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【美神のプロポーション/日本人のいい家⑮】


建物というのはあらゆる人に分け隔てなく素性をさらす。
その姿カタチで、本然を伝えてくれるものだと思います。
同時に、その内部には「機能」を実現する空間を持っている。
その両方でわたしたちのために役立つものでしょう。

写真はよく見学に訪れている日本民家園に収められている
「蚕影山祠堂」(コカゲサンシドウ)であります。
わたし的にこのお堂、ひと目見たときからときめかせていただいている(笑)。
不思議な感じで、まるで「ひとめぼれ」そのもの。
祠堂という名付けの通り、蚕の紡ぎ出すふしぎにリスペクトした建築。
ということで建築の「施主」はいのちのありがたさ、そのものであるのかも。
そういった由縁が見る者のなにかを刺激するのかも知れません。
しかし造形する立場からして見て、巧みに丸、三角、四角が絶妙バランス。
そして造形素材は自然に帰る木、萱だけで構成されて
まるでいのちそのままで訴えかけてくる。
この建物は「入れ子」構造で内部にも、本体の小型建築が仕舞い込まれている。

川崎市教育委員会の簡要な説明が公開されています。
〜養蚕の神「蚕影大権現」を祀る宮殿と、それを安置する覆殿より構成される。
もと川崎市麻生区岡上の東光院境内に祀られ、人々の信仰を集めていたが、
養蚕の衰退とともにお堂の維持が困難になったため、岡上の養蚕講中より
昭和44年に川崎市に寄贈された。翌45年、祠堂を日本民家園に移築し、
それを機に覆殿は復原修理された。〜というのが来歴。
〜棟札によると、宮殿は文久3年(1863)に再興されたことが判明し、
造営には岡上村講中のもの38人が助力した。大工(番匠)の名は
字が掠れて読めないが、4字のうち2字目は「海」であり、
岡上の大工鳥海氏の先祖ではないかと推察される。〜
この建築年代は横浜の開港による外国交易の活発化で
日本は「生糸」の生産輸出で盛り上がった時期に相当し、
横浜にいちばん近い川崎市の当該地域では、盛んに生産されたとされる。
その経緯を伝えるように養蚕講中(女人講中)38人が助力して造立された。
蚕を飼って糸を生産するのは、女性たち主体の経済行為。
祀られているのが蚕の精霊とでもいえる金色姫という女神なので、
わたしのひとめぼれには大いにワケがあるのかも知れない(笑)。
ちなみに金色姫というのは、インドの女神で4度の苦難を乗り越えて
蚕となって女神になったとされる養蚕のシンボル。
したがって、そのような来歴、施主たちの思いを踏まえて大工鳥海氏は
命がけで、美神を建築表現したに違いない。

●入れ子の中身の宮殿は、間口2尺、奥行3.28尺、隅木入りの春日造形式の
小規模な社殿で、向拝の正面に軒唐破風を付ける。総欅の素木造り。
両側面の板壁と腰壁に嵌め込まれた立体的な浮き彫り彫刻では
蚕神である金色姫の物語を表わしている。
●覆<サヤ>殿は桁行15尺、梁間9尺で、正面に入母屋造・茅葺の妻をみせた
妻入建物であり、背面を寄棟造にする。簡素な建物のなかにも
意匠を凝らしているのが窺える。建立年代は宮殿とほぼ同時期と推定。
建物の絶妙なプロポーションに強く惹かれて
その素性にも探究を迫って見たけれど、時間を越えて
はるかに魅了されるような小建築だと思い続けている次第です。

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