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平安期・北海道での交易実態

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写真は、縄文からアイヌ期まで8000年間の住居跡がある
サロマ湖畔・栄浦から北方を見た様子です。
住居跡は全部で2706軒分が確認されているそうで、
それらが積層しながら継続していたとはいえ、
未発見分も含めて考えれば、ここは狩猟採集生活文化にとって
まるでパラダイスのような地域だったと思われます。
オホーツク人は、漁網のようなものも工夫していたと考えられ、
海産物の採集能力はきわめて旺盛だった。
そういうなかには、「水豹〜アザラシ」なども存在したに違いありません。
日本の歴史で言えば、オホーツク人の存在した時期は
ちょうど平安期に相当するので、
平泉藤原氏が、京都の政権に対して貢納した「北方産品」のなかの
貴重種の毛皮としての物産が想定される。
ここのオホーツク人が採集したアザラシの毛皮が、
平泉藤原氏の手に渡り、そこからさらに京都に収められていたに違いない。
鷹のハネなども貴重な交易品とされているけれど、
それらもこの地域のオホーツク人からもたらされたと考える方が自然。
当時の北海道には、
このオホーツク人のほかに在来の民族として、
「さつ文時代人」が併存していた。
かれらは、道央から道東一帯に主要な遺跡が確認されている。
また、この地域でも痕跡が確認されている。
そうであれば、かれらのネットワークから、オホーツク人との交易品が
きっと平泉地域との交易に使われたのでしょう。
鷹のハネは貴族にとって、なくてはならないファッション素材であり、
アザラシの毛皮は、高貴な女性の衣類として使用されたとか。
ちょうどこの時期は寒冷期であり、
女性の「十二単」などの重ね着ファッションがもてはやされた結果、
こういう素材の貴重性が高まったとも言えるのでしょう。
このような交易品物流ネットワークはどのように出来ていたか、
北海道内の各文化間の交流実態はどのようなものであったか、
このあたりは、まだまだ、わからないことだらけですが、
そもそも交易というのは、狩猟採集社会にとっては基本的な存在意義を持っていたそうで、
ひとの営みの開始から、交易活動はセットで考えるべきもの。
海の幸と山の幸の交換は、人間活動の基本だと思われます。
われわれが考えるよりもずっと自然なかたちで交易は進められていたと思います。
ただし、このオホーツク人地域から、
さつ文文化人たちの主要な居住地域である道央地域間は
どのような交易の道があったのか、探ってみなければならない。
多分、陸路だろうけれど、途中からは豊富な水路も利用できそうです。
明治期からの「開拓の歴史」のほかに
北海道地域には、われわれがまだ、つまびらかに出来ていない
豊かに積層した歴史が存在していると感じられますね。
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