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茶室・数寄屋と日本建築の現在

先日見学取材してきた、大崎市古川の家です。
茶を楽しまれている方で、
寒冷なこの地でも、そういった住宅を希望され実現した住まい。

茶室という文化は、
建築の様式にまで昇華した日本建築の面白い領域です。
日本人ではあるけれど、やや断絶感のある北海道の人間からすると
どうもそのままでは受け入れにくいものがある。
「簡素さ」「侘びサビ」というイデオロギーを優先させた建築になれば、
どうしても北国的な環境では問題が出やすくなる。
「にじり口」などは、どう考えても熱環境的には実現不可能。
形式化し、様式化した、硬直的なデザイン優先志向は寒冷地建築とは合わない。
どうしても実現させるとなると、
そこの「断熱欠損」を飲み込んで、全体でどのようにマイナスを少なくしていくか、
と考えて行かざるを得ない。
そういった簡素デザイン志向と寒冷地建築との境界線が
古来、宮城県地域だった歴史時間が日本にはあるのではないか。
そんなふうに思っています。
しかし最近、東日本大震災での応急仮設住宅を木造で建てた
筑波大学の安藤邦廣先生と知遇を得て、
その研究事跡を知って、著作も読ませていただいて、
目の覚めるような思いをさせられております。
先生の研究では、利休を頂点とする「数寄屋建築デザイン」とは、
それまでの日本建築に対して革新的な潮流であり、
戦国からの「復興期」にあたっての「応急仮設」的な建築手法であり、
きわめて合理精神に根ざしたものだったとされているのです。
繰り返された戦争の世紀がようやく終結しそうになって来たころ、
京都の街の建築の復興に当たって、
決定的に「木材建材」が不足していた。
それを解消するために「京都北山」で、生育の早いスギ材を大量に植林を始めたけれど、
それでも大きな径の木材資源にまで育成するためには
30年はかかり、そのうえ、間引きなどの手間を掛けていかなければならない。
そういった時代背景において、
経済の主体でもあった京都の町衆たちの指導層である利休は、
この間引きされた細いスギ材も建築材料に利用することを考えた。
待庵などの建築で使われたスギ材の細さはそういう結果だった。
そして応急仮設的な住宅空間の「広さ」も、合理性に基づいて再検証すれば、
4畳半という規格サイズに収斂できると考えた。
天才たる利休は、さらに面積を削っていって、
極小空間でも、最低限の人間動作が可能だと突き詰めていった。
さらに壁も、木材に代わる材料として豊富にありながら、
それまでの建築概念からは想像されなかった、竹で「木舞」という下地を作り、
その上から、ほぼ無尽蔵にある「土」を塗り固めて造作した。
資源はないけれど、人的労働力は豊富にあった時代環境に即して
合理的に考えられていった建築手法総体が総動員された結果の建築スタイルが
「数寄屋建築」の本質なのだと解明されているのです。
土壁の手法において、土内部の空気をできるだけ極小化させるために
「叩き付ける」ように施工するプロセスなど、
その時代の建材状況の中で、「気密化」を追求した結果だというのです。
合理的な「性能追求」の姿勢がその技術の中核において行われている。
こうした知見を得て、
そうであれば、その時代精神はむしろ今日で言えば、
高断熱高気密住宅の方が、
利休の創造した世界観に近い建築運動になると思わされたのです。
まぁまさにコペルニクス的な転回とでもいえるでしょうか。

長くなってきました、今日はこの辺で。
このテーマ、ときどき、触れてみたいなと思っています。

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