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五寸釘の寅吉

おとといの宮島沼のあと、
実は「月形監獄」跡を見に行ってきました。
で、カミさんに「五寸釘の寅吉」のこと、
わたしの友人から聞いて初めて知ったのだと
初めて言われました。
わたしの小学校時代には、この「偉人(?)伝」はまだ、息づかいのある
生々しい時代の記憶として、先生から口述された記憶があります。
江戸末期に三重県に生まれ、
初犯は14歳の少年の時に、賭場でイカサマがばれて殺された叔父の仇を
討とうと敵の一家に忍び込み、親分と子分4人を斬りつけ火を放って逃げた。
っていうすさまじいもの。
そこから、寅吉の脱獄は計6回におよんだ。前代未踏の脱獄歴。
で、逃走途中に五寸釘の打ち付けられた板を
踏み抜いてしまったけれども、
それもいとわずに逃げおおせていたというのですから、
まぁ、伝説的な怪盗ぶり。
北海道での泥棒歴では、金持ちの家から盗んだ金を、
貧しい開拓者の家に投げ込んだりすると言う「義賊」ぶりも発揮したとか。
最後、網走監獄から出所する際には、
興行師が、かれの「名声」を利用して興業一座で全国行脚したということ。
まぁ、現在のテレビの無節操な視聴率稼ぎは、
こういう精神からきているのでしょうね。すごい。

カミさんが聞いたというのは、わたしの同級生の友人からなのですが、
わたしも同様だと言うことは、
先生が、この人物のことに触れて話すのが、当時の指導要領にあったものか、
そういった想念も起こってきます。
その後、6歳下のカミさん年代ではまったく知らないんですね。

北海道の開拓には、
こうした囚人たちの使役労働も与っている部分があります。
上の写真は、監獄の入り口の石の階段です。
足に3.5kgほどの鉄の塊を付けられていたということで、
そうした出入りの際の過重が、
このように石段に痕跡を付けているということです。
ちなみに、この地が「月形」と名付けられたのは、
初代の「典獄」〜獄舎の長官職についた藩閥出身者の名を付けたと言うこと。
その当時の政治や高級官僚のありようがまざまざと見えてくる。
藩閥政府というのは、革命政権であって、
明治の維新以降、結局はそのときの主体勢力が
枢要要路を独占して、好き放題に国政を蹂躙していたのでしょうね。
かれ、月形さんから、政府要人に宛てた手紙が展示されていて、
かれが初代として赴任してから、
たくさんの成果が上がっていることを見せるために
ぜひ、伊藤博文の訪問を実現して欲しいという陳情。
そこから彼個人の昇進を強く願っている内容でした。
結局、維新の果実は、こういうふうに
藩閥出身者に、簒奪されていくプロセスだったのでしょうね。

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