人側は気遣いして「上がれ」というけれど、
客人側は遠慮しつつ「いえ、こちらで結構です」と謙譲しながら対話する、
というような日本人的な相互信頼的繊細さの感じられるコミュニケーション。
台所土間でも、これよりもさらに気さくなコミュニケーション装置として
このカタチの囲炉裏は人間交友の空間を成立させていたと思われる。
縁側が主人との対話機会とすれば、こちらは奥さんとの対話っぽい。
まことに生命維持により近い生活そのもの空気感がただよう。
夏期以外ではたぶん火が入れられていて、
客人には暖を応接道具として提供し、簡単な白湯、麦焦がしなどがふるまわれ、
興が乗ってくると、あるいは自家製漬物などが提供されたのではないか。
いかにも気兼ねのない人間関係の象徴のように使われる空間。
現代住宅では、こういう人間関係建築装置というのは見いだせない。
なるほど暖房装置は進化し、食卓空間も機能的になったけれど、
しかし対人関係コミュニケーション装置としては、とても敵わない。
玄関というのはいかにも正式な対面であり、それほどでもない日常的な
交友関係、情報伝達関係ではこのような空間が使われた。
コミュニケーションにいくつもの「レイヤー」が存在して
無意識のうちにそれら機能使い分けが社会「礼儀作法」として存在していた。
非常に繊細な「精神文化的」な暮らしようではないだろうか。
想像をたくましくすると、家人も普段はこの板の間の別の囲炉裏などで、
日常の食事は済まされていた。
なので、この土間囲炉裏と板の間の間はこれもシームレスに連続していた。
いわゆる「オモテ」とは違うやさしいコミュニケーションの確かな存在感。

江戸期までは身分制社会であり武家は格式重視の家づくりだったが、
このような「台所空間」では、堅苦しい身分制が
ある程度緩和されたものに変化していたと思える。
日本的「融通無碍」という雰囲気を感じさせてくれる囲炉裏の形態ではないか。

【京都・伊根と北海道「環境」の巨大隔絶/日本人のいい家④】



北海道をベースにして住宅を考えると、自然環境というのは、
冬期の積雪寒冷が最大のテーマであり「暴虐な自然から身を守る」ことが
亜寒帯地域居住での無条件的な希求ということになる。一方で
伝統的ニッポンでは亜熱帯から温帯での自然環境への「最適化」が追究されてきた。

日本人は歴史年代を通して、当然ながら食料生産活動を最重要経済活動として
コメ生産を基本にして生存してきた。その最適地、あるいは多少条件がよくなくても
克服して適地に「変えて行く」発展を全体として追い求めてきたのが日本史の基本。
そのコメ生産が水利の利便性をもとめて河川流域の開発に傾注していって
当然のように周辺平地の拡大へと進化発展し、やがてその集散中心地として
都市が形成されて商業が生まれ、人口集中構造が出来上がっていった。
その人口集積が「労働力」に変容して工業発展も促進されていった。
しかし、この列島は四周を豊かな海で囲まれていて、
縄文的ライフスタイルとしての「漁業採集」型という原初的生活様式も存続した。
日本社会の主流はコメ生産型だったのでこっちの方は、
いわば原初期型「散村」的漁村として列島各地に分散的に形成された。
やがて漁業も大型化して、遠洋などの出漁も進むと集住が大型化して
いろいろな機能を果たす「業業基地」的な都市も形成された。
そのように日本人の「住」を考えてきていたけれど、
写真の「海の京町家」伊根の様子を見て、強く衝撃を受けた。
海との共生ということがタイムカプセル的に存続し、お伽噺のように成立している様子。
温暖地的「環境との調和」というありようをまざまざと目にさせられた。
日本海が大きく湾入りして穏やかな様相を見せている京都府北部に位置。
日本海の「外洋」の風波からはその湾入りが保護してくれている。
歴史年代を通して、大都市・京都と適度な距離(125km)があって遠からず近からず。
経済的交流と独自地域性が両立し得たものなのだろうか。
まるで縄文の世がそのまま一定の都市化も果たしながら
奇跡的に現代まで生き延びてきたようなありようを見せてくれている。

