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【土中保存という人類普遍の知恵 札幌「擦文」遺跡探訪-7】



いまから1000年前後を遡る北海道島、それもわが家周辺4−5kmほどの近隣で営まれていた暮らしの遺跡を見て来ました。歴史大好き人間で本州以南地域を旅するときはいつも、積層している時間、その複層性が訴えてくる「こだま」のような部分に惹かれ続けていたのですが、ようやくそういった時間を超えた体感のきっかけが得られたように思っています。
北海道に暮らしている人間にはたぶん、そういった一種の「開放感にも似た喪失感」がある。あんまりそういう感覚が持てないことをハッキリと受け止めて、「しょがないっしょ」と前向きにしか捉えないというような心理に繰り返しさらされてきたようなことでしょうか。
現代北海道はやはり明治以降の「殖民・移住」が基本の生活文化要因であって、わたしたちの生活文化の先人としてはやはり本州地域の生活習慣が基礎になっていると思います。
そういうなかでこういったあきらかな生活痕跡、文化習慣痕跡は非常に興味深いものをもたらしてくれる。多くは追体験可能なことがらですが、そうではないものもある。
そんなひとつの生活文化として「土中穴を利用した食品保存」という人類普遍的な知恵がある。ジオラマのいくつかでこの生活習慣が表現されていた。
現代都市生活では、ほとんど顧みられなくなった知恵だけれど、とくに寒冷気候の当地では、土中は温湿度環境が一定であることを利用しての食品保存策として活用された。ただ、ジオラマだけではそこにどんな食品が保存されたものか、わたしの想像力が不足しているので強く知りたくなった次第。
見た感じでは土中深度は約1m超程度掘り下げられている様子。そうするとこの札幌の年平均気温8度程度の温度環境が維持され、しかも一定の湿度が保全されてもいたでしょう。そのうえで空気には直接触れないので、腐敗の進行は抑えられる。
電気冷蔵庫のない時代、究極の食品保存法だったことは間違いない。
見た感じでは布製の1mほどの大きさの袋が確認できる。ということは、内容物としては動物性のタンパク源、豊富に採れただろうサケなどは燻製や乾物としての保存の方が合理的だとも思えるので、乾燥させた穀類などが想像可能だろうか。前に記載したヒエとかアワなどが考えられるのだろうか。
まぁこういう想像を刺激されることで、もっと地域の昔人と対話できるので、その機縁と考えれば、たいへん楽しい。「ねぇ、なにを保存しているの?」「あはは、そんなことわかんないのかよ、もの知らずめ(笑)」
というような会話。個人的にこういう妄想に浸っているのが大好きであります(笑)。

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The universal wisdom of preserving artifacts in the ground
Hey, what are you preserving? The old-timers pointed out my lack of common sense. I must learn with humility. I must learn with humility.

I visited the ruins of a lifestyle that was practiced on the island of Hokkaido, a region about 4-5 km from my home, dating back about 1,000 years. As a lover of history, I have always been attracted to the “echo” of layered time and its multi-layered nature when traveling south of Honshu, and I think I finally had the opportunity to experience something beyond time.
People living in Hokkaido probably have a kind of “sense of loss that resembles a sense of freedom. I think we have been repeatedly exposed to the mentality of accepting the fact that we cannot have such a sense of loss clearly, and only seeing it in a positive light, as if “it can’t be helped”.
The lifestyle and culture of modern Hokkaido is based on “colonization and immigration” after the Meiji period, and I believe that the lifestyle and culture of the Honshu region is the foundation of ours.
In this context, these obvious traces of lifestyle and cultural practices are very interesting. Many of them are things that can be experienced, but some are not.
One such culture of life is the universal human wisdom of “food preservation using burrows in the ground”. This lifestyle was represented in several of the dioramas.
In our modern urban life, this is a little-neglected wisdom, but especially in the cold climate of this region, it was used as a measure to preserve food by taking advantage of the constant temperature and humidity in the soil. However, I am not sure what kind of food was stored in the diorama alone, and my imagination is lacking, so I was very curious to know more.
The depth of the soil is about 1m or more, which means that the annual average temperature in this area of Sapporo is about 25°C. This means that the soil is about 1m deep. This would have maintained the average annual temperature of about 8 degrees Celsius in Sapporo, and also preserved a certain level of humidity. On top of that, since there is no direct contact with the air, the progress of decomposition is suppressed.
In an era without electric refrigerators, this was surely the ultimate method of food preservation.
From the look of the bag, we can confirm that it is made of cloth and is about 1 meter in size. This means that animal protein sources such as salmon, which would have been abundant in the area, would have been more reasonably preserved as smoked or dried food, so we can imagine dried grains. Could it be millet or foxtail millet, as mentioned before?
Well, it is very enjoyable to think of it as an opportunity to talk with the local people of the past by stimulating their imagination. What are you preserving?” “Haha, you don’t know that, you ignoramus!
(laughs)” Conversations like this. Personally, I love being immersed in this kind of fantasy (laugh).

【北方日本の変動要因としての火山噴火 札幌「擦文」遺跡探訪-6】




日本史や古代の朝鮮・中国の歴史書などには記載がほとんど見られない「変動要因」として、915年の十和田火山のカルデラ級噴火と、946年の朝鮮・白頭山火山噴火がある。
まだしも十和田については扶桑略記という平安時代の私撰歴史書に記載があるという。1094年(寛治8年)以降の堀河天皇代に比叡山功徳院の僧・皇円が編纂したとされる書物。当時ですら180年の「過去」の記録になる。日本では仏教寺院などの記録類がメディアであり歴史記録の役割を果たしていた。
この十和田噴火では周辺の地層に明確に痕跡が残り、被害の地質的証拠が最近確認された。秋田県地域で、912年に伐採された木材によって建設された住居が火砕流に飲み込まれたことが明らかになっている。被害の規模を考えると古代東北地域の歴史発展に相当の影響を与えただろうと推定できる。

一方の白頭山火山噴火についてはより北海道地域に影響が強かったと言われる。
地質年代的には全地球的にもごく「最近」のものでありながら日本はもとより中国・朝鮮にも記録がほとんどないという。であるけれど、上の図のように明確な火山灰降灰の地層記録が見られている。とくに擦文期の北海道島には明瞭な文字記録は残念ながらないけれど、さりとて変動要因としては巨大だっただろう。苫小牧ではきわめて珍しい地層としてこの噴火堆積層が確認されているというのだ。
狩猟採集の経済構造にとって、こういった変動はどのような影響をもたらすか、そういった種類の想像力は農業文化を基板としたわたしたち社会には明確にはないことがあきらか。
日本海という「あたたかい海」を渡ってくる偏西風によって日本列島の北部地域は世界でも最高レベルの積雪地域になっている。都市別では青森市と札幌市が世界の1-2位に相当しているという。たぶん積雪寒冷という気候条件に於いて北海道東北地域というのは特異的な地域であるのでしょう。
こうした条件についてもあまり意識されることは少ない。
そういった地域特性に加えて遠く日本海を越えて有史以来最大級の噴火降灰が擦文社会に襲ってきたということになる。地質的・考古的な知見に導かれながら、すこしづつ過去の人びとの暮らしを掘り起こし、その生き延びてきた「知恵」も発掘していきたいと思うところです。
わたしたち北海道の住宅の要因として、こうした環境要因のプレッシャーが非常に高い。しかし課題の先進地は同時に、それを克服していく技術開発の最大誘因にもなっていくと前向きに考えて行きたいですね。

