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古代国家の政庁

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写真は、民俗博物館の展示模型から
東北・宮城野の地に築かれた多賀城国府。
京都の御所のように、古代の国家施設は
このように基本的に方形に区画して、築地塀で周囲とを仕切って
神聖空間を内部に作る。
内部には、広大な庭が造作される、というのが法則的。
朝廷、という廷という言葉は、まさに庭を表しているのだそうで、
そこで、権力者の声を聞くというのが
アジア的な権力様式の姿なのだと思います。
この多賀城国府も、「遠のみかど」という位置づけで、
西の太宰府と似たような、朝廷権力の出張施設なのです。
東北各地に残され、現在も発掘が進んでいる国家城郭は
基本的にこのような建築的特徴を共有しているようです。
やはり、果たす機能において、
同じような機能を持っていたものだったからなのでしょうね。
古代世界において、このようなきれいな方形の敷地割りと、
まっすぐな築地塀の連なり、というものが
当時の人々に、どのように受け取られていたものか。
こんにちのわれわれが、田舎の風景として認識する田んぼや畑は
むしろ、繁華の象徴、生き生きとした経済活動そのものであり、
そういう耕作地は、新規獲得した領土ではなかなか見ることができなかったに違いありません。
追体験を想起してみると、
草深く、自然のままの田舎の風景の中に、
忽然と、こういう幾何学的な形態の建築物が出現している、
っていうような驚きだったのでしょう。
それは、東北の地生えの「蝦夷」と蔑称されていたひとびとにとって
初めて認識する「国家権力」そのものの具体的な形だったのでしょう。
こういう「政治」と、
国家施設周辺に整備された宗教施設などの、
「この世ならぬ」ような一連の建築物が、
蝦夷のひとびとの心には、名状しがたい、
理解しがたい存在でもあっただろうと思います。
平安の世が始まって、桓武という武断的な権力者が
「まつろわぬ」蝦夷のひとびとを「討ちて、獲るべし」と侵略していった
その最前線国家意志がこの多賀城だったのでしょう。
国家意志の側から見る見方と、
強制的に隷属させられた側から見る見方、
その両方を見ていかないと、歴史は正確には理解できない。
そして、こういう建築周辺で、
活発なひとびとの「日常」的な経済活動も営まれていた。
当時から、ずんだなども食されていたものかどうか(笑)。
この城下では、手前側に南下する道があり、
それが突き当たって、港や街道に連絡する道路が整備され、
その周辺が、古代都市を形成もしていたそうです。
いろいろな想念を呼び起こされるジオラマです。
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