さてきのうは江戸期の中級武家住宅、八王子千人同心組頭の家を
記事構成しましたが、ひるがえって北海道での特異な戸建て住宅、
札幌市西区・琴似の屯田兵屋について考えてみたいと思います。
わたしどもの事務所は、この屯田兵屋(跡)から徒歩7−8分。
いまは札幌西区役所周辺のビル群に囲まれるように建っている。
それでも上の写真のように、敷地の菜園も含めて1戸が遺されている。
敷地の面積は10間×15間の150坪で、住居面積は3.5間×5間弱、
平屋の17坪と記されている。このような住宅が写真図のように配置された。
配置から考えると、いまの「札幌地下鉄琴似駅」も敷地に含まれていた。
近隣には「琴似神社」もあり明治ニッポンの開拓を感じさせる。
昨日見た江戸幕府の中級武家住宅は21坪ほどですから
特異な「武人」向け住宅として、スタンダードっぽい規格住宅ぶり。
北海道には「歴史的建造物」はそう多くはありませんが、
この屯田兵屋はかなり特異な建物と言えるでしょう。
さすがに縁のある地域なので、いまもこの近隣に住んでいて
祖先が屯田兵として入地した、という高校同期の友人もいます。
かれの伝来の家もこの屯田兵屋にほど近いので、
この屯田兵屋群が展開したそのままの土地であるかも知れない。
明治初年に入植した当時の記念写真が残っている。
屯田兵の制度は明治7年に定められて、榎本武揚などの
旧幕臣を活用することを方針としていた開拓使次官・黒田清隆の
建議によって、制度が定められた経緯から東北諸藩の旧士族が
大量に採用されたといわれる。
明治8年、総戸数198戸がこの札幌市西区・琴似に入ってきた。
隊が編成され入植してすぐの明治10年に西南戦争が勃発して
旧幕府方だった屯田兵たちは動員され仇敵・薩摩に対し勇戦したとされる。
しかしその屯田兵部隊を指揮した士官たちは薩摩出身者が多く
戦場ですこぶる戦意が薄かったとされる。
であるのに、戦後の論功行賞では士官に篤く勇戦した東北諸藩出身者に
薄かったため、1人の将校が抗議の切腹をしたと言われる。
この写真に残る屯田兵の人々の表情にそんな歴史の残像が重なる気がする。
士官とおぼしき人物以外は、裸足のようにも見られる。
幕末から明治にかけての内戦がさまざまに陰を落としている。
その後、出征した日清戦争では交戦記録はなかったけれど、
明治37年の日露戦争では、乃木希典の指揮する第三軍に属した。
最激戦・旅順攻囲戦の一翼を担って甚大な損害を出した。合掌。
屯田兵は家族を連れて入地し、入地前にあらかじめ用意された家「兵屋」と、
未開拓の土地を割り当てられた。写真上の150坪ほどの敷地・菜園は
各戸のための農作地でほかに共同作業での農耕地があったとされる。
兵屋は一戸建てで村ごとに一定規格で作られた。
板壁・柾屋根(薄い板で葺いた屋根)の木造建築で、
畳敷きの部屋が2部屋、炉を据えた板の間、土間、便所からなり、
流しは板の間あるいは土間におかれた。決して贅沢な間取りではないが、
当時の一般庶民の住宅よりは良かったとされている。
高温多湿の気候に向いた高床式の日本建築ゆえ、冬季には
寒さで非常な苦痛を強いられたのは、他の入植者と差はなかった。
この時代というか、江戸期の公営規格「武家住宅」というのが、
この屯田兵住宅の基本的な作られようであったことがわかる。
ただ、昨日見た江戸期の八王子の家が「茅葺き」でまだしも
「断熱」を意図しているのに、薄い柾屋根というのはキビシイ。
このあたり明治国家の「規格」は江戸幕府よりも劣化した?
より温暖な薩長に権力が移ったことが、こんなことに反映したのか。
このように始まった明治ニッポンの消息がわが家直近にも息づいている。
Posted on 9月 23rd, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 歴史探訪
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