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Volcanic Eruption as a Variable Factor in Northern Japan: Exploration of the Sapporo “Abrasive Text” Site – 6
Volcanic eruptions of Mt. Hakutou and Towada, a factor of change for which there are no written records in Japan or Korea, China. What is the impact on hunter-gatherer societies? ……

Two “variables” that are rarely mentioned in Japanese history or ancient Korean and Chinese history books are the caldera-level eruption of Towada volcano in 915 and the volcanic eruption of Mount Paektu in 946.
Towada is mentioned in a privately compiled history book of the Heian period called Fuso Bunki, which is said to have been compiled by Koen, a priest of Koutokuin Temple on Mount Hiei, during the reign of Emperor Horikawa after 1094. Even at that time, it was 180 years in the “past”. In Japan, Buddhist temples and other records served as media and historical records.
The Towada eruption left clear traces in the surrounding strata, and geological evidence of the damage has recently been confirmed. In the Akita Prefecture area, it is clear that a pyroclastic flow swallowed a dwelling built with timber from the 912 eruption. Considering the scale of the damage, it can be estimated that it would have had a considerable impact on the historical development of the ancient Northeast region.

The eruption of Mt. Paektu, on the other hand, is said to have had a stronger impact on the Hokkaido region.
Although geologically dated as a very “recent” volcanic eruption on a global scale, there are almost no records of its occurrence in Japan, China, or Korea. However, as shown in the figure above, there are clear stratigraphic records of volcanic ash fall. Unfortunately, there are no clear written records, especially for the Aburibun period on Hokkaido Island, but it must have been a major factor in the fluctuation of the island. The eruptive sedimentary layer has been identified as an extremely rare stratum in Tomakomai.
It is clear that we, as an agricultural culture, do not have a clear imagination about the impact of such a change on the economic structure of hunter-gatherers.
The westerly winds coming across the “warm sea” of the Sea of Japan have made the northern part of the Japanese archipelago one of the snowiest regions in the world. Aomori and Sapporo rank first and second in the world in terms of cities. Perhaps Hokkaido’s northeastern region is unique in its climatic conditions of snow cover and cold temperatures.
These conditions are not often recognized.
In addition to these regional characteristics, the largest eruptive ash fall since the beginning of history hit the Abravaean society far across the Sea of Japan. Guided by geological and archaeological findings, we would like to excavate the lives of people in the past and discover the “wisdom” of their survival.
We in Hokkaido are under tremendous pressure from environmental factors as a factor in housing. However, I would like to think positively that being an advanced area in terms of challenges will also be the greatest incentive for technological development to overcome such challenges.

【宗教と葬送in狩猟採集社会 札幌「擦文」遺跡探訪-5】



人間の死はその属する社会にとって、その家族にとって痛恨事であることは論を待たない。ただし、その社会段階によって、それを悼む方法と鎮魂の道行きには違いが生じる。
わたしたちは基本的には日本人社会という大枠のなかでその価値感世界で生きている。その社会の中には国家として統合されてきたあらゆる地域社会のそれが昇華されてきているのだろう。だから、旧石器由来の狩猟採集社会のそれも意識下の世界に実存していると想像できる。
死者の魂の表現として,多くが「石」に仮託されて鎮魂される習慣が多いというような意識下のカタチ、精神の進化過程の初源を探る、というようなアプローチがいるのだろう。これは石器時代という長い人類の精神史が反映しているとみなせるだろう。
土偶というものは、農耕以降の社会は比較的に「断絶感」をもってきている。歴史家の多数派意見としては、宗教以前の社会の「祈り」が外化した文化伝統とは言えるだろう。とくに北海道島で発見された上の土偶の表情、たたずまいからは独特の死者へのリスペクトを感じる。
本州以南の「日本」社会では死者の葬送はその身分階級による分化を表現するものになっていった。集団墓から権力者の独自の墳墓、古墳が造営されていって、さらにそれが同時にヤマト王権連合のシルシとしての「前方後円墳」という形象化にまで至っていた。それが行きすぎていったことと、中央集権国家の成立とが同時進行して、仏教の導入による寺院建築に繋がっていった。
しかし、北海道島ではごく一部を除いて(江別地域の古墳)古墳文化は広がらず、縄文由来の葬送形式が継続し、土偶も同様に継続していったとされている。土偶には死を悼む以上に、あらたな命、女性の妊娠・出産への社会の強い祈願が込められもした。生と死というふたつの側面が平行した。

しかしすでに見たように、上の職人仕事図に表現されるような生活文化の最先端様式は、活発な交易活動によって北海道の擦文社会にも流入していた。イラストは「曲げ物」と言われた「たらい」とかの日本社会の当時の「最先端」技術木製品容器。これらは擦文社会になくてはならない生活文化様式を構成し深く浸透していたとされる。その木製品の素材として樹種があきらかに北海道には自生しないものであること、そういう工芸文化がまったく擦文の社会には見られないことなどから日本社会との交易の結果であることは明白。
そうであるとしたら、葬送という人間社会の根幹をなすような精神文化様式についての交流というものはまったくなかったのだろうか、と不思議な気持ちになる。異性間での恋愛や混血というようなことも普通にあっただろうし・・・。
古代以来の北海道島社会の葬送形式として知られるのは周堤墓。これは地面に円形に竪穴を掘り、掘り上げた土を周囲に環状に積み上げることで大規模なドーナツ状の周堤を作り、その中に複数の墓を配置した大規模な集団墓とされている。
墓制と社会システム、その哲学には強い相関があることは自明。わたしたち現代人にもこういった墓制への心理のルーツのようなものがあり得るのだろうかと自問しています。

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Religion and Funeral Service in Hunter-Gatherer Society: Exploration of Sapporo “Rubbun” Site-5
The death of a member of society is expressed in accordance with its importance, but on Hokkaido Island, mass grave sites are predominant. Furthermore, what is the meaning of the continued culture of clay figures? …

