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縄文の社会システム

北海道には「国宝」は、縄文時代の「中空土偶」しかありません。
国宝って言うのは、時間の経過が必要であって、
作られてから数百年経たないと、必要要件を満たさないのだそうで、
そうすると、北海道では文字記録が残る時代特定は
なかなかないでしょうから、
国宝が少ないのはやむを得ない要素もある。
第一、長い歴史年代で、農業生産よりも狩猟採取型経済だったので、
人口も少なかった。
なんですが、
そうではあっても人間の営みはあり続け、
モノを作り続けてきた積み重ねはあった。
みごとな中空土偶は、このブログでも紹介しましたが、
なにげない土器にも、手業のみごとさは十分に感じられる。

最近、農業も自然破壊のひとつである、という議論がある。
日本で言えば、弥生以降の基本的食料生産手段なわけですが、
そうなると、縄文までたどりついて、
その社会がたいへんエコロジカルで、
自然に背かない、ライフサイクルを実現していた、という考えですね。
しかし、どうなんだろうと、考えさせられますね。
北海道では、縄文から続縄文、さらに檫文と、
時代が変化していった歴史なんですが、
その時代の様相を見ていると、交易活動が盛んに行われている。
狩猟採取型の社会でも、
基本的に、農業生産型社会との交易が必然になっていた。
アイヌ期になってくると、
もっと明瞭に、それまでの住宅様式が一変して、
竪穴から、平地住宅に変わった。
それは、日本社会から「鉄鍋」がもたらされて、
もう、土器とかまどという装置が食確保の手段として不要になった、
っていうような社会「発展」のプロセスが見て取れるのです。
また、狩猟採取の対象も、
たとえば、ヒグマなどは、純粋にその肉を食べるという対象としては
危険度も高く、そう必要とは思えないのに、
盛んに狩猟されている。
それは、日本社会のような先進社会に対して、
「熊の胆」という非常に高価に売れたから
というのが要因になっているようなんですね。

そういった日本側との交易の権利を巡っての
各部族間の戦いというのも、激しかったようです。
アイヌとは違うけれど、
古代東北で、日本政府側が、
夷を制するに、夷を持ってするべし、
っていう分断政策をとったのは、そういう条件が大きかったからだと言われる。
狩猟採取型の経済構造は、
けっして平和的で、環境に対して調和的だった、
とは一概に言えないのではないかと思います。
縄文の土器などを見ていても、
その手業のみごとさに、むしろわたしたちと同根の
考え方とか、希求を感じられます。
やはり、人間、そうは変わってはいないのではないでしょうか。

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