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城壁の建築工法

城郭建築というのは、
日本の建築技術にとって、たぶん相当の進化をもたらせた
事業機会であったろうと想像できます。
戦争は、技術発展にとって最大のチャンスだったのは
飛行機の歴史を見ればわかりやすい。
経済的な利権を巡って、戦争形態で互いに争い合う時代にあっては
頑丈な城郭構造が強く求められたでしょう。
しかしそうはいっても、構造的には木造が基本であって
それをどこまで頑丈に作れるか、という勝負だったのでしょう。
こういう技術は、たぶん、銭の力というものだけで、
自由に勢力圏を越えて流通していったものと思います。
秀吉という権力者で、感心するのは、
この土木建築技術について、戦争自体に活用した点でしょうか。
かれが最初に世に出たのが、墨俣の一夜城というのは象徴的です。
たぶん、かれは信長に採用されるまで、
こういった地下人層を彷徨っていた人生だったのだと思います。
戦争の技術について、積極的にそういった階層の動員を計った。
それがその後の、かれの出世戦争である、
中国征服での大土木工事作戦に繋がっていった。
城攻めに自然の地形と、土木工事を持って当たるというのは、
かれの独創とは言えないまでも、きわめて独特の作戦計画だった。
まわりの幕僚たちはびっくりしただろうと思うのですが、
信長はきわめて高く評価していたのでしょう。
こういう戦争のやり方に対して、
柴田勝家のような、常識的な武闘派の将軍たちは反発し、
蔑んでいたというのは、理解しやすい。
尋常な勝負、というような作戦とは言えない。
調略と土木建築作戦という、ひたすら裏道と見える作戦だったのでしょう。
しかし、こういう考え方には合理性があり、
その後の戦争形式や、城郭建築を変えていったでしょうね。

この城壁の模型は、
その秀吉に滅ぼされた小田原城のものです(笑)。
なんですが、城そのものは江戸期の建築のものであり、
その当時の建築技術に基づいて再建したときに、
事前に土の調合具合とかを見定め、経年的な変化を確認するための模型。
鉄砲の発達の結果、
土塗りの城壁はいろいろ工夫が積み重なったことでしょうね。
幾層にも塗り重ねられた様子に、そういう想像が膨らみます。

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