It is indisputable that the death of a human being is a painful event for the society to which he or she belongs and for his or her family. However, the way of mourning and the path of repose differ depending on the social stage of the society.
Basically, we live in a world of values within the framework of Japanese society. Within that society, we are sublimating the values of all the local communities that have been integrated into the nation-state. Therefore, we can imagine that the Paleolithic-derived hunter-gatherer society also exists in the world of consciousness.
We should take such an approach as to search for the origin of the evolutionary process of the spirit, which is a subconscious form of the souls of the dead, many of which have the custom of being reposed in “stone” as an expression of the souls of the dead. This approach may reflect the long spiritual history of mankind during the Stone Age.
Post-agricultural societies have had a comparative “sense of disconnection” with clay figurines. The majority opinion of historians is that they are a cultural tradition that is an outgrowth of the “prayers” of pre-religious societies. In particular, the expression and posture of the above clay figurine found on the island of Hokkaido shows a unique respect for the dead.
In “Japanese” society south of Honshu, the burial of the dead became an expression of the differentiation of status and class. From mass graves, the burial mounds of those in power were constructed, and this led to the figuration of “front-rear round tombs” as a silhouette of the Yamato royal union. This went too far, and the establishment of a centralized state coincided with the introduction of Buddhism, which led to the construction of temples.
However, with the exception of a small portion of Hokkaido Island (Kofun tumulus in the Ebetsu area), the Kofun culture did not spread, and the Jomon-derived funerary practices continued, as did the use of clay figurines. Clay figurines were not only a form of mourning for the dead, but also a form of prayer for new life, and for women’s pregnancy and childbirth. The two aspects of life and death were paralleled.

However, as we have already seen, the cutting-edge lifestyle culture represented in the craftsman’s work illustration above also flowed into Hokkaido’s abraded society through active trading activities. The illustration shows “cutting-edge” technological wooden vessels of Japanese society at the time, such as the “tub,” which was known as a “kenkemono” (curved object). These products were an indispensable part of the lifestyle and culture of the Abravaean society, and are said to have penetrated deeply into that society. The fact that the species of wood used as the material for these wooden products is clearly not native to Hokkaido, and the fact that such craft culture is not found in the Abravaean society at all, makes it clear that they were the result of trade with Japanese society.
If this is the case, one wonders if there was any exchange at all in terms of funerary rituals, a spiritual and cultural practice that is fundamental to human society. It is also likely that intersexual romance and mixed blood were common.
The funeral style known in Hokkaido Island society since ancient times is the shuutsutsumi tomb. This is considered to be a large-scale mass grave, in which a circular pit is dug into the ground and the dug-up earth is piled up in a ring around it to form a large doughnut-shaped peri-dike, within which multiple graves are placed.
It is obvious that there is a strong correlation between the tomb system, the social system, and its philosophy. I ask myself whether we modern people also have psychological roots in this kind of tomb system.

【狩猟に生きる神々しい世界 札幌「擦文」遺跡探訪-4】




アイヌ期の日本社会との「交易品」のひとつとして「熊の胆〜くまのい」がある。熊の胆汁(胆嚢)を乾燥した。熊の「胆のう」。 胆のうの中に入っている結晶を細かく砕いて服用する。 胆汁酸代謝物のタウロウルソデオキシコール酸が主成分だと。
獣胆を古代より使用することは西域(ギリシア、インド、サラセン)に見られ、唐代に西域の医薬品が伝来したことを想定されるという。唐・宋代を経て漸次丸薬などの製剤に配合されるようになった。熊胆の効果は利胆作用で胆汁酸の肝内濃度上昇と胆汁流量が増加。肝細胞に作用して胆汁分泌を促進する催胆作用と、肝内細胆管から総胆管へと胆汁を押し流す排胆作用がある。
日本では飛鳥時代から利用され江戸時代初期に「クマノイ」として頻繁に使用され、特に配置薬製剤には欠くことのできないものとなった。いかにも滋養強壮の「生薬」。
北海道島で狩猟を生業とした生存戦略を立てていくとすれば、大型成獣であるヒグマとも常に接触があり得るだろう。鉄砲などの殺傷能力の高い武器ではなく、さまざまな石器を利用した矢や槍などで狩猟したとすれば、かなり危険の伴う生業だっただろう。ジオラマのような接近遭遇では矢ではほぼ対応はムリのように思える。アイヌのヒグマへのリスペクトの文化習慣は、そういう狩猟の困難の表現でもあるように思う。


つい先日も千歳空港から自宅への帰り道、クルマを運転して高速道路に乗ろうとしたところでエゾシカの一群と遭遇した。まぁ数匹だったので、特段の困難はなかったけれど、住宅取材で北海道中を走り回っていた頃、摩周湖反で大群と遭遇したこともある。たまたま一定の距離があったので危険はなかったけれど、野生との突然の遭遇は独特の体験感。かれらの群としての圧倒的な生命感が不思議と「静寂」のなかで脳裏に刻み込まれてくるのですね。
やはり神々しい空気感が全身に一気にやってくる。血が騒ぐ、というような表現がふさわしい。野生動物の瞳のまことに真剣な表情の美しさには、なにか、お互いを認め合うものが存在する。こちら側も一個の野生動物として、神聖な対手としてかれらを見る瞬間が襲ってくる。そは本能に導かれる世界とでも呼べるのだろうか。たぶんそういうこころはなにか大切なことのように思う。
農耕を基盤とした社会は精緻な計算の世界だけれど、狩猟採集の社会にはまったく異次元の価値感体系がそこに存在しているのでしょう。美しい世界と深く思わされる。

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The Divine World of Hunting: Exploring the Sapporo “Scrub Artifact” Ruins – 4
Close encounters with the wild teach us a world of empathy with their hearts. It is a world of power that uses everything, and a world of deep beauty. The world of beauty.

One of the “trade goods” with Japanese society during the Ainu period is “bear’s bile – kuma-no-i. Dried bear bile (gall bladder). Bear’s “gall bladder”. The crystals in the gall bladder are broken into small pieces and taken. The main ingredient is tauroursodeoxycholic acid, a bile acid metabolite.
The use of animal gall since ancient times is found in the West (Greece, India, and Saracen), and it is assumed that medicines from the West were introduced during the Tang dynasty. It was gradually added to pills and other preparations during the Tang and Song dynasties. Xiong gall’s effects include an increase in the hepatic concentration of bile acids and bile flow through its diuretic action. It has a stimulant effect, acting on hepatocytes to promote bile secretion, and a cholecystokinin effect, pushing bile through the intrahepatic bile ducts to the common bile duct.
In Japan, it has been used since the Asuka period (710-794) and was frequently used as “kumanoi” in the early Edo period (1603-1868), and it became an indispensable ingredient in medicinal preparations. It is a very nourishing and tonic “crude drug.
If hunting is to be a viable survival strategy on Hokkaido Island, there will always be contact with brown bears, which are large adult animals. Hunting with arrows and spears made from various stone tools, rather than guns and other lethal weapons, would have been a very dangerous occupation. In a close encounter such as the one in the diorama, it seems almost impossible to respond with arrows. The Ainu cultural custom of respecting the brown bear seems to be an expression of the difficulties of hunting.

