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平泉の黄金と北方交易

先日書いた、「築90年の食事処」の名前を
同席していた金田さんからお知らせいただきました。
「お茶の間」というのだそうです。
なんか、まんま、っていう気もしてしまって、むむむですが・・・。
ありがとうございました。

さてライフワークの物語、最近も徐々に進んでおります。
とはいっても、頭の整理整頓が難しく、
遅々とした歩みではありますが・・・。
で、参考にさせていただけそうな考古的学術資料・知見が、
芋づる式に手に入ってきております。
そういうなかで、最近わかってきたのが、
平泉の「黄金文化」についての情報であります。
どうも、平泉の黄金って、その生産地が
奥州ばかりとは限らないのではないかというのです。

思わず、目が点になってしまいましたね。
さらに、奥州藤原氏に繋がっている安倍氏は、
その出自が、渤海国の王族に連なっているという説もあるそうなんです。
金の産出については、
749年に、百済王敬福という
そのまんまの出自の人間が、その配下の人々を手配して
陸奥守の副官としての官位を得て、赴任し、
現地の涌谷の地で発見し、発掘して、
天皇に献上した、という記録が残されています。
その後、かれは官位が7階級特進して、
陸奥守も拝命し、最終的には都で栄華を勝ち得たということだそうです。

金はその後も産出が続いていたことでしょうが、
その年代から、藤原氏の中尊寺金色堂までは、約400年くらいの年月がある。
金の発掘というのは、支配権力側にしてみると
大変貴重な資源であることは明白で、
この時代の金生産では、世界的にも最大の地域にはすぐになったことでしょう。
その後の「日宋貿易」では、中国側から強く金を交換品として
要求されたことは明らかです。
この時代、巨大な商業国家・宋では、
ヨーロッパ世界とのビジネスも盛んであり、
その決済手段として、金の需要が非常に大きかったという。
マルコポーロが、黄金の国ジパングと書いたのは
こういった経緯からのものであったそうですから、
いかに、平泉の金が大きい生産量を持っていたか、を表している。
そういう絶対量をまかなうには、
奥州からだけ、というのでは説明がつきにくい、ということ。
そして、現代の技術で金の生産地をあきらかにできるかも知れない、
っていう可能性が出てきたというのです。
まことに面白い説が出てきたと思います。
わたしにしてみると、まことにうれしい状況になってきたというところです。
大いにこういう動きに期待したいところです。
<写真は、アイヌの丸太船>

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