伊根の「町家」群は海に向かって各戸が船の「駐車場」を持って軒を接している。
開口はおおむね海に向かって開かれていて、自家用船ですぐに海のくらしができる。
海生動植物採集という生存条件に忠実に、それが小都市にまで発展進化している。
「いい家」という概念が、非常に直接的に表現されていると。
海という環境に対して、自然に適応して暮らしがあり得た奇跡。
たぶん、北海道的な自然とはまるで違う「環境」意識があるのだろうなと思えた。
太古から続く「自立循環」型のライフスタイルとも言えるのだろうか。
天橋立から車で30分だけれど、歴史年代を通じて一番近い人口集積地・舞鶴などへ
船での交通で行き来してきたに違いない。孤立集落的な感覚はなかっただろう。
こんな奇跡的におだやかな「環境」というものがあり得ることが
北海道人には打ちのめされるほどの衝撃だった。

【朝の気温は8度 彩りが深まっていく北の秋】


写真は朝の散歩路、札幌南西部の山岳地帯から流れ出る小川。
円山のふもとを縁取るように流れ下っている。
左側は円山の自然保護林で、右側は北海道神宮後背の杉林。
札幌の「扇状地形」はこのようないくつもの河川が複合して形成されている。
札幌の南・西側はこのような山岳地帯で、北に向かって扇状地形が広がっている。
で、北の方に流れている石狩川河口に向かって低湿地が広がっていた。
北海道でも最大の平野部が形成されているので、
この地を北海道の首府としたのは先人の知恵としてごく自然だったのでしょう。
南西部側の地盤は、山岳の岩盤の上にあり、
低湿地側に対しては標高も確保されているという立地条件。

朝方の気温がどんどん下がって来ていて、
いかにも「つるべ落ち」的な感じがしております。
散歩時の服装がどんどん重武装化してきている。
いまどきはダウンの内側の薄手の羽毛入り下地をまとってちょうど良い感じ。
本格的ダウンジャケットの手前くらいがピッタリの季節感。
なんですが、ランニングしている人はいまだに短パン仕様という人も見かける。
当方はズボン下にはやや厚手の下着も着込んでいるので、
こういう短パンを見かけると震え上がっております(笑)。

散歩道にはリスたちのうごめきが多数目撃される。
先日書いたように、落果がたくさん落ちているので、
それを越冬用食料として保存確保する作業にかれらは余念がない。
でもかれらは保存した土中の場所を全ては憶えていないので、
結果としては、植生の種延命継続に大いに役立っているのでしょうか。
あまりにも数多くうごめいていて、さらにかれらに餌やりする人もいるので
ほとんど人間を怖れることがなくその距離が非常に近い。
ヘタをすれば気づかずに蹴飛ばしてしまいそうなのであります(笑)。
徐々に落葉も始まっていて、山の色づきも目立ってきている。
ことしは中国韓国の観光客が激減しているでしょうから、
北の秋も本来の静かさで深まってきていると思います。

【縁側・囲炉裏は「幸福感」装置/日本人のいい家③】


写真は播州・福崎の古民家写真から縁側空間。
北海道の家からは「縁側」は150年前・最初期からほぼ消え去っている。
明治天皇の「休息所」として建てられた「清華亭」〜明治14年でも
縁側外周にはガラス建具が嵌め込まれ、いわば「大型窓」化している。
いわんや一般住宅に於いては冬は雪の壁を眺めることになるし、
夏場といえども、吹き渡る「涼風」を楽しめる期間は1ヶ月程度。
であればと北海道人は自然とのふれあいについては、
より直接的なジンギスカンなどで純粋な野外パーティ志向になり、
家はハコとしての密封性を高める方向に舵を切っていった。
いわば暮らし方の方で「メリハリ」をつけていったと言えるでしょう。
日本伝統住宅と北海道の家が枝分かれした最初期のパーツでしょう。
その後、北海道住宅は家の中の「環境性能」志向を高めた。
そこで検討されたのがいわば「いごこちの科学」。
温度や湿度コントロールが主に寒冷期を対象に探究され、いごこちが論議された。
で、そういういごこち研究の成果を通過してきて、今度は日本人として
もう一度、この縁側空間というもののオモシロさに帰り着く部分がある。
北海道での体験を経た上での伝統住空間のいごこちや体感的心地よさ再発見。

