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北海道での民俗学

ホッカイドウ学という領域を提唱されている
札幌国際大学人文学部・大月隆寛教授という方のことが
きのうの北海道新聞朝刊に掲載されていました。
大変興味深いのですが、
そのなかに、日本の「民俗学」を確立した柳田国男さんが
「北海道では民俗がないから、無理ですな」と言われた、と書かれていて、
ふむふむ、さもありなん、と言う気持ちと、
そうなんだろか、という気持ちと、両方が襲ってきました。
で、この大月先生は逆に歴史がないなら、それをメリットに変えて
新しい民俗学・ホッカイドウ学を探求しましょう、
というお考えなんですね。

まぁ、半分は同意できる部分があるけれど・・・
というのが、正直なところ。
一度もお会いしたことがないので、これ以上はわからないのですが、
でも、柳田さんといい、大月さんといい、
北海道には歴史・民俗がない、という結論からスタートするわけですが、
さて、北海道に生まれた世代のものとしては、
どうなんでしょうと、考えてしまいます。
わたしは、祖父が広島県から移住してきた家系で、
その前もかなりたどることが、推定も含めて出来るのですが、
祖父は墓を広島県と、北海道で分骨しましたが、
父は北海道に「骨を埋め」ました。
そうなると、わたしも、父に背くわけにも行かないので、
当然、北海道で骨を埋めることになると思います。
父の世代は、かなり悩んだに違いないと思うのですが、
その決断には、その分、重さを感じています。

そこから、祖先のことを調べると言うことと、
同時に、この北海道島のことをもっとよく知りたいと思うようになりました。
確かに、北海道島には、和人はそう長くは住み続けていなくて、
まぁ、高々、150年くらい。
民俗、というレベルまで到達はしていないでしょう。
しかし、一方で先住のひとびとは、それこそ石器時代から、
縄文時代には列島有数の人間生存適地であり、
日本という国の歴史時間が始まってからも、
この地に暮らしていたひとたちの交易記録自体は
数多く確認できるようになってきている。
ただしかれらは、文字記録は持たなかった。
しかし、言ってみればそれだけであって、
かれらの営みを先人の営みとして認識しないというのは、どうなのか。
血脈としての伝承性はそう濃くはないけれど、
地域に残る痕跡を丹念に調査し、いわば「地域の記憶」として
民俗学を構築していく努力は必要なのではないでしょうか?
まぁ、それは民俗学ではなく、歴史学の領域だと言われればそうなのでしょうが。

わたしは住宅とか建築とかに関わってきたので、
そういった先人の生活痕跡とか、見聞きする機会も多いのですが、
だんだんと、そうしたなかから、かれらの知恵を感じ取るように思うのです。
この寒冷気候には、竪穴の住居形式は理にかなった部分もある。
いわゆる「凍結深度」という概念を
かれらの住居形式では、当たり前のように生かしていた。
また、茅葺きは、内部に空気層を保持する自然素材であり、
断熱性も効果があったに違いないと思われるのですね。
1000年前くらいの住居では、かまどが煮炊き装置として据えられていましたが、
そこには、空気導入口も土で造作されていたとされています。
現代の、FFストーブの発想と基本的には似通っている。
土間を持っているのも、「土壌蓄熱」という最新の暖房の考えと
そう大きく乖離してはいない。

どうも、血脈性としての日本人民俗というような
狭い認識が、当然のように前提にされているのではないでしょうか。
どうもそのように思われてならない、と
この記事を読みながら考えていた次第です。

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