Just the other day, on my way home from Chitose Airport, I encountered a herd of Ezo sika deer as I was driving my car to get on the highway. Well, it was only a few deer, so there was no particular difficulty, but when I was driving around Hokkaido covering housing, I once encountered a large herd of them at Lake Mashu. It happened to be a certain distance away, so there was no danger, but a sudden encounter with the wild was a unique experience. The overwhelming sense of life of the swarm was strangely etched into my mind in the “silence.
The divine atmosphere comes to your whole body at once. It is aptly described as “blood rushing. In the beauty of the serious expression in the eyes of wild animals, there is something that makes us recognize each other. There comes a moment when we, as wild animals, see them as our sacred counterparts. It is a world guided by instinct. Perhaps such a spirit is something important.
A society based on agriculture is a world of elaborate calculations, but a hunter-gatherer society must have a completely different system of values. It is a beautiful world, and I am deeply impressed by it.

【豊かな植物・穀類採集 札幌「擦文」遺跡探訪-3】




現在の札幌市は年平均気温が10°前後。ちょっと20年くらい前には8°程度と言われていたけれど、最近の温暖化の影響が大きいのかと思われます。ことしの異常な野生動物の人間界への接近遭遇には、巨視的にはこの温暖化、とくに今年かなり暑かったことが影響しているのかも知れませんね。
こうした気候変動は歴史年代に入ってもさまざまに社会的影響を及ぼしている。王朝貴族の女性たちが十二単というファッションに身を包んでいたことにも関わりがあったと言われるし、さらに江戸中期〜末期にかけての飢饉は寒冷化の直接的影響と言われる。
ざっくりとした時代ごとでは縄文時代は暖かく弥生時代は寒く、平安期にはやや温暖、江戸時代は再び寒冷化した(14〜19世紀半ばは「小氷期」とも)。
北海道札幌周辺についてどうであったか。この擦文期の遺跡からは写真のようにアワ・キビ・ヒエなどの、自然由来とはいえ人間が「管理」していたであろう植物食物が発見されているという。ジオラマ絵画では、女性たちがさまざまな植物資源を採取している様子が活写されている。
明治のごく初期からこの遺跡にほど近い「桑園」地域ではクワが栽培されたけれど、植物性資源もこの札幌・石狩中部扇状地は比較的適地であったことが偲ばれる。
わたしのようなお米大好き人間からすると、こういった穀類は心の底からうれしくなる(笑)。「おお、これならオレでも暮らしていけるかも」と思えるし、同時にこういった採取食品はどうも歴史的に女性的な雰囲気が感じられて「母の味わい」という郷愁をそそるのかも知れない。ジオラマ表現に女性たちが描かれているのは、たぶん人類史全般としてのそういう常識があるのだろうと推測。


こういった植物・穀類はそれぞれ品種毎に土器に収納されて保管され、いまの「米びつ」のように調理台所周辺に貯蔵されて、毎日の食膳を彩ったに違いない。食生活としては米のように単独で「炊き上げる」という食習慣はなかったのではないか。そうではなく、男達が狩猟・漁撈活動の結果、獲得されたサケ・エゾシカなどの動物性タンパク源との「鍋料理」として食したことが想像される。穀類は雑炊の主役として、ひとびとの食感に染みわたっていたように感じる。
おとこもおんなもそれぞれの必死な生産活動で暮らしを支え合ってきた、そういう光景が脳裏に立ち上ってくる。一方で本州社会での米作についての情報知識はあっただろう。後の時代のアイヌ期の婚姻儀礼のなかに「米を腹一杯食う」という所作があったとされる。北海道島では生産できなかった「輸入品」である米への独特の心理があったとも想像できる。

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Exploring the rich plant and grain gathering Sapporo “Abrasive Culture” site-3
The main ingredient of one-pot dishes harmonizes with animal protein, a masculine food source obtained through heroic hunting and fishing. Grains like porridge may be a nostalgic taste of mother’s cooking. ……

The current annual average temperature in Sapporo is around 10°. It was said to be around 8° a little more than 20 years ago, but recent global warming seems to have had a significant impact. The unusual encounters of wild animals with the human world this year may have been influenced by this macroscopic warming, especially the fact that it was quite hot this year.
Such climate change has had various social effects in the historical period. It is said that the fashion of the women of the royal aristocracy of the time, known as junihitoe, had something to do with this, and the famine of the mid to late Edo period is said to have been a direct result of the cold weather.
The Jomon period was warm and the Yayoi period was cold, the Heian period was slightly warmer, and the Edo period was cold again (the 14th to mid-19th century was also known as the “Little Ice Age”).
What was the situation in the Sapporo area of Hokkaido? As shown in the photo, plant foods such as millet, foxtail millet, and Japanese millet, which are of natural origin but would have been “managed” by humans, have been found at the ruins of the Aburibun period. The diorama paintings vividly depict women gathering various plant resources.
Mulberry was cultivated in the “Mulberry Garden” area near the site from the very beginning of the Meiji era (1868-1912), and the Sapporo/Ishikari Chubu fan-shaped area was a relatively suitable location for plant resources.
For a rice lover like myself, this kind of grain makes me happy from the bottom of my heart (laugh). At the same time, such harvested foodstuffs have a historically feminine atmosphere, and may stimulate a sense of nostalgia for “mother’s taste. I assume that the fact that women are depicted in the dioramas is probably due to the common sense of human history in general.

These plants and grains were stored in earthenware vessels for each variety, and stored around the kitchen like today’s “rice cribs,” and must have been part of the daily diet. They must have been stored in earthenware and stored around the kitchen like today’s “rice hibi,” and must have been used as a daily staple food. Rather, it is imagined that the men ate it as a “one-pot dish” with animal protein sources such as salmon and Ezo sika deer acquired as a result of their hunting and fishing activities. Grains seem to have played a leading role in the porridge, which seems to have permeated the people’s palates.
The scene of men and women supporting each other’s livelihood through their frantic production activities rises up in my mind. On the other hand, they probably had information and knowledge about rice cultivation in the mainland society. It is said that in the Ainu marriage rituals of later times, there was a custom of “eating a full meal of rice. It can be imagined that there was a unique mentality toward rice, an “imported product” that could not be produced on the island of Hokkaido.