本州以南のニッポンでは、冬場でも雪はあんまり降らないので、
積雪を心配することはない。大体は縁側は南面して開放・造作される。
庭園主体の建築で被写体への採光鑑賞目的から一部に北面するものもある。
太陽光を受けた庭の輝きを視覚的に愉しむ意味ですね。
しかし圧倒的多数は南面する縁側空間というものに日本人は慣れてきた。
軒が張り出しているケースが多いので、日射制御コントロールが
さまざまに「デザイン」されるけれど、縁側本体では
「ひなたぼっこ」という楽しみが演出装置されることになる。
たぶん秋から冬、そして春にかけて、8ヶ月以上はこの体験装置空間になる。
この縁側でまどろむ、という民族的体感が現代住宅から消えつつある。
これってよく考えてみると、住宅の「温熱快楽体験」として
家庭風呂にも匹敵する建築装置ということができるのではないか。
もちろんその季節毎で太陽輻射熱によって得られる温熱体感は違うけれど、
縁側の自然素材の板の間から薫ってくるニオイまで含めて、
独特の民族的癒やしの空間であり「温熱装置」の側面が強い。
炎などはないけれど、一種の「暖房的建築装置」という理解もあり得る。
天気の良い日に縁側で過ごすというシアワセ・贅沢ぶりは、
現代的な住宅ではいまや見果てぬ夢。その喪失への残念感が募る。


さらに、直火輻射の囲炉裏のある空間は、古民家での最大の見せ場。
写真は川崎・日本民家園のなかの古民家で囲炉裏に火を入れたところに
見学で訪れていた小学生軍団が押し寄せている図(笑)。
手前にはかまどとせいろ蒸しも置かれていて、
なんとも賑やかで、そして煙い囲炉裏火だけれど、
子どもたちの明るい笑顔が底抜けで、釣り込まれるような「あたたかさ」。
温熱としては炎からの直接的な輻射熱だけれど、
心理に染みわたってくるような独特の幸福感で満たされる。
たしかに温熱で言えば、全体に一様なものではなく局所そのものだけれど、
北海道人感覚からするとかえって、これはこれ、という気分が感じられる。

縁側での太陽熱による輻射体感と、囲炉裏の直火による輻射体感。
かなり魅力的で自然な温熱体験とあこがれを持って見てしまう。
こういった古民家の「温熱装置」、単なるノスタルジー以上に
なにか訴えかけてくるものがあるように感じられます。

【「仏壇」ミッシングリンク論〜日本人のいい家②】


写真は北海道開拓期の「森林伐採」風景。
とにかく鬱蒼たる森林を伐採して農地を開いて行くことが開拓の実質。
森林から変貌の農地は、自然落葉で天然施肥が永年なされていたので、
驚くほどに地味が豊かでもあったという伝聞を聞く。
しかし森林伐採は気の遠くなるような作業であり、
空知地方のように、囚人労働の集中投下で筋道がつけられ
本州で農家技術蓄積のある美濃などの先進農業地域出身者に
優先的に農地が割り当てられた、というような情報もある。
北海道が食糧基地として日本をリードしていることの根源と言われる。
で、北海道に入植応募した人々は故郷では農地を獲得できない
農家の次男三男層が中心だったとされる。
「北海道には仏壇背負って来た人は少ない」という何気ないひと言を
ある住宅研究者から聞いたとき、大きな気付きがありました。
血統的「家意識」からは「仏壇を背負っていない」人々が北海道の多数派。
北海道に移民として応募する最大の目的は、自作農になれる、
自分が土地所有者になれる、というそれまでの日本社会が提供できなかった、
大きな人生飛躍の可能性への希求があったのだといわれている。

