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立って半畳、寝て一畳

北海道の南西部から中北西部にかけて
にしんを追って狩猟採集活動を旺盛に行った痕跡遺跡が点在します。
いわゆる「にしん番屋」とか言われる建築ですね。
このシステムは、松前藩の「知行地場所」という概念が淵源のように思います。
北海道は蝦夷地と呼ばれた当時から
漁業資源の収奪が基本的な経済基盤だったでしょう。
松前藩が自分でその権益を差配するようになるのは、
いつの頃からだったのか、
それ以前の和人と現地民との関係は、アイヌ中期などの時期までは
こうした交易品は、アイヌ人などが収穫して和人に渡していたものと思います。
それが、本州地域からの需要の増大にともなって
次第に漁獲量が拡大し、
大規模な漁業権益となってくるようになると、
和人資本が直接進出するようになったのでしょう。
その傀儡として松前政権が存在し、ピンハネ構造を作っていた。
松前では、高級藩士などに漁業権の「場所」を
あたかも「知行地」のように与えていたのでしょう。

時代が下って、
この写真のような漁業施設痕跡施設は
本州から進出してきた資本家による建物です。
こういう施設では、「ヤン衆」と呼ばれた出稼ぎ人労働力を
番屋で寝泊まりさせて使役した。
写真は、その宿泊部分なんですね。
日本の建築寸法は、たいへん合理的なものだと思わされるのが
この写真のような寸法感覚。
ほんとうに「立って半畳、寝て一畳」という寸法そのまま、
畳の縁が個人と公的部分との仕分けになっていますね。
畳1畳は、布団を広げればちょうど一人分の空間。
布団を上げれば、居間として一人分には寸法が理にかなっている。
また、「行李」ひとつに身の回り品を詰めて出稼ぎに出てくるのですが、
その行李を収めるのにちょうど、窓下の収納空間が用意されている。
和室の広さと「押し入れ」という収納装置の大きさ寸法との対比で考えても
まことに合理的そのものの感覚であります。

この畳空間の手前側には土間があり、
そこを一またぎすると、大きな「広間」があり、
食事や語らいの場所として活用されている。
大きないろりがあって、暖房と食事の煮炊きに利用されていた。
こういった「出稼ぎ人」たちの空間体験って
その後の移住者であるわたしたち北海道人にも
ある意味で伝わっている部分があるのかも知れません。
北海道の現在の住宅では、ほぼ一体型の大空間指向が強い。
大きな吹き抜け空間や間仕切りの少なさという
「合理的空間感覚」は、暖房効率と合わせて考えるべき特徴かも知れません。

合理主義のマザーは日本だけれど、
その後の空間感覚は、北海道独自のもの、
っていうようにも言えるでしょうか。
いつも、こういう建物で感じていることです。

北のくらしデザインセンター
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