【1000年前のサケを獲る暮らし 札幌の「擦文」遺跡探訪-2】


さてわが家から約4.5kmの距離、歩いても1時間、クルマなら10分かからない距離の遺跡。まことに「灯台もと暗し」で、日本全国あちこちと歩きまわっているわが身の愚かさに驚かされる(笑)。なんですが、まぁこれも人生であります。思い立ったが吉日と考えてよい方向で捉え直してみたい。気候風土的な同一性は担保された環境という想像力メリットのなかで、当時の経済行為・生業についてのことから考え始めてみたい。
北海道のこの当時西暦で600年代後半から1100年代は擦文文化期。


遺跡からは川底地形から杭が多数発見されたということで、具体的に「サケ漁」の様子が視覚化されていた。石狩川の支流の琴似川に沿ってこの遺跡は成立している。この時代のひとたちの生業判断として豊かに上ってくる秋サケ漁、その捕獲のしやすさ、漁の豊かさということは巨大な適地判断だったのだろう。イラスト図では腰高程度の水深の河川状況が推定される。川幅とか考えて見ても、この地域は最適環境だったに違いない。
その主要な生産財としてサケの干物加工品が大量捕獲されたと考えられる。それによって基本生業が確保され、そのほかの生活必要物資についても上図では発見された痕跡から多数の動物性タンパク源や、植物性の栄養素が確認されている。多数の植物栄養源については明日以降、触れてみたいが、実に豊かな食生活の痕跡が立ち上ってきている。

琴似川に面してのこの地域一帯に相当大きな集落が営まれていたことが確認されるのだ。
遺跡からは当時のこの地域の植生とは相容れないスギなどの材を加工した木製生活具までも発見されているという。そのことは本州社会との「交易」の成立が可視化されている。
河川は舟によって交通ネットワークが当然成立する。こうした交易関係はどのような規模で、どのようなネットワークで行われていたか、想像は当然沸き立っていく。北海道考古学の知人、瀬川拓郎さんの研究では、本州社会とのこうした交易関係が、その後進出してきた「オホーツク文化人」社会によって緊張を生んでしまって、阿倍比羅夫の北方遠征を惹起させたという説。奥尻島には阿倍軍とオホーツク文化人との争闘の痕跡もあるのだという。
その説を信じれば、すでに600年代中期ころにはこうした本州社会ー擦文社会の交易関係が成立していた証拠になるだろう。そういうなかで札幌周辺のこうした集落社会は、どのような立ち位置であったのか。
文字記録の残っていない北海道の、それもわが家のごく近い地理位置の「歴史」ということになるけれど、交易ということを主軸に考えて行くとさまざまな経緯が想像できる。

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The Life of Catching Salmon 1,000 Years Ago: Exploring Sapporo’s “Abrasive Culture” Ruins-2
Abundant fall salmon fishing and traces of trade with Honshu society have also been unearthed. We also imagine the existence of tensions that gave rise to the Abenohirau expedition. The…

The site is about 4.5 km from my house, which is an hour’s walk or less than 10 minutes by car. It is truly “dark under the lighthouse,” and I am amazed at my own foolishness in walking from place to place all over Japan (laughs). But, well, such is life. I would like to rethink this in a positive direction. I would like to start thinking about the economic activities and livelihood in those days in an environment that has the advantage of a guaranteed climatic identity.
The period from the late 600s to the 1100s AD in Hokkaido was the period of the Abrahamic Culture.

The site was a concrete visualization of “salmon fishing” as many piles were found in the river bottom topography. The site is located along the Kototoi River, a tributary of the Ishikari River. The ease of catching salmon and the abundance of fishing must have been an important factor in determining the best location for the people of this period to make a living. The illustration shows a river that is estimated to be about waist-deep in water. Considering the width of the river, this area must have been an optimal environment.
The main product of the area is thought to have been large quantities of processed dried salmon. The traces found in the above figure indicate a large number of animal protein sources and plant nutrients. I will discuss the numerous sources of plant nutrients later tomorrow, but the traces of a truly rich dietary life have emerged.

It has been confirmed that a large settlement was established in this area facing the Kototoi River.
Wooden tools for daily life, made from cedar and other wood that was incompatible with the vegetation of the area at the time, have even been found at the ruins. This visualizes the establishment of “trade” with Honshu society.
Rivers were naturally connected to the transportation network by boats. It is natural to imagine on what scale and with what kind of network these trading relationships were conducted. According to the research of Mr. Takuro Segawa, an acquaintance of Hokkaido archaeology, these trade relations with Honshu society were strained by the “Okhotsk culture people” who later advanced into the area, which triggered the northern expedition of Abenohirau. There are also traces of a struggle between Abeno’s army and the Okhotsk culture people on Okushiri Island.
If we believe this theory, it would be evidence that the trade relationship between Honshu society and the Abrahamic societies had already been established by the mid-600s. In this context, what was the position of these communities in the Sapporo area?
Although this is the “history” of Hokkaido, where no written records have survived, and where the geographical location of my family is very close, we can imagine a variety of circumstances when we consider trade as the main axis.

【1000年以上前のわが家周辺 札幌の「擦文」遺跡探訪-1】



自分自身の情報メディア人としての「終活」を兼ねて、撮影してきた大量の写真類を整理整頓作業。まぁ基本的には自分の興味のおもむくままに撮りためてきた写真データなのですが、着手してみるとその大量さに驚かされる。これを基礎に別途まとめ作業していくのは、多大な労力だとほとほと実感(泣)。
しかしまぁ、自分自身での整理整頓であり、過去に自分がたどってきたことの追体験なので、興味のありかはしっかり浮かび上がらせることはできる。時間と労力はかかるけれど、あらたな気付きもあって有意義であります。
そんななかに札幌市埋蔵文化財センターの取材写真が発見された。
文字記録のない時代の人間記録からその時代相を掘り起こしていく、それも住まいと暮らしという側面から照射して事実把握を行っていくという作業は自分自身でもかなり刺激的です。で、確認作業を進めていったら不覚にも、この埋蔵文化財の発見場所はわが家から2-3kmほどの北大構内だと知れた。K39遺跡と名付けられて位置は札幌市北区北23条西14で、わたしがよく散歩する宮の森地区から北大方向に流れていく「琴似川」の流域地域だというのですね。俄然、整理整頓作業に加速スイッチが入ってしまった。
展示ではジオラマに発掘成果が落とし込んであって、暮らしぶり・住まい方などの情報がクリアに明示されている。
この段階、西暦で600年代後半から1100年代にわたる時期の北海道は「擦文時代」という、続縄文から少し発展した時代相。基本的には狩猟採集社会が継続している時代。最終的には鎌倉幕府の成立によって、あまり実質はないけれど、直轄地域として認識されていった。アイヌ文化期へと引き続いていく時代。それまでは「竪穴住居」だったものが、アイヌ期には「平地型」住居に変容していく。この住居形式の変化は非常に興味深く、アイヌ民族という存在のナゾにも繋がっていくと思っています。