わたしの家系は明治末、大正初年に北海道に移民したけれど、
実は広島県から「仏壇背負って」来た一家です。
小樽の港に着岸上陸し空知地方に入植していた地縁者を頼って来た。
ただ北海道で生計が立つかどうか見極めてからということで
「本家」としての伝承の品々は広島県地方の縁戚に「預けて」いたという。
明治期までの日本社会では、家意識、本家意識は強烈な倫理規範であり
メドが立つまで「本家」としての伝来のものは遺しておいたのだと。
(このときの混乱で、いくつもの品々が散逸してしまったとも聞く。)
この「本家意識」というものは、日本人の「いい家意識」に深く関係している。
極言すればそれまでの社会では「家」はハコではなく血統だった・・・。
先祖代々の連綿とした「継続性」が、家の「格式」を表現するという価値感。
わたしはそのような家系の伝承を聞いていたので、ほかの北海道移民も
同様なのではないかという無意識の認識を持っていた。
で、北海道でたくさんの友人・知人たちとの間でこういう話題は
ほとんどしたことがないことに、改めて気付かされる。
「あなたの家はどこから?」という問いに答が返ってこないことが多い。
言いたくない、関心がないを含め、いわゆる伝統的「家意識」の喪失。
それは、北海道移民がほとんど「仏壇背負って来ていない」ことに由来するのだ。

このことが、北海道の住宅の進化にとってかなり大きなファクターだった可能性。
本州出身地の「本家」とははるかに離れて
この地で「フロンティア」として初代を始め(ざるをえなかっ)た意識が濃厚。
たしかに北海道には「代々この地に暮らしている」人間はごく少数。
「代々続く」家のありようから自由であり、多くが新規スタートだった。
日常生活に於いても伝統的ライフスタイルへの執着があまり存在せず、
地域の気候に対しての「環境適合」ファクター価値感がはるかに優先した。
寒いんだからとにかくあたたかい家を、という希求が最優先。
様式的・格式的価値感よりも、生活リアリズム・合理主義がはるかに優先した。
高断熱高気密という日本住宅の「革命」も渇望的に求められた由縁。
この日本伝統住宅と北海道住宅の進化の間の「ミッシングリンク」が、実は
「仏壇背負ってこなかった」ことに大いに関係があるのではないかと思われる。
北海道の住文化解析としては仮説的ですが、
深く納得できる部分があるのではないかと思い続けています。

【宮城水害被災地から2年ぶり「新米」到着】

昨日日中に宅配便到着。
「お」と思っていたら、案の上「新米です」という配達のお兄さんの元気な声。
1回に30kgを頼んでいるので、「重たいですから・・・、どこに運びます?」
という親切な申し出もあったのでストックヤードにお願い。
5k入りで6袋の「宮城県産」の「ひとめぼれ」令和2年度新米であります。

この農家は以前断熱材メーカー勤務の方で仕事関係での深い知り合い。
実家が米作農家で、定年退職後はこちらの農家を営んでいる。
そんなことからわが家の「契約農家」として継続的にお送りいただいていた。
ところが、昨年秋、宮城県で発生の水害で新米出荷直前のお米が被災。
やむなくわが家は1年間、ジプシー食生活を送っておりました(泣)。
やはり知人が作ってくれているという安心感は大きく、
また、味も滋味にあふれていてすっかりカラダに馴染んでいた。
昨年の被災直後には元気づけたいと、仕事で出張の合間に被災地を訪問し、
その被害の状況も見させていただきました。
土手の高い河川流域に面していて、土手の決壊という水害の様子を
まざまざと目のあたりにさせていただいた。
床下に流入した土砂流入の痕跡と、それを乾燥させるプロセスも見学。
コメは作るのに1年間かかる。
首を長くして待っていたところ、先々週にLINEでの「新米刈り取り」の知らせ。
「おはよう御座いますー
雨上がりましたら稲刈りですー
来月から新米ですー宜しくお願いしますー」といううれしい知らせです。
さっそく、「おお、ついに、ですね。雌伏の年月ご苦労様でした。
また30kgづつお送りください。楽しみに待っています。」と返信。

ということで新米の到着であります。
この1年の農家としての苦労などを思いながら、
まずはご苦労に感謝して神棚に上げさせていただいた上で、
ありがたく食させていただこうと、お腹を鳴らしております(笑)。