遺跡の説明としては以下。「K39遺跡は旧琴似川沿いに北海道大学構内とその周辺に広がる遺跡。1996年から1999年に市内の「環状通」の改築にともない調査を実施。調査の結果、擦文時代の竪穴住居跡、焚き火跡、土器・鉄製小刀・斧・琥珀製の玉などとともに、アワ・キビ・ヒエ、サケ・エゾシカ・カワシンジュガイなどの食料の一部も発見。また、古い川跡からは川を横切るように打ち込まれた杭列(漁撈用の杭?)や舟・矢・杵・容器・箸・櫛・杭・編み具・おもり・カンジキ、縄・ヒモ・わらじなどの繊維製品が大量に出土。木製品などの腐りやすい生活具がまとまってみつかることは珍しく、当時の生活の様子が顕在化している」。<要旨>
いちばん上のジオラマは当時の竪穴住居の様子。結構大型で繊維製品の「袋」に多量の植物性保存食が確保されている様子がわかる。
ということで、ジオラマや発掘品などを素材にして1000年以上前の先人と対話を試みたい。

English version⬇

Exploring the “Abrasive Culture” Site in Sapporo, Hokkaido, over 1,000 years ago.
The history and life of people are visualized in a realistic way right under our noses! It is a pleasure to be able to compare and contrast with the ancient times in the Honshu area. The “Rubbun” site is located right next to our house.

I have been organizing the large number of photos I have taken as part of my “life after death” as an information media person. Basically, it is the photo data that I have been taking as my interests dictate, but when I started, I was surprised at the sheer volume. I realized how much effort it would take to organize this data into a separate set of basic data (I cried).
However, since this is my own reorganization, and since I am reliving what I have done in the past, I am able to clearly see where my interests lie. It takes time and effort, but it is also meaningful because it brings new insights.
In the midst of all this, I discovered a photograph taken by the Sapporo City Archaeological Center.
It is quite stimulating for me to dig up human records from a time when there were no written records, and to grasp the facts from the aspect of housing and daily life. As I proceeded with the confirmation work, I was surprised to learn that this buried cultural property was discovered on the campus of Hokkaido University, about 2-3 km from my house, in the area of the “Kotoni River” flowing from the Miyanomori area where I often take a walk to the direction of Hokkaido University, in Kita 23-jo Nishi 14, Kita-ku, Sapporo City. I was suddenly turned on to organizing the exhibition.
In the exhibition, the results of the excavation were incorporated into a diorama, clearly indicating the lifestyle and way of living.
Hokkaido at this stage, from the late 600s to the 1100s A.D., is in the “Scrubun period,” a slightly developed phase from the post-Jomon period. Basically, it was a period when hunter-gatherer society continued. Eventually, with the establishment of the Kamakura shogunate, Hokkaido was recognized as a region under its direct control, although it did not have much substance. A period that continued into the Ainu cultural period. What had previously been “pit dwellings” were transformed into “flatland” dwellings during the Ainu period. This change in housing form is very interesting, and I believe it is connected to the riddle of the existence of the Ainu people.

The following is a description of the site. The K39 site is located in and around the Hokkaido University campus along the old Kotoni River, and was surveyed from 1996 to 1999 in conjunction with the reconstruction of the “Ring Road” in the city. As a result of the survey, we found the remains of a pit dwelling from the Aburumon period, the remains of a fire, earthenware, iron swords, axes, and amber beads, as well as some foodstuffs such as millet, millet, Japanese millet, salmon, Ezo sika deer, and Japanese mussels. In addition, a row of piles (fishing piles?) driven across the river were found at the site of an old river. A large amount of textile products such as boats, arrows, pestles, containers, chopsticks, combs, stakes, weaving tools, weights, candlesticks, ropes, twine, and straw sandals were also excavated from the old river site. It is rare to find wooden products and other perishable household utensils in such large quantities, and this is a clear indication of the way of life at that time. <Summary
The diorama at the top shows a pit dwelling of the period. It is quite large, and you can see that a large amount of plant food was stored in textile “bags.
Therefore, we would like to try to have a dialogue with our ancestors more than 1,000 years ago using the diorama and excavated items as materials.

【早朝気温−1.2° 結氷進むなかの水鳥たち】



人間なにごとも継続が力と言われます。日々の何気ない記録であったり、自然との語らいであったり、住宅についての最新研究の報告であったりと多様なテーマで書き続けてきているブログ。おかげさまで2005年の8月から書き始めてから、なんとかトータル18年間に及んできています。まごうことなき凡人として生きてきて、できることは継続しかない。
そんなことで仕事環境も変化してきているので、情報の整理整頓に取り組んでおります。全国をあちこちと飛び回ってきたワケですが、その合間に歴史と住環境というふたつのテーマに則してたくさんの「取材写真」が積層してきているのですね。それがブログ記事に反映している場合もあれば、そうではなく、記録の棚の奥に仕舞い込まれているものも多い。いや、むしろ圧倒的に眠り続けている大量写真群であります。
不思議なものでシャッターを切っているそのときには無意識に撮影しているのだけれど、現場の空気感というのは強いインパクトで蘇ってくる。ちょっとした写真からそういった記憶復元がされてくる。
写真類の蓄積は2003年の吉野ヶ里遺跡探訪の記録以降、すこしづつ意図的に続いている。当たり前ですが人間の行動パターンには一定の規則性、その人間なりの嗜好が表現される。いちばんよく知っている人間として、自分の思考パターンとか、感じ方が良く理解できるのですね。
でも考えて見れば、こういうことが記録化されるようになった最初期の人類がわたしたちとも思える。デジタル記録という非常に便利なツールを手にした結果ですね。そしてそれを整理整頓できるパソコンツールというものも能力として獲得できている。
整理整頓していると、2020年がぽっかりと空洞になっている。新型コロナの猖獗で社会全体が「引きこもり」を余儀なくされたことと、個人的にはデジタルデータ紛失事件があったのですね。電気的な事故によって一部の年代の写真データが消失してしまった。
なんですが、それもブログを継続しているので、最低限のデータ痕跡はブログ記事として表現されている。多少、画像処理などの手順が必要でしょうが、「つなぎあわせ」は可能になっている。ということで、これらを整理整頓して、現代人だけが可能になってきた写真記録編集を活用して、あらたなチェレンジをしてみたいと考えているところであります。

おっと、写真とブログ記事がまったく連動していない(笑)。
写真は毎日の散歩道、あちこち出没しているのですが、昨日は久しぶりに水鳥さんたちの様子を拝見。結氷し始めている池で、それでも残っている水面で活動している様子。たぶん一族がなるべく集住しているような印象を持ちました。寒い冬に向かってお互いの体温で乗りきろうぜ、と語り合っているかのようです。

冬至にドンドン近づいてきて、朝日の照射角度に変化が出てくるものか、やや高度の高い山だけがまぶしく黄金色に輝く。自然はいろいろな美をわたしたちに伝えてくれますね。

English version⬇

Early morning temperature -1.2°, waterfowl in the midst of ice formation.
As the first humans of the digital age, we have acquired a rare environment in which scenes of our lives can be restored. How can we make the most of this advantage? The…

It is said that continuity is the power of mankind. I have been writing this blog on a variety of themes, such as casual daily records, talks with nature, and reports on the latest research on housing. Thanks to your support, I have been writing this blog for a total of 18 years since I started in August 2005. Having lived my life as an ordinary person without a doubt, the only thing I can do is to continue.
As such, my work environment has been changing, and I am working on organizing my information. I have been traveling all over the country, and in between, I have accumulated a lot of “interview photos” on the two themes of history and living environment. Some of them are reflected in my blog posts, but many of them are tucked away in the back of my records cabinet. No, rather, it is overwhelmingly a group of photos that have been sleeping.
It is a strange thing that the atmosphere of the scene comes back to you with a strong impact, even though you were unconsciously taking the picture at the time when you clicked the shutter. A small photograph can restore such memories.
The accumulation of photographs has continued deliberately, little by little, since the 2003 visit to the Yoshinogari Ruins. As a matter of course, human behavior patterns express certain regularities and preferences. As the person who knows them best, I can understand their thinking patterns and feelings.
But if you think about it, it seems that we were the first humans to record such things. This is a result of the very convenient tool of digital recording. And we have also acquired the ability to use computer tools that allow us to organize them.
When we are organized, the year 2020 is a gaping hole. You have had the entire society forced to “shut down” due to the new Corona’s ebb and flow, and personally, you have had a digital data loss incident. An electrical accident caused the loss of photo data from some of the years.
But, since I have continued blogging about it as well, a minimum data trace is represented as a blog post. Some image processing and other procedures may be necessary, but “piecing together” has become possible. So, I would like to organize them and make a new challenge by using the photo editing that only modern people are now able to do.

Oops, the photos and the blog post are not linked at all (laugh).
The photos are taken on my daily walk, and they appear here and there, but yesterday I saw waterfowls for the first time in a long while. The pond is starting to freeze over, but they are still active on the remaining surface of the water. I had the impression that the family was probably congregating as much as possible. It was as if they were talking to each other, saying, “Let’s get through the cold winter with each other’s body heat.

As we approach the winter solstice, the angle of the morning sun’s rays changes, and only the slightly higher mountains shine with a dazzling golden light. Nature conveys various kinds of beauty to us, doesn’t it?

【ちょっと遠くまで・・・石狩浜益往復】


本日は住宅探訪については閑話休題。
現代生活では日帰り温泉というのは生活の句読点として定着している。日本人はお風呂好き民族ですが、それも公衆浴場文化というのが最大の特徴でしょう。広い浴槽、開放的な環境というのが風呂好きには堪えられない。
そんなことから大都市圏ではあの手この手、さまざまな温浴施設が休日の利用客を狙って趣向を凝らした温浴環境を提供している。建築設備のメーカーでも、戸建て住宅の高コスト化の波の中で、高価格にならざるを得ないユニットバスが今後、どのようなマーケット推移を見せるか、注意してきている。単純にコスパを考えれば、週末2日間を「外風呂」で済ませることになると、5日間の就業時間の「身支度」用だけということになるけれど、であれば、欧米並みにシャワーブースで十分ではないか、どうせ週末は温浴施設利用で家風呂にはない開放感を楽しめるのであれば、というムードとのにらみ合い。
思い切って家風呂をキャンセルしてシャワーブースだけの設備にしてしまえば、コストダウンの余地が生まれてくる。今後のマーケット動向として興味深い。
おっと、本題からズレている(笑)。
ご多分に漏れずわたしも週末には温浴施設に通ってきている。で、こういう楽しみをより高めてくれるのが、ときどきの「環境変換」。普段とは違う温浴施設にドライブする楽しみ。わたしのような年代はクルマ社会の第1次世代。人類進化の結果としての「移動の自由」の最大化を実現させてくれたクルマとともに生きてきた。そろそろ免許更新時の教習では「高齢者」へキビしい対応をされてきていますが、従順にしていてできるかぎり移動の自由は確保していたい。
きのうはカミさんが超忙しということで、ふらっと単独ドライブ。数年ぶりくらいの石狩市浜益の日帰り温容施設まで往復。行き帰りとも大好きな北海道らしい風景が和ませてくれた。
上の写真は札幌から国道231号線、日本海オロロンラインの開始点とも思える石狩市望来(もうらい)の遠望。ひさしぶりの景色との出会いに一瞬でカムバック感が襲ってくる(笑)。


きのうのような雲行きの初冬の日というのも、なかなかに奥行きが深い。スピルバーグ監督の「未知との遭遇」でも同じような姿の山が、宇宙人とのインスピレーション型コミュニケーションで地球人に「目印」場所として指定されていたけれど、まるでそっくりな浜益の「黄金山」。
帰りは石狩湾に面した厚田から遠くに積丹半島側を遠望する景観。

なんですが、温泉施設の方に聞いたら、ことしはヒグマ情報が超頻発しているとの情報。さらにエゾシカの群による突然の襲来など相次いでいるとのこと。自然は生々流転、いろいろに様相を変えてきている。つねに最適な距離感を心がけて行かねばなりませんね。

English version⬇

Ishikari Hamamasu round trip
A relaxing weekend at a one-day hot spring spa. The natural scenery healed me after a long absence, and my mood was liberated. However, brown bears have also expanded their range of activity. I reconfirm my sense of distance from the natural world. The day trip

Today, I’d like to take a quiet moment to talk about house-hunting.
In modern life, a day spa is an established punctuation mark of life. The Japanese are bath-loving people, and perhaps the most significant feature of this is their public bathhouse culture. The large bathtubs and open environment are unbearable for bath lovers.
For this reason, various bathing facilities in metropolitan areas are providing elaborate bathing environments for holiday visitors. Building equipment manufacturers are also paying attention to how the market for unit baths will evolve in the future, given the trend toward higher costs for detached houses, which will inevitably lead to higher prices. If we simply consider the cost performance, if we have to take a “bath outside” for two days on weekends, we will only be using it for “getting ready” during our five-day working hours. The mood of the room was a standoff with “Why not use a hot-spring bath on weekends?
If the house baths are cancelled and only shower booths are used, there will be room for cost reductions. This is an interesting future market trend.
Oops, I’m getting off topic (laugh).
As you may have guessed, I too have been going to hot bath facilities on weekends. What makes my enjoyment even greater is the occasional “environmental change. Driving to a different bathing facility than usual is a pleasure. People my age are the first generation of the car society. We have lived with the car, which has maximized “freedom of movement” as a result of human evolution. Although the “elderly” are now being harshly treated in the lessons for license renewal, I would like to remain obedient and maintain my freedom of movement as much as possible.
Yesterday, my wife was extremely busy, so I took a drive alone. It had been several years since I had been to a day spa in Hamamasu, Ishikari City, and back. On the way there and back, I was comforted by the scenery typical of Hokkaido, which I love.
The photo above is a distant view of Mourai in Ishikari City, which is the starting point of the Sea of Japan Oloron Line on Route 231 from Sapporo. The encounter with the scenery for the first time in a long time instantly brought back a sense of comeback (laugh).

An early winter day with clouds like yesterday’s is also quite profound. In Spielberg’s “Encounter with the Unknown,” a mountain with a similar shape was designated as a “landmark” for the earthlings in their inspirational communication with the aliens.
On the way back, the view from Atsuta facing Ishikari Bay with the Shakotan Peninsula side in the distance.

However, when I asked the staff at the warming facility, they informed me that brown bears have been reported very frequently this year. In addition, there has been a series of sudden attacks by groups of Ezo sika deer. Nature is a dynamic and ever-changing place, and its aspects are changing in various ways. We must always keep in mind the optimum distance from nature.

【6世紀後半の「香取海」周辺地理 千葉芝山古墳探訪-5】



千葉県芝山町の「芝山古墳・はにわ博物館」の展示によって得られた知見に即して、可能な限り時代のリアリティを考えたいとブログシリーズで取り組んでみた。その形象「はにわ」が東北大学・田中英道先生の想像力を激しく刺激して、ユダヤ人説の根拠とされていたけれど、現地の博物館側としてはそういった表現については慎重に深入りを回避していた。
今現在で確定している考古的知見に基づき物証的な積み重ねからさまざまに展示構成されている。
わたしとしては、この房総中部、太平洋岸から北方に展開する「香取海」そして鹿島神宮の総合的な地理感覚に強い興味を抱かせられる。古代に於いてはこの地域を経て、「武神」として古事記などにも名の出る東国三社の香取・鹿島が、東北への「出撃拠点」という位置にあることに強い興味を持たされるのです。
日本史の大ぐくりの理解として、各地域ごとの分権的並立的な権力状況から、隋唐という中国大陸で成立した強権国家への外交的対応が、日本国家の権力統合に深く影響を及ぼし、畿内・西国中心であったヤマト王権が、徐々に東国地域との統合を目指していったのがこの時代相だった。
それまでのいわば分権的な国家社会のありようから徐々に中央政権の支配力が強化されていくプロセスが、この地域での「前方後円墳」造営という明示的変化をも生み出していったのでしょう。
日本史はその後さらに隋唐との外交関係強化の証として、国内での「征夷」課題が追求されていく流れになっていく。中国大陸国家というのは四周の外敵に対して強権的であることが、非常に重要な国内的説得力だったとされる。本来の日本列島政治史としては「和を以て貴しとなす」であってそういう争乱は本流ではない流れがあったと思う。東北にとっては理不尽この上ない展開。
そういう流れの結果、この房総〜香取海周辺が対蝦夷の「出撃拠点化」していくことになったのでしょう。


関東では本来、群馬県から栃木県地域の「毛野」氏勢力の支配地域の方がより重要な地域だったとされるけれど、一時期、それら地域は火山噴火による甚大な被害を被って、勢力の衰退に陥っていたとされている。そういうことでこちらの房総側の方がより重要地域になっていった。
後の世で武士の創始ともいえる源義家が東北に進出していったのが、この地域の先のいわき市周辺の「勿来の関」を進出口としたのには、この地域で武装を整え軍勢を整えたということを表している。そのさらに後年に頼朝が旗揚げ後、いったんは房総に逃れて勢力を再結集させることに成功したのには、このような地域としての来歴、必然性があったのだと思える。
そういった意味ではこの地域の未解明の古代史は、かなり重要な意味を持っている、そんな風に考えて今後とも探訪、掘り起こしできたらいいなと考えています。

English version⬇

Geography around “Katori-kai” in the late 6th century: Chiba Shibayama Kofun Tomb Exploration-5
The ground for the Kashima and Katori warriors was chosen as the base for the “conquest of the barbarians” in the Tohoku region, and Minamoto no Yoshiie attacked beyond the Nakoso no Seki barrier. This is an exploration of the history of the area where they were based. …

In this blog series, I have tried to consider the reality of the period as much as possible in line with the findings from the exhibition at the “Shibayama Kofun Tomb and Haniwa Museum” in Shibayama Town, Chiba Prefecture. The figurative “haniwa” (a straw figure) has been a source of inspiration for Professor Hidemichi Tanaka of Tohoku University, and has been used as the basis for his Jewish theory, but the local museum has carefully avoided going into depth about such expressions.
The exhibition is composed of various exhibits based on the physical evidence accumulated from archaeological findings that have been confirmed as of now.
I am strongly interested in the overall geography of the Katori-Kai and Kashima Shrine, which stretches from the central part of Boso and the Pacific coast to the north. In ancient times, Katori and Kashima, the three shrines in the eastern part of Japan, were named in the Kojiki, the oldest extant chronicle of Japan, as “warrior gods” through this region, and I am strongly interested in their position as a “base of departure” to the northeast.
As a broad understanding of Japanese history, the diplomatic response to the Sui and Tang dynasties, which were powerful states established on the Chinese continent, had a profound effect on the consolidation of power in Japan, and the Yamato kingdom, which had been centered in the Kinai and western part of Japan, gradually sought to integrate with the eastern regions.
The process of the gradual strengthening of the central government’s dominance over the previously decentralized state and society must also have led to the explicit change in the construction of “anterior posterior circular mounds” in this region.
Japanese history then further developed into a trend of pursuing domestic “barbarian conquest” agendas as a sign of strengthening diplomatic relations with the Sui and Tang dynasties. It is said that the Chinese continental state was a very important domestic persuasion to be powerful against the external enemies of the four circuits. In the original political history of the Japanese archipelago, “harmony is the key to success,” and such conflicts were not the main stream. For the Tohoku region, this was an unreasonable development.
As a result of this trend, the area between Boso and Katori-kai became a “base of operations” against the Emishi.

The area controlled by the “Meno” clan in the Kanto region from Gunma to Tochigi prefectures is said to have been more important, but for a time these areas suffered severe damage from volcanic eruptions and their power declined. For this reason, the Boso side became a more important area.
In later times, Minamoto no Yoshiie, the founder of the samurai class, advanced into the Tohoku region and chose “Nakosuno-no-seki” in the vicinity of Iwaki City as his entry point, indicating that he had armed himself and built up his army in this area. It seems that Yoritomo’s success in regrouping his forces in this area was due to the history and inevitability of this region.
In this sense, the unexplored ancient history of this region is of considerable importance, and I hope to continue to explore